ひとりきりの部屋にて〈ヨネリ〉
「業村くん!」
そうよ、この子は業村ゴウシ。私がつい最近2月末まで担当していた高校生。4月からは高2になるのよね。
そうよ! この子落花生高校だったっ!
やばし。私の赴任先じゃない!
「あっ‥‥‥帰るところなの? 業村くん」
「違うよ、行くとこ。楽しいのはこれからじゃん。渋谷行ってくる。うぇーい!」
「だね、でも余り遅くならにようにね? パトロールしてるわよ。春休みだし」
私はギャル系家庭教師を売りにした人気講師だったから生徒は私に親近感で話しかけて来る子が多かった。
"数学" と "見かけギャル" っていうギャップが面白いらしくて。
「わかってるって。終電までには帰る、じゃあねー、せんせー」
はぁぁ~‥‥‥‥お金持ちの無邪気な男の子。
親、当たり。
私が高校生の時とはえらい違いね。
いまだに暗い過去が ふと私の顔を覗いてくる‥‥‥
ああ、そんなことより、大問題が露見したわ!
だけどこれは不幸中の幸いよ。
このまま落花生高校に赴任していたら、あの子に入れ替わりが見破られていたってことよ?
今度の学校の先生方はたぶんイネリを知らない。
新しい学校では私がヨネリだってバレない方に気を使わなきゃなんない。現に私のこと知ってる生徒が現れた。
他にも私を知っている子がいる可能性があるわ‥‥‥
だって私はもう5年近く塾講師と家庭教師をしているんだもの。落花生高校で以前の知り合いと会ってしまう可能性は十分あり得るよ?
私は考え事しながら電車に揺られていた。
やっとのこと自宅マンションにたどり着きエントランスでオートロックの番号を押す。
エレベーターに乗り、やっと自宅の扉の前。
「ただいま‥‥‥」
カギを開けても中は暗い。
ヨネリがバンコクへ行ってしまってから家に帰っても明かりはついている事はない。
私はいつのまにか26才。あれ、誕生日来たっけ? もう27かも。
男とは遊びの付き合いしかしてない。
このまま一人で生きて行くつもり。
あの親を見ていた私は、結婚に憧れなんてないの。
重い荷物を上がり口に置きっぱにして洗面所に向かった。
「あー、もうやだぁー‥‥‥」
疲れきってソファーに沈み込んだ。
ケータイには遊び友だちから今夜の飲み会のお知らせが来てた。
ユーザーネームのみで付き合う遊ぶだけのグループ。私はイネリになりきる以上、この人たちとはもう手を切った方がいいね。
お互い刹那主義の無責任な快楽共有フレンドなんて、失ったって何の痛手もない。
面倒いからいきなりグループからは退出しておいた。
コチャはミュートに。
私は気だるく立ち上がり、冷蔵庫を開く。
‥‥‥牛乳とヨーグルト & 缶チューハイしかない。
手軽にピザでもオーダーしようか。一人では食べきれないけれど。
届くまでの間に手早くシャワーを浴びる。
3月では湯船がないと寒いけれど、イネリもいないし用意するのは面倒。
ぬくぬくのこたつに入り、届いた温かいピザをかじり缶チューハイを喉に流し込みながらこれからのこと、落花生高校の事を考える。
今日の変装ではダメだった。
あれでイネリと付き合いの浅かった同僚は騙せたけど、私の知り合いは私だと認識してしまう‥‥‥
どうしよう。
「‥‥‥‥‥もう、いっそのこと私ともイネリとも全然違う人になってしまおうか?」
私はお気に入りの白い子ネコキャラのぬいぐるみに話しかける。
「ねぇ、どう思う?」
両手で目の前に掲げたキテュンちゃんの黒い大きなお目目は賛成してくれてるみたい。
「じゃ、決まりね、キテュンちゃん」
いつのまにか空きカンが5本もたまってる。あの大きなピザも無くなってた。
イネリがいなくなってから私の生活は自堕落気味。
そのままこたつで寝てしまった‥‥‥‥
夜中、トイレで起きた。
嫌だ、私ったら。こんなところで寝てしまって体調を崩したら大変だわ。
だって私は一人きり。誰も助けてくれる人なんていないのに。
私は寝ぼけまなこで歯磨きしてからベッドに入り直した。
なのに布団が冷たくて目が冴えてしまった。
それで考え事に耽った。
私は、この土日の後は早速落花生高校へ出勤しなければならない。
私は2年1組と2組の副担任という辞令を受けている。
担任の補佐と古典の授業。
私はイネリの身代わりをすると決めた去年の年末から、勤めていた学習塾の古典の指導要項を熟読し、メジャーな古典は全て読破し、疑問点は古典の古谷講師に質問して教えを受けていた。
彼は私が入社した時には、古典なのに塾内一番の人気講師という立ち位置にいた。私の3つ先輩らしい。学生のみならず、一般教養を学びたいという大人からも指名されていて、予約が取りづらいほどの忙しい人だったけれど、仕事が終わった後、近場で二人で飲みながらとても親切に指導してくれた。無料で。
『突然どうしたの? 数学の先生が古典に興味って珍しいね』
なんて古谷さんから言われたから、源氏物語のマンガを見て興味を持ったと、出任せを言った。そんなの読んだことないけど、イネリが持っていたので。
『そうなんだ。じゃあタイでも是非日本の奥深き古典文学を広めてくれたら嬉しいね。戻ってきたらお返しに僕に数学を教えてれれば貸し借りゼロだよ。知識はネットで得られるけれど、それだけじゃだめだ。間違って覚えてしまっても気がつかないからね。なんでも僕に質問していいから』
などと言って私が退職する2月末までとても親切に教えてくれた。
だから古典授業に関しては自信があるのよ。
問題はやはり‥‥‥‥




