甦る記憶その5〈イネリ〉
お父さんの部屋。
お風呂から上がったばかりでまだ上気した顔のお父さんと対峙しているよっちゃんと私。
『正直に私たちに説明して貰えるかな? 一応まだ私たちの父親なんだから』
『・・・父さん、実は再婚を考えている』
『・・・知ってるよ、そんなこと。ねぇ? 自分だけあっちの家族と幸せになるつもり? あんたとあの毒母は同罪だっていうのに。あの女が死んだ所で私たちの過去の蝕まれた時間は戻らない。それでもね、私たちの前から永遠に消えてくれたことは喜ばしいことよね。お互いに、ね?』
『・・・・・』
『ねぇ? 認識しているのかな? あの女と同調して私たちを苦しめてきたあんただって同罪なのよ?』
私はその時、よっちゃんから果物ナイフを顎下の脇の頸動脈に突き付けられた。
これはキッチンから持ち出した普段使っているナイフ。
よっちゃんの右手にはゴム手袋の上に軍手がはめられてる。
私の肌にぐいっと食い込む冷えたナイフ。
でも、食い込んでるのはナイフの背中。
それでも私の頭はクラクラと軽いめまいを感じてる。
息が・・・・・苦しい。
喉がごくりと鳴った。
この緊張感。非日常となった空間。これは予定調和の死への入口?
ううん。私はよっちゃんを絶対的に信じてる。
『・・・落ち着いて、ヨネリ。止めるんだっ!』
お風呂から出たばかりの ほてった顔を今は青く変え、強ばらせながらお父さんは言った。
『あら、私たちの事はどうでもいいんじゃなかったの? 邪魔なんでしょう?』
『そんなこと、あるわけ無いだろう!』
『・・・本音を話そうよ。お父さん。これは伊達や酔狂でやってる訳じゃないし。さあ、私とイネリがここで死んだらどうなるかしら? 再婚どころじゃなくなるね。ふふふっ』
『そのナイフを捨てなさいっ! ヨネリっ』
『・・・それは残念ながら無理ね。お父さんが私たちのこと、ほんの少しでも考えてくれてたなんてね、今まで全く気がつかなかったわ。もし、私たちの事を思ってくれてたのなら、なぜあの毒母を止めてくれなかったの? お父さん。たった一千万で私の苦難の20年間が償えるとでも思っているのかしら? 私の失われた時間が。もっとも輝くべきだった貴重な子ども時代を失った代償が!』
『あれは・・・父さんの方針じゃなかった。父さんがいくら言っても聞く耳をもたなかったんだ。あの人は・・・』
『だから放置して自分は外で素敵な家族を作り直したのね。私たちを見捨てて』
『・・・それは・・・父さんは決して見捨ててはいない』
『口先だけでは何とでも。本当に私たちのこと思っているか今からの行動で見させて貰ってもいいかな?』
『ナイフを下ろしなさい! 金が欲しいのか? だったら、母さんの保険金は全部くれてやる! それでいいだろう!』
『はぁ・・・全くわかってないな・・・私が一番に望んでいるのはそれではないよ? お父さん。・・・・・私、落胆したわ。もうイネリは部屋から出てっ』
よっちゃんは私を解放し、今度は自分の頸動脈にナイフを当てた。
私はよっちゃんから無理やり部屋から追い出された。
私はばたんっと閉められたドアに背中を預けると、そのままズルズルと座り込んでしまった。
中から二人の会話がもごもごと所どころ聞こえる。
『償う気持ちがーーーーーーの保険金でーーーーーあっちにもーーーーーー約束するーーーーーーーーーー』
『許してーーーーーーーーーー』
『もし、あんただけがーーーーーーーーーー私とイネリはーーーーーを呪いながらーーーーー』
『落ち着ーーーーーー』
『あんーーーー幸せになんかさせないかーー明日の朝までにーーーーーーーーーーーーこれは本気ーーーーークローゼッーーーーーーーー』
よっちゃんがドアノブをカチャリとした音がしたので急いで這いつくばってドアの前から退いた。
よっちゃんはするりと隙間から廊下に出ると、部屋の中に向かってひとこと言った。
『私、この世に生まれてきた事を心底残念に思っているの。だから私はいつ死んだって構わない。どっちにしろ、あんたが生きていたところで不幸しか残らないのよ』
床に手をついたまま見上げたよっちゃんの横顔に私の背筋はぞくりと震えた。
突き付けた最後通牒。
『いっちゃん、これを飲んで落ち着いて』
よっちゃんは暖かいホットミルクを用意してくれて一緒に飲んだ。
その夜はよっちゃんと一緒に寝た。
『さっきはごめんね。首は痛くない?』
シングルベッドに枕を二つ並べて、よっちゃんは並んで寝ている私の首の頸動脈をそっと指でなぞった。
私が黙って小さくうなずくと、
『私が今も生きてるのはいつもイネリがいてくれたからなのよ。さ、寝よう。おやすみ・・・いっちゃん』
よっちゃんは仰向けに向きを変えて目を閉じた。
『うん、おやすみなさい・・・』
私はよっちゃんの左腕を抱えて目を閉じた。
何だかとても眠くなっていた。
私はしゃべるのも面倒なくらい眠くて、まぶたが勝手に落ちてきてすぐに眠ってしまった。
よっちゃんが私を追い出した後の、部屋の中でのお父さんとの会話ははっきりとはわからないけれど想像はついてる。
あれが生きているお父さんを見た最期。
私の頬にはとめどなく涙が伝う。なのに不思議なことに、私の心は全然悲しみは感じていないのよ。これってどういうことなのかしら?
自分でもわからない。
私が高1の時に起きた、2月の悲劇。
私が頼れるのはよっちゃんただ一人になった。
でも、それは私が幼き頃からずーっと神様にお願いしていたシチュエーション。
あの幼き日のお風呂場での契りが完遂された日。




