いつしか失恋男子〈古谷〉
「出来たよ! ナガヨネ先生」
相野さんが得意気に、ピランとプリントを永井さんに掲げて見せた。
これは多分明日提出の宿題の分だね。
「見せて‥‥‥‥」
永井さんはそれを受けとるとじっと黙読してから微笑んだ。
「全部合ってる! 大丈夫」
「わーい!」
「じゃ、これはその続きの解答よ。でもね、ただ何にも考えずに文字を写したらダメよ。赤字で書いといた解説も見てね。それでもどうしてこうなるのか理解出来ないならすぐ声をかけてね」
永井さんはごちゃごちゃ書き込んだ紙を一枚、相野きららに渡した。
「うっわー! すっごーい! こんなのすらすら解けるなんて、ナガヨネ先生ってホントに先生だったんだぁ? なんかカッコいいかも」
「‥‥‥数学が解らなくなるのはきららちゃんのせいばかりではないよ。私が思うに、こういうプリントの問題ってまるで数学者の独り言のようだもの。それを解けって言われてもね、つまんないよね。わかるよ? きららちゃんの気持ち。うふふ」
いたずらっこのような笑みを浮かべてる永井さんの横顔が見える。
「でも、解ければ楽しいよ? それに、解にたどり着く道筋は私の書いた方法以外にもいくつもあるよ。きららちゃん、周りが出来ない事が出来るって、人生でもとても有利なのよ。頑張って! 私がついてるうちに」
「はーい。じゃ、やってみるね」
また二人はテーブルに向かってそれぞれやり始めた。
「‥‥‥ねえ、先生、ここ何でこうなるの?」
「‥‥‥ああ、各項の分母のルートを外す有理化ね。このままじゃ計算面倒くさいでしょ?簡単にするためにこのカッコの中のプラスをマイナスに変えた同じ式を上下にかけるの。中学でやった因数分解の公式覚えてる? ‥‥‥‥そうそう、それよ! この場合それを利用してるのよ」
「きゃー! スッゴい! きらら解っちゃったよ! マジで」
「その調子! さあ、もう30分しかないよ? 時間内でなるべくたくさん片付けちゃおう!」
「わかった! 先生すっごーい! きらら意外と数学イケてるかも」
もう大丈夫だろう。僕たちがここにいる意味もない。
邪魔になるだけ。
エントと僕はふと顔を見合せエントがうなずいた。
僕たちは静かに退出した。
その日以来、相野きららは毎週通って来るようになった。
もちろん永井さんを指名して。
永井さんはデビューしてから人気急上昇で、予約も誰よりも早く埋まってしまう人気講師となっていった。
エントは後輩に、瞬く間に越えられて、複雑な心境かと思いきや、永井さんに対してはライバル心は全くないらしい。僕が研修教官をしたから当然だの何だの恩着せがましく言ってる。
永井さんも謙虚な人だからね。『はい、そうかもしれませんね』、なんて社交辞令的な受け答えで流してる。全肯定してないとこが心理を表してるよな。
エントの個性?
丹治エントが入社時に会長から指定された個性はね、"アニオタ" だったんだけどね。実際エントはアニオタだし、まんまだったんだ。
で、それってそういうのが好きな男子生徒には受けて指名が入ってたんだけど‥‥‥
残念ながら、特に女子生徒からの受けがめっちゃ悪くてさ。
女子の間で、あの先生キモいだのヤバい人だのと コソコソ避けられ始めるという悲劇が起きたんだ。
半年後、エントが会長に個性の変更を申し出た。
会長はニヤニヤしながらこう答えてくれたとか。
『あれ、まずかったかなぁー? ごめんね、丹治くん。だってさ、丹治くんのレジュメの趣味のとこに "アニメと数独" って書いてあったよねぇ? だからいいかなーって思ってさ。丹治くんだって最初は喜んでたじゃないか。ま、講師が生徒に嫌われたら私だって困るからね、では君は今日から "熱血漢" だ! 熱き男となって明るく楽しく塾生を導いてくれ!』
それ以来、エントは白い三本線の入った上下黒のジャージが仕事着となり、今日も暑苦しく生徒たちに数学を語っている。
これはこれで生徒たちにクスクスされてはいるけれど、それは好意的なクスクスで、エントの授業を一回受けるとはまってしまう子もわりといるみたい。
僕もこの個性は明るくおしゃべりなエントには合ってると思う。
それで、永井さんが講師デビューして初めての冬を迎えた12月、街のあちこちでクリスマスソングが流れ始める頃、エントは永井さんに、なにげなくさりげなく聞いてみたらしい。
『もうすぐクリスマスだね。永井さんはもしかして彼氏とリア充ってやつ?』
『‥‥‥いえ、私彼氏いませんから』
『‥‥‥へぇー‥‥意外だなぁ。じゃあさ、永井さんってさー、もし付き合うとしたらどんな人がいいの? 身近で言うと誰とかある?』
『‥‥‥別に。敢えて言うなら職場の人ではないのは確かです』
エントはそのこと黙っていたんだけど、三日後、ついにガマン出来なくなったらしくて、無理くり僕を飲みに連れて行ってその時のことをぶちまけてくれた。
あ”〰️!! それってエントは完全振られてるじゃんか!
ついでに僕も!
その年のクリスマスは‥‥‥エントの部屋で男二人で宅飲みさ。
チューハイ片手に失恋男同士慰め合うという哀れな僕ら。
酔っ払ったエントのマシンガントークはヤバいんだよなー。
二人きりだから受けは僕しかいないわけで‥‥‥‥
悲しい? いや、でも意外と楽しかったクリスマスの思い出だ。




