自尊心と自己評価の違いについて
最初に断っておくけれど、この文は本来Twitterなどでポエムを投稿しちゃうような痛い人間のポエムをただ長い文章に書き起こしただけである。
そして、小説初心者の僕は、こういうのをわざわざ物語にしてわざわざ遠回しな言い方で比喩してみたりするのが面倒臭く感じるので、論文のような形式で書かせてもらう。
さて、本題に移ろう。
まず最初に、僕が伝えたい事はタイトルにある通り自尊心と自己評価は違うという事だ。
この2つをもう少し具体的に言い表してみると、「自分に対する好感度」と「自分を客観的に捉えた時の自分に対する評価」は違う、といったニュアンスだ。
「そんなの当たり前だろう」なんて思う人も多いとは思うが、これが意外と感覚では分かっていなかったりする。
ここで1つ、僕の体験談を用いて説明してみよう。
まず、幼少期の僕は恐らく自尊心も自己評価も高かった。
前者に関してはうろ覚えなので定かではないが、後者は今の自分から分析してもとても優秀な児童に思えるので、恐らく自己評価は高かったし、自己評価が高いなら僕の性格上多分自尊心も高かった。
(こんな言い方をすると気持ち悪く感じる人がいるかもしれないが、そういう人は「コイツは今の自分に自信がないから昔の自分を高く評価しているんだな」とでも思っておいて欲しい。あと多分気持ち悪く感じるのは自分にも思い当たる節があり、同族嫌悪をしているからだろうからそのまま僕の気持ち悪い文と自分の心理を重ねて自己嫌悪に陥っておけ。)
次に、今の僕は自尊心はあるが自己評価はとんでもなく低い。
この時点で自尊心と自己評価が違うという事は分かるのだが、もう少し深掘りしてみよう。
前者は一回置いておき、自己評価が低いのは何故か。
それは単に僕がろくでなしになったからである。
子供の頃の出来というのは本人の努力はあまり関係なく、環境と遺伝子によるものが大きいというのが持論であるが、子供の頃に神童と呼ばれるような子供は努力が出来たか出来なかったかで将来の姿は大きく変わると思う。
そしてその落ちぶれたパターンの最たる例が僕な訳だけど、なまじ幼い頃に優秀だと褒め称えられていただけあって、そこから落ちた時の自分に対する失望はとんでもない訳だ。
そういう要素もあってか、自己評価はかなり低いのである。
ここでふと、疑問を抱くかもしれない。
自己評価は低いのに、なぜ自尊心は高いのか。
言い換えてしまえば、”自分をクズだと思っているのに、そんな自分のどこが好きなのか“となるだろう。
原因を考えてみよう。
1つ、自分の短所に目を瞑り、長所だけを見ているから。
結論から言うと間違ってはいない。
僕の周りの人間は自分のことが嫌いな自尊心の低い人が多いのだが、何故だか時たま自分のことが嫌いと言っている人にイラつく事があるので、そういう時は“僕は自分こと好きだけどねアピール”をしてみたりする。
ここまではただの気持ち悪いナルシストだとカミングアウトしているだけだが、面白いのはその時に出てくる言葉だ。
まぁ自慢話なので当たり前ではあるが、自分の良いところしか話に上がらない。
それどころか自分の短所は考えにすら浮かばないのである。
まともな人間ならば、いくら自己評価が高かろうと「自分はいい奴だ、けど短所もあるんだよな」といった具合で短所も一応考えには入ると思う。
ところがそうはならない。
これにはしっかりとした結論を出している。
それは、“自分を好きでいなければならないと思っていて、その為に自分を嫌いになる程の短所は無意識に目を瞑っている”からだ。
”自分を好きでいなければならないと思っている“に関しては後ほど触れるが、今大事なのは”自分を嫌いになる程の短所は無意識に目を瞑っている“という部分だ。
突然だが、先程僕の文章を気持ち悪いと思う人間は自分にも思い当たる節があり、同族嫌悪をしていると述べた。
ではなぜ自分と同じ特性を持っている人間を嫌うのだろうか?
