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"「私は世界が平和ならそれでいい」"
それが、拳聖の口癖だった。
いつも飄々とし、空を流れる雲のように何物にも縛られない生き方。悪い奴を倒す。それだけの為に、幼き日から鍛えあげられた体術と拳。それは世界に並ぶ者なき豪傑と称えられ、いつしか人々から神話の世界に語られる"拳聖"という異名で呼ばれるようになっていた。
どの勢力にも属さず、与しない。
国。勇者。聖騎士。魔法協会。大聖堂。
その全ての誘い。或いは敵対行為。
それを、シオンは"屈託のない笑顔"と"信念のこもった拳"で拒否し或いは返り討ちにしてきた。
だから、今回も。
「拳聖。どうしても、こちら側につくつもりはないのか?」
「うん、ない」
吹き抜ける風。
それを頬に受け髪を揺らし、シオンは逡巡することなく頷いた。声の主である男。その姿を見据え、揺らぐことのない信念をその胸に宿しながら。
「私は世界が平和になればそれでいい。勇者とか魔王とか、興味ない。勿論、反勇者にも興味なんてない」
「……」
「そういうことだから。ごめん」
ペコリと頭を下げ。
くるりと、シオンは男に背を向ける。
その背を見据え、男は更に言葉を投げ掛けた。
「剣聖。魔聖。創造を除く勇者。その死が現実となった今でも、己の中立を貫くつもりか? 拳聖」
男の声。
そこにこもる、不快の意思。
同時にシオンは感じた。
突き刺さるような、男の殺気を。
「反勇者からしてみれば。あんたの確約が欲しい。勇者に靡かぬという確約がな」
「確約……か」
後ろを仰ぎ見、シオンは屈託のない笑みを浮かべる。
そして、なにかを悟ったように言葉を続けた。
「それって。どっちが勝っても、"反勇者の皮を被った魔物を狩らない確約"の間違いでしょ?」
「その、通り」
己の声の余韻。
それが消えぬ内に、男はシオンへと牙を剥く。
地に片膝をつき、その瞳を赤く瞬かせ――
「拳聖。お前が死ねば、我らの確約は果たされる」
はらりと剥がれるフード。
そして露になる、男の容貌。
闇色に穢れた髪の毛。
痩せこけた頬。
そして、どこまでも“人“を感じさせない鋭く尖った犬歯。
「勇者が消えた後の世界。そこで、魔王様の影。その下で俺は遠慮なく人という名の餌を狩り続ける。もはや、魔王様の勝利は揺るがない。そして、そこに中立などという存分はいらない。万が一にでも、魔王様が中立である貴様を赦してしまえばーーわかるよな?」
殺意という名の本能。
それに彩られた男の声。
その男に呼応し、吠え猛るは周囲の叢から姿を現した闇狼の群れ。
拳聖。
その最大の障害を、魔物たちはその視線の先に収める。
そして男は言葉を紡ぐ。
「さぁ、狩りの時間だ」
男の嬉々とした言葉。
それ合図にし、闇狼たちは一斉に駆ける。
後ろ足を蹴り、常人では捕捉不可能な速度をもって。
だが、シオンは微動だにしない。
いや、動く価値すらない。
拳聖にとってみれば、闇狼など光源に集まる羽虫程度の魔物なのだから。
己の捕食範囲。
そこに迫り、シオンに牙を突き立てようと跳躍する一匹の闇狼。
しかしその闇狼の捕食本能は、シオンの瞬きひとつで、被捕食者の忌避本能へと塗り潰されてしまう。
「……ッ」
空中で姿勢を崩し、地に墜落する闇狼。
そして、拳聖の眼光をその身に受け――
天敵を、抗いようのない差を感じる。
それに倣い。
シオンを狩ろうとした闇狼の群れ。
その魔物たちが、次々とシオンの眼前で立ち止まり怯えた鳴き声をあげてしまう。
その光景に、しかし男は嗤う。
立ち上がり、「紛うことなき、障害。はははッ、狩ってやる!! 俺はオマエを狩り尽くしてやる!!」そう叫び、再び姿勢を低くする。
そして――
「捕食」
そう呟き、男は全身に漆黒のオーラを纏わせた。
始まるは、一方的な狩り。
反勇者の衣を纏った人間。
その、またの名を、“餓狼”と呼ぶ。
拳聖は、その男を見つめゆっくりとその足を前に踏み出す。
そして、淡々と声を発する。
「餓狼」
シオンの声に反応し、男は漆黒を纏い疾走。
人の身でありながら、闇狼と同等の俊敏さと速度を手に入れた“魔物”の一角。
だが拳聖の前では、餓狼など相手にもならない。
シオンの眼前。
そこで、ステップを踏み背後に回った男。
そして、シオンの首筋へとその牙をめり込ませようとした。
だが、その刹那。
シオンは、“気配察知”をもって後ろを仰ぎ見。
「中立を舐めるな」そう呟き、すっと流れるように身を逸らせる。
そして、眼前で牙が空を切り姿勢を崩した餓狼のこめかみに向け、拳を撃ちつけた。
絶望的な、衝撃。
脳が震盪し、「ぁ……が」と声を漏らし、その場に糸が切れた人形に両膝をつく男。
白目を剥き、その数秒後。
男は前のめりに倒れ伏せ、小刻みに身体を痙攣させ、息絶える。
拳を解き、シオンは男から闇狼たちへと意識の矛先を変えた。
そのシオンの意識。
それに、周囲の闇狼の群れは我先にと拳聖の側から走り去っていく。
“天敵”
という二文字。
それを、自らの本能に植え付けながら。
その闇狼の忌避行動。
それを視認し、シオンは「ふぅ」と息を吐き拳聖の闘志をその身へとおさめた。
そして、何事もなかったかのように身体を反転させるシオン。
「学園の場所にでも行ってみようかな。なんだか勇者とセシルが居そうな予感もするし」
そう内心で呟き。
楽しそうに鼻唄をまじえながら、その足を踏み出した。
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