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ジークを殺す。
それが、時勇者の目的。
後に魔王となる被虐者。
その力は圧倒的で、情けも容赦もない。
崩壊した大聖堂。
そして、次々とその命を弄ばれ惨たらしい最期を迎えた勇者たち。その勇者たちを"悪"と断罪し、魔王側へと傾きつつある世界の人々。
もはやあの世界で、魔王を倒すことはできない。
そして世界を正常の形に戻すこともできない。
ならば――
こっちの世界で、ジークが力を持つ前に消すしかない。
煌めくナイフ。
それを懐に忍ばせ、カイトはその目に殺意を宿す。
足を踏みしめ、廊下を進むカイト。
軋む音。それが、カイトの歪んだ決意を彩るように周囲に染み渡る。
窓から差し込む微かな夕陽の残光。
それは、これから人を殺す時勇者の顔を朧気な赤色に染色していた。
ジークへの虐めを止める。
ジークではなく、後に勇者となる者を消す。
カイトには、そんな選択肢もあった。
だが、やはり。
カイトは、ジークを消すことを選んだ。
時勇者として、そうすることを心に決めた。
その理由は――
「ジーク」
自身の思考。
それを遮るように、カイトは声を響かせる
足を止めた、時勇者。
その視線の先。
そこにゆらりと姿を現したのは、濡れたローブを纏いぽたりぽたりと水滴を滴らせる被虐者だった。
震える、ジーク。
その様は、明らかに魔王のソレではない。
「……っ」
カイトの眼差し。
それに気づき、ジークは怯えた表情を浮かべる。
その目を魔王ではなく、敢えて被虐者の瞳にしながら。
カイトは嗤う。
被虐者を見つめ、自分の選んだ手段が正解だったことを心から喜ぶ。
そして、ジークへと言葉を投げかけた。
懐からナイフを取りだし。
その顔に加虐者の表情を称えながら。
「ジーク。今日、お前はここで死ぬ」
「か、カイト? なにを言って――」
「ここでお前は俺に殺される。わかったか?」
「お、俺がなにをしたって言うんだ? や、やめてくれよ」
ジークは被虐者を装い、後ずさる。
その顔に偽りの怯えを浮かべ、その内心で時勇者を嘲笑いながら。
しかし、カイトは未だ気づかない。
視線の先のジーク。
それが、被虐者ではなく魔王だということに。
「はははッ、やっぱりてめぇは虐められっこがお似合いだ!!」
声の余韻。
それを残し、カイトはジークのほうへと駆け出す。
ナイフの刃先と己の殺意。
その矛先。
それをジークに固定しながら。
ジークに近づく、なにも知らない時勇者。
しかし、ジークは未だ被虐者のフリをする。
そして、カイトの殺意という名の刃。
それがジークの喉に突き立てられようとした、瞬間。
軽く身を逸らし。
平然とその刃を避け。
そしてそれを掴み取る、魔王。
「……」
無言で、魔王の力の宿った眼差し。
それを魔王はカイトへと固定する。
その魔王の視線。
それを受け、カイトは「な……に?」と腑抜けた声を漏らす。
「さて、時勇者。答え合わせだ」
ナイフの刃を握りしめ、それを砕く魔王。
そして、ジークは更に言葉を続けた。
「てめぇの選んだ手段が正解だったかどうか。この魔王が採点してやる」
「じ、被虐者。お、お前はあの、虐められっこのはずだ」
先程までの勢い。
それを失せさせ、ジークを見つめるカイト。
「そ、遡行は成功したはずだ。時勇者の力は、た……確かに、発動された」
カイトの表情。
そこに生気は欠片もない。
あるのは、魔王に対する畏れのみ。
「な、なのに。なぜ、魔王がここに居る? お、お前は虐められっこのままで俺だけが勇者のはずだ」
そんな無様なカイトの問いかけ。
それに、ジークは応える。
「未熟な勇者風情ができることを、この魔王ができねぇとでも思ってんのか? なぁ、時勇者。残念だったな、てめぇの大好きな被虐者様がこの世界に居なくてな」
「……っ」
処刑される罪人。
それを思わせるカイトの表情。
「さて、答え合わせの続きだ」
カイトを更なる絶望へと落とすジークの言葉の数々。
それと呼応し、魔王に掴まれるカイトの胸ぐら。
僅かに浮き上がるカイトの身体。
カイトにはもはや、ジークに抗う術はない。
できることは、魔王に弄ばれることだけ。
拳をつくり、そしてそこに闇を纏わせるジーク。
拳を掲げ、その照準を合わせたのはカチカチと歯を鳴らし震えるカイトの顔面だった。
こんなはずではない。
こんな最悪の結末は時勇者が望んだものではない。
被虐者のままの底辺を殺し、魔王の存在をなかったことにする。
そうすることができれば、元の世界は平和を謳歌することができるはずだった。
被虐者が魔王になったという忌まわしき事実。
それをなかったことにすることさえできれば。
だが――
時勇者の選んだ手段は、己を最悪の結末へと導く破滅の選択だった。
べきッ。
カイトの顔。
そこへ真正面から打ち付けられる、魔王の拳。
それに合わせ、カイトは「へぐっ」と声にすらならない悲鳴を漏らす。
鼻が折れ、止めどなく滴り落ちる鼻血。
それはまるで壊れた蛇口から流れ落ちる赤黒い汚水のようでもあった。
だが、ジークの眼差しは冷徹そのもの。
「まだ、終わりじゃねぇぞ」
吐き捨て、ジークは崩れ落ちそうになるカイトの胸ぐらを強く掴み支える。
そして――
「自分の口で答えろ、カイト。てめぇの選んだ手段は成功か失敗か? まっ、魔王からすればてめぇが自分で選んだ手段で勝手に自滅してくれたことが最高の笑い種だがな」
そう言い放ち、ジークはカイトの頬に平手を飛ばす。
飛び散る歯と、鮮血。
その鼻と口から血を垂れ流し、カイトは涙目になる。
そこへ更に追い討ちをかける、ジーク。
髪の毛を掴み。ジークはそのカイトの顔を真正面から見据え、愉しそうに声を発した。
「遡行をしてくれてありがとな。おかげで普通にてめぇを殺るより数倍楽しめた。楽しめたおかげで、てめぇが失敗か成功かなんてどうでもよくなった」
「じ……じーく」
力無く、魔王の名を呼ぶカイト。
その姿に、しかしジークはその手を緩めない。
「生憎だがこっちの世界じゃ俺の力は完全じゃない。まっ、てめぇをなぶり殺しするにはこのぐらいが丁度いい」
淡々と言葉をこぼし、ジークはカイトの腹に力の限り拳を叩き込む。本来なら即死。しかし、力の弱った今のジークの拳で人が一撃で死ぬことはない。
カイトのみぞおち。
そこにめり込む、魔王の力を纏わないジークの拳。
純粋な苦痛。
それが、カイトの脳天を突き抜ける。
「ぅぐ……っ」
弱々しくなるカイトの目の光。
そして今にも意識を遮断させようとするカイトの本能。
だが、ジークはそれさえも許さない。
「まだだ。まだ、気絶するには早い」
「……っ」
「喜べ、ここでてめぇは殺さない。殺されるのはこの記憶をもったあっちの世界の時勇者様だからな」
そのジークの言葉。
それが意味することは、まさしく絶望だった。