僕が思うに、それは他人を通じて自分を客観視しているからだ。
自分を客観視するのは難しい。
もちろん、「他人の反応などから他人から見た自分の姿を想像し、修正しようとしていく」これが理想ではあるが、人間なかなかそうはいかない。
精神が疲弊していたり、はたまた未熟だったりすると、自分で嫌っているような特性でも気付かぬ内に持ってしまっていたりするものだ。
そういった時、人は他人を見て、他人と自分を重ねる事で初めて自分を客観視出来る。
そして自分も持っている特性が客観的に見たら嫌悪感のあるものだと気付く。
勿論殆どの人がそこでようやく自分を客観視し、修正しようと励んでいく訳だが、それが自分の事だと気付かない愚かで幼稚な人間は他人を攻撃する事で自分は違うと思い込もうとしたりする。
どうだい?君の周りにもそういう人がいるんじゃないかな?笑
話は脱線したが、今述べた通り、嫌悪感のある特性を自分が持っていると思いたくない人間は、他人を攻撃する事で自尊心を保とうとする。
似たような事が僕でも起こっているのではないだろうか。
“自尊心を保とうとする”という行動原理までは同じとして、その後はどうだろうか?
愚かで幼稚な彼らは、他人を攻撃し、自分の短所から目を背ける。
一方僕は、長所を自慢するうちに自分は素晴らしい人間だと思い込み、短所に目を瞑る。
やっている事は違えど、僕は自分が嫌っている愚かで幼稚な人間と同じレベルに立っていた訳だ。
同族嫌悪の恐ろしい所は相手と自分が同じレベルだと気付けない所なのだということを身に染みて思い出す。
さて、長くなったが”自己評価がとんでもなく低い“のに”自分語りでは長所しか出てこない“事に関しての理由はついた訳だが、これには1つ矛盾があるのである。
それは、結局のところ長所しか見ずに位置付けた自己評価は仮初でしかなく、本当は自分はろくでなしだという事に気付けてしまっている事だ。
勿論思い込みの効果は凄まじいもので、気分が落ち込んだ時一時的に暗示は出来るものの、冷静に客観して自己評価すると自分の本当の姿に気付けてしまうのだ。
なので、自分の中での長期的な評価になんら影響はなく、客観的な自己評価が出来ている時の自尊心が高い理由にはならない。
では、他の理由を考えてみよう。
2つ、相対的な自己評価とは別に、自分1人の自己評価があり、そちらを元に自尊心が形成されている。
これも少し難しい言い方なので、もう少し噛み砕いてみよう。
すると、“他人と比べた時の自己評価と、他人と比べる事なく、自分の中での基準を元に位置付けた自己評価があり、後者を元に自尊心を形成している”となる。
例えば学生だと、「校内順位は上がらなかったけれど、自分の中では頑張った方だと思うからオッケー」といった具合だろうか。
何か聞き覚えのあるフレーズだと思っただろうか。
そう、よくYouTubeなどで見かける「自尊心の高め方」的な動画で紹介されている“アレ”だ。
良し悪しはともかく、正直に言えばこれを出来る人は凄いと思う。
能力によって社会的立ち位置が変わる現代社会において、他人と比べない事はとてつもなく難しい。
中高生なんかだと”勉強“、社会人だと”年収““知名度”など、他人との差が数字になって表される絶対的な基準が多い中で、他人と比べず自分の中の基準で物事を量る事は難しいだろう。
特に学生時代のようにまだ精神的に未成熟、かつ学力という分かりやすい基準があると、それに縋ってしまいがちなのは世にいるウザい学歴厨達を見れば分かる事だ。
では僕はどうか。
「それが出来るほど大人ではない」が正解かもしれない。
そう思う理由は2つある。
1つは「そのやり方が好きじゃない事」、もう1つは「そもそもやろうと思ってもつい他人と比べてしまう事」だ。
まずは前者から。
先程、このやり方について感想を述べる際「良し悪しはともかく〜」と表現しているが、これには理由がある。
というのも、競争心を捨てているように感じるからだ。
勿論、相対的な評価も併せ持っているのでそう簡単に競争心を捨ててしまったりはしないだろう。
だが、一部の天才の除き、必ず自分が得意だと思っている分野において自分より能力の高い人間が存在する。
そんな世の中で、自分で自分のご機嫌を取れるのにわざわざ相対的な自己評価を持ち続けるだろうか。
僕が考えるに、それは難しい。
では、相対的な自己評価を捨てた後何が起こるか。
自分だけの基準を元に作られた自尊心は他人からけなされようと、諭されようと、自分が他より劣っていたところで揺らぐ事はない。
いずれは他人と競うことへの執着心、もとい生存競争における向上心がなくなってしまうのではないだろうか。
