イネリの為なら火の中水の中〈ヨネリ〉
「でも‥‥‥私は休職中なだけなのよ。勝手に海外に行ってしまうなんて。3月には転任になる可能性が高いし、来年度4月には復帰しなければ退職勧告されるかも」
希望にすがりたいけれどすがれないジレンマで、イネリのその表情は、中途半端な笑みと悩ましげな顔が入り交じってる。
「大丈夫よ。私が何とかする。細かい引き継ぎをしておいてくれさえすれば私なら出来る。私はイネリのお姉ちゃんなんだもん。イネリだってそう思うでしょ?」
「‥‥‥よっちゃん、ホントにいいの? 私、カラルさんを追いかけて行っても」
「当たり前よ! もう私たちは自由なのよ。今までの分をとりかえさなきゃ、その為には多少の狡猾もやむ無しよ。これは他人に迷惑かける訳でもないし。イネリだって場所を変えれば心もリフレッシュ出来るよ、ね?」
「‥‥‥うん、でもよっちゃんに迷惑だよ」
「‥‥‥イネリが元気になって幸せになることが私の最優先よ」
泣かないで、イネリ。
私はイネリを抱き締める。この子は私のかわいい雛鳥だったの。
私になついてるホモ・サピエンス・サピエンスという形をした大切な私のペット。
私は、かわいい愛玩動物のためならなんだって。
誰だって親より自分のペットの方が可愛くていとおしいし、自分の命だって懸けてしまうものよ?
ほら、かわいいペットを救うためなら燃え盛る炎の中だって、臆ざず飛び込めるものでしょう?
私の人生、この子を置いて逃げ出すとか、死ぬとか、想像しても無理だった。
私が今までなんとか生きてこれたのはただ、この子を守りたいがためだったんだもの。
でも、この子はもう成長した。もう雛鳥じゃない。私から旅立つ準備をすることがこの子の幸せなの。
私はいつだってこの子に最善のことをしてあげる。私の寂しさと切なさには蓋をして。
イネリの幸せが私の幸せだから。
私とイネリの入れ替わりの準備はそれなりに大変だった。
海外に行ってしまうイネリなら、向こうでは初めての人ばかりだろうから、なるべく過去の出来事を他人に話さぬように心がけ、関わる人数も狭く浅く心がければとりあえずは大丈夫だろう。
だけど私がイネリに為り代わるとなったらそう簡単にはいかない。
私はイネリのプロフィールも性格もよく知っている。
でも、私的な交友関係や、仕事上での同僚のことまでは私にはわからない。
旅立つ準備の手始めに、イネリには友だち方面に『うつ病で療養することになったからこちらから連絡するまでそっとしておいて欲しい』と連絡させた。
私的な部分はこれでいい。万が一、バレたとしても私を責めたり窮地に落とし入れようなんて人はいないと思う、とイネリも言っている。
もし、イネリを困らせた人はこの私が放ってはおかないけどね。
問題はこっち。仕事上の人間関係の方よ。
仕事上のことは、環境も人関係も、今までの出来事もなるべく詳しく知っておかねばならない。
新しいケータイを用意して、イネリの学校での仕事関係の連絡先はすべてそこに変更しておかなければならない。
休職中とはいえ学校とは連絡はしなければならないし、病気休暇が認められてる3月以降は復帰しざるを得ないかもしれない。
私は数学講師で、イネリとは専攻教科が違う。私にとって高校の古典くらい わけないけれど、教えるとなったらそんな知識ではさすがに足りない。早急に専門的な勉強も必要だ。
とにかく、イネリがいるうちにやっておかなければならない事を片付けよう。
まず、私はイネリに為り代わるために、イネリが今まで話したがらなかった休職となるまでの鬼胡桃高校でのいきさつを聞くこととなった。
イネリは話すのをためらっていたけれど、これがわからなければ私はイネリの振りなど出来やしないし、イネリだってカラルさんを追うことは出来なくなる。
イネリがしぶしぶ話したそれは、驚くべき因縁というか、数奇な巡り合わせというか‥‥‥
イネリの教え子の中にあの宇良川ルルスがいたと言った。
イネリがその名前を知っていたことにも驚いた。だって私は、イネリには父の隠し家族についての具体的な事はほとんど教えていなかったから。
父の生命保険金を贈与するなんて生臭いやり取りに、まだ高校生だったイネリを関わらせたくはなかったし、向こうの具体的な情報など、知らなくていいと思っていた。
私たちと半分血の繋がった姉妹。
私は名前だけでその子の顔は知らない。その子は私と同じ目をしているってイネリは言った。
イネリはその子に肩入れし、それなのに噛みつかれてしまったらしい。
まったくイネリらしいというか‥‥‥‥‥なんだろうね? はぁ‥‥‥
まだ見ぬ私の妹。
なかなかやるじゃない? なんだか興味が湧いてきちゃったわ。
私も早急に自分の方の身辺整理をしなければならない。
自分の仕事は、自分磨きのため語学留学すると理由をつけ、受験がほぼ終わる2月末で退職することにした。残念がられたけれど、いいの、代わりなんていくらでもいるのだから。どうせ社交辞令よ。
この世に、絶対的に必要な人なんているわけないでしょう? いくら引き留められたって代わりは探せばいくらでも。
11月中旬に出発したカラルさん。
イネリはカラルさんから落ち着いたと連絡が来た12月中頃に旅立って行った。
残された私は、私の使命を果たすべく落ち度無きようイメージトレーニングを繰り返し、服装、メイクなどシミュレートし万全を期した。
そして、年が明け、2月の中頃になって、校長から打診が来た。イネリは休職中に異動希望を出していたため、確認の連絡だった。
私はイネリのためにもちろん異議など唱えず、体調もほぼ回復しつつあり、全て内示に従います、と答えておいた。
そして3月中旬、私は落花生高校へと異動することと内示が出た。
私は私がイネリでないとバレないように鉄壁の鎧兜をまとう用意は出来ている。
私はイネリと似ている眉を生かしたメイクをすることした。
イネリっぽさを残しつつ、目の下にクマを作ってやつれさせ、やつれを隠すと見せかけたやや濃い目のアイメイクがベストだと結論した。これでマスクをすれば良くない?
あの子が戻って来て、また入れ替わる時は、イネリはいっそのこと素顔をさらせばいい。
急激に変わった方がイメチェンしたって思われるだけで済むんじゃないかしら?
素顔とメイクの顔が別人って人、結構回りにいるのよね。
リアルに素顔さらして馴れ馴れしく話しかけられて、コイツ誰っ?ってなったこと数回あったもん。
洋服はイネリが残したものを着ればいい。
全く私の趣味ではないコスチューミングだったのだけれど。
あれからギャル系に変身していた私と正反対の清楚なままのイネリ。
このネイビーのスカートと白いブラウス。
姿見に映した自分の格好を見て思う。
これでイネリだってみんなを騙せるのかしら‥‥‥‥
予行演習も出来ないし、不安は残る。
大丈夫、鬼胡桃高校の先生方さえクリア出来れば後は何とかなるはずよ!