老人はその長い人生の中で、自分と向き合い、その境地に達している人が多いと思うが、そのような仙人の中で今でも競争社会に身を投じ、新たなことに取り組もうとしている人が何人いるか。
そう考えるとこのやり方は競争心を捨てているように感じてしまう。
と、長々ご高説を垂れたわけだが、これは自分がそうは出来ないが故に言い訳をしているにすぎない。
というのも、僕はこの問題に対する正解を知っている。
人間のアイデンティティーというのは何も一つの特徴だけで形成されている訳ではない。
僕の嫌いな学歴厨は学力、たまにいる優秀だけど嫌な性格をした社会人なんかは年収、何か一つの能力を絶対的な基準だと考えている人は確かにいるが、実際は絶対的な基準など存在しない。
実際のところ、それらの基準の重要性を決めているのは個人それぞれの感性だ。
婚活を例えにすると分かりやすいが、「年収はそこそこでいいから優しい人がいい~」とか、「顔!金!性格なんてどうでもいい!」という人も中にはいるだろう。
つまるところ、人間のアイデンティティーというのは一つの基準によって決まるわけではなく、その人の特徴全ての集合体なのである。
そしてその特徴の中で何が重要かを決めるのは自分であり、"全体的に人と比べていい人"という自分で決めれる曖昧な基準を満たしてさえいればいいので、何か一つで勝ち続けなくとも自尊心は保てる。
という事を理解しているにも関わらず、僕がこのやり方を出来ないのは僕の理想が高いからに他ならない。
過去と比べて落ちぶれた自分を受け入れるのは難しい。
競争社会において、勝者だった(少なくとも僕の中ではそうだった)過去を持つ僕にとって、なんでもない普通の自分というのは受け入れ難いのだ。
"僕を超える人間は常にいる"と分かっていたとしても、なんでもできる自分に憧れてしまっている。
つまるところ、"全体的に比べていい人"にしか収まらない自分を許容出来ないということだ。
そういう理由があって、僕はこのやり方が好きではないし、出来ないのである。
今まであげた「自己評価が低いのに自尊心が高い原因として考えられる事柄」2つは、どちらも自己評価に関わる事だった。
本質的に言えば、どちらも仮初の自己評価を作るという方法だ。
結論から言うと、僕の場合自尊心の高さと自己評価は関係ない。
では本当の理由はなんなのか、考えてみよう。
3つ、自尊心が高くなければならないと思っている。
ここまで付き合わせて悪いが、今までの2つはほとんど茶番のようなもので、本当の理由は分かっている。
(じゃあ最初からそれを書けよって話だろ?わかる)
1つ目の時に少し触れたが、どういう事なのか。
自分でも最近気付いたばかりなのだが、僕の根本には加害者意識がある。
言ってしまえば、全部自分が悪いと思ってしまうのだ。
「だったら逆に自尊心が低くなるのでは?」と思うだろう。
自分が悪いと思っているのに自分を好きでいなければならないと思っているという、ある意味矛盾とも言える感情を抱えているのは、ひとえに被害者ズラした人間が大嫌いだからだろう。
僕個人の感性であるが、人間関係の殆どのトラブルにおいて、自分が100%被害者な状況など全くと言っていいほどない。
常に自分にも非はあり、そこを見つめる事で相手に改善する事を求めなくとも人間関係がスムーズになる事がある。
にも関わらず、自分が常に被害者であると考え続け、自分を改善する努力をしない。
僕はそんな傲慢な人間にはなりたくないし、はっきり言って嫌いだ。
さて、個人的な怨嗟を語らせてもらった訳だが、では被害者ズラするのが嫌いなのがどうやって自尊心を高く保たなければいけない事に繋がるのか。
先程述べた通り、僕は加害者意識を持っている。
例えば君が誰かに傷付けられた時、相手がそれについて気を病んでいたらどうするだろうか?
間柄にもよるだろう、でも僕の場合相手が相当のクズでもない限り相手を責めにくい。
ではその結果どうなるだろうか。
被害者は傷付けられた末、更に我慢する事を強いられる。
僕はその、被害者が加害者に気を遣わなければならないという状況が本当に嫌いだ。
だからこそ、加害者は加害者らしく。
そう、他人から責められても何ら傷付かないような、自尊心の高い人間でなくてはならない。
と、加害者意識を持っている故に自尊心が高くならなければならないと思っているという事、もとい自尊心が高い理由については解明し終わった訳だが、僕が加害者意識を持つ理由について語らせてはくれないだろうか。
こんな気持ちの悪い小説をここまで読んでくれた忍耐強いの君ことだ、あと少し付き合ってもらうくらい大したことはないだろ?
”生きているだけで他人に迷惑をかけている“
実際のところどうなのかは置いておいて、そう思ってる人は沢山いることだろう。
僕もその内の1人だ。
僕の場合、それだけには留まらず“生きているだけで罪”とさえ思っている。
僕は努力が出来ない。
いや、出来るのかもしれないけど苦手だ。
そんな人間性をしているのに、やれば出来るというレッテルを貼られ続けている。
実際そうだ、やれば出来る。
なんの分野においても大体やれば出来るほどには才能を持って生まれてきた。
だけど、やらなくても出来るほどの天才ではなかった。
時々思う、「この才能を誰かにあげれたら」と
傲慢な悩みだと思うだろうか。
だが僕にとってはとても切実で、僕が今日も才能を腐らせている間にも、世界のどこかでやっても出来ないと悔やんでいる人がいる。
代わりに誰かが僕の人生を歩んでくれたら、この才能と環境を余す事なく発揮できたなら、親もさぞかし喜ぶのだろう。
どうせ努力を出来ないのだから、もっと劣悪な環境で、もっとダメな人間として生まれていたら。
そうしたら、出来ない事がやらない事への言い訳になっていただろうか。
自分の人間性へのネガレクトなんてのは、大体の人が少しは思い浮かぶものだろう。
それこそ、“生きているだけで他人に迷惑をかけている”と思っている人なんて、全員がそうなはずだ。
ただ僕がそれらの人達と違うのは、それらの思考のすえ芽生えたのが被害者意識ではなく加害者意識だった事だ。
勿論、生きる事に罪の意識を持っているような人達が一切加害者意識を持っていないなんて事はないだろう。
だが僕の経験上、少しでも被害者意識を持っていれば被害者ズラをしてしまうのだ。
例えば、自分の事が嫌いなんて言ってみちゃったり。
実際ちゃんと嫌いなんだろう。
けれど、自分で自分を嫌いだと思う事で実は救われているっていう事に彼らは多分気付いていない。
自分の事が嫌いだと思うほどに、自分で自分を責めるほどに追い詰められた自分なんてのは、被害者に他ならないのだから。
これは自分の事を救えなかった人によるただの嫉妬かもしれないけれど。
そう、僕はそうはなれなかった。
またしても、僕は自分の才能に牙を剥かれた。
気付いてしまったのだ、自分で自分を嫌う事は結果的に救われているんだと。
”加害者は加害者らしく“
そうやって救われる事も出来ず、僕は今日も完璧に加害者を演じる、本当は救われたいのに。
もしも自分自身の定義を定める時、ゲームのように、体を動かしている主人公と、その意思決定をしている操作の主を別だとして考えるなら、僕の魂は僕の事が嫌いだ。
もし僕と同じアイデンティティーを持った人がいたのなら、私は間違いなくソイツを嫌いになるだろう。
いつが自分を本当に好きになれるのだとしたら、私が呪いを解いた時か、僕がろくでなしではなくなる時なのだろうと思う。
出来ればその両方だと、一番救われるのだが。
ではそろそろ締めに入ろう。
この小説での僕の目的は主に、加害者意識に耐えて普段は救われない可哀想な被害者の僕の精神を小説を通して理解してもらい、僕自身が救われる事だ。
この小説を最後まで読むという事は、恐らく僕の精神を理解する事で勝手に成長できる優秀な人か、わざわざ小説を用いた精神の自慰行為に付き合ってくれた相当なお人好しのどちらかだろうから、こんな事しなくても勝手に学んでくれるだろうが、この小説が少しでも多くの人の参考になってほしいとは一応思っているので纏めさせてもらう。
この小説は、タイトルにある通り自尊心と自己評価は違うというものだ。
その歪みは今回あげた3つ以外の原因でも起こるだろう。
大切なのは、その原因を自身で理解することではないだろうか。
原因を理解しなければ、僕のように偽りの自尊心に気付けない事もある。
自身の認識に対し理解を深める事で、初めて真の意味で自分を好きだと言えるのではないかと僕は思う。
最後まで読んでくれてありがとうございました。
小説を書くのは慣れていないので、時々自分自身でも荒削りだと感じるような文ですが、楽しめて頂けたなら幸いです。誤字報告やコメントなど気軽にしてくれると嬉しいです。この自分語りがあなたの役に立つ事を祈ります。