永井さんのセンシティブ〈古谷〉
僕たちの学生への授業は完全なマンツーマン授業だ。
わからないところはその1コマの時間90分以内に解決させるのが鉄則なんだ。
どうしても時間内に理解出来ない場合は後日、塾のウェブの質問箱に入れると解説の返答が貰える。
ここは宿題は極力出さない主義だ。
それは学生さんの負担になり過ぎるから。
彼らはただでさえ学校の宿題や部活にも追われているからね。
そういう意味ではここは学生にやさしい塾なんだ。料金も明確だしね。
ここのシステムは全て明快だ。
顧客は電子マネーで購入した授業チケットと、オプションで講師指名チケットを併用して、好きな時に空いているコマをネットで予約できる。
塾生は希望する講師を指名してもいいし、特にこだわりが無い場合は誰が講師になるかはランダムだ。といってもお互いに相性があるからその辺はその時の状況に応じて講師同士が相談して決めてる。
大抵同じ子に同じ講師がつくことが多い。
一度塾生登録さえされれば、単元別だけでの受講も可能で、苦手な単元だけコース別に教えてもらうことも可能だ。
もちろん希望者は Meet でオンラインでの指導も可能だ。基本、対面が望ましいけれど。
スペースが区切られているとはいえ、教室内での対面だと、周りの努力してる人の姿も見えてインスパイアされるし、講師が実際に横にいておしゃべりしながら教わった方が楽しいだろ?
ここは、はっきり言って他の学習塾よりリーズナブルとは言えないけれど、それでも人は集まっている。
ここの塾生は、みんなが難関目指してただ猪突猛進突き進んでる訳でもない。
それぞれの学ぶ目的に合わせて指導するから画一的な教え方はしない。講師との会話を楽しみながら学ぶ。それが甲斐会長の流儀。
それが "甲斐アミューズメントエデュケーション"
今日で5月も終わりの月曜日、朝9時。
僕は今日、オフィス一番乗りで出社した。
今日から講師デビューの永井さんの予定が気になって。
外からの予約フォームでは空きの有り無し状況はわかるけれど、オフィスからでないと誰からの予約だとか、細かい情報はわからないから。
昨日、永井さんたち5人の新人の講師デビューが決まり、ついに我が社のホームページの新人講師紹介欄に写真とプロフィールが正午ジャストにアップされ、授業コマ割り予約表にも名前が追加されたんだ。
どれどれ、永井さんの状況は‥‥‥
予約は前日の正午までで締め切りだ。だから昨日の午後に講師に追加された永井さんの指名での授業は早くて明日から。
今日は彼女は一般講師に混じって初授業ってわけだ。今日はどの子に当てられたんだろうな?
明日からは指名が入るかも‥‥‥?
さて、記念すべき今日の永井さんの初生徒さんは‥‥‥?
その子は高校1年の女子。見るからにギャル候補生の相野きららだ。
彼女はなんとか低の上ランクの高校には奇跡的に入れたものの、自動的に進級出来る中学とは違い、このままでは授業についてゆけず進級も危ういかも知れない‥‥‥と言って母親が危機感を募らせ4月の終わり頃ここに連れて来られて面談して、その場で入会登録した子だ。
本人はと言えば、それから指名なしフリーでの数学の授業を1回ほど受けたきりだった。1ヶ月で一回って、親に言われて嫌々1回来ただけ状態だな。
今日で5月も終わり明日から6月。ようやく予約を入れたなんて、やっとやる気になってくれたのかな?
あ、永井さんが出社して来た!
彼女、ずいぶん早い出勤だな。
「おはよう! 永井さん」
「おはようございます。古谷さん。早いですね。きっと私が一番かと思いました」
「今ね、予約状況を確認してたんだ。永井さんの今日の最初の生徒さん、もう決まってるみたいだね。今日の午後5時からの。既に聞いてる?」
「‥‥‥はい、名前と学年だけは。私、その子の詳しい今までの学習進捗記録や個人情報を見るために今日は早く出勤したんです。それはどんな生徒さんでしょうか?」
「えっと‥‥この子はね‥‥‥」
僕は自分のパスワードとIDを入力し、相野きららの情報を表示させた。
個人情報はオフィス以外での閲覧は禁止されている。持ち出しもメモなども もってのほかだ。
ここには入塾の動機や入塾前のおおよその学力、塾に希望していることなどが記録されている。
さらに個人のプロフィールの他、入塾時に受けたAI診断テストの結果で出たその人の思考と嗜好傾向、性格診断、余計なお世話だけど、適性進学先やらマッチする職業分野までが分析されて入ってる。そこまであてになるものでもないけどね。
「ほら、この子だよ」
「ありがとうございます」
永井さんは僕の横に顔を寄せてディスプレイに見入っている。
すごく真剣に見てる。
画面を見ながら無意識にマウスを探す彼女の手が、マウスを握る僕の手に重なった。
「あっ、ごめんなさい」
永井さんは手を引っ込めた。
「いっ、いえっ」
僕はマウスを手放す。
ちょっと微妙な空気が流れる。
「えっと、よかったらここの席座って」
僕はチェアを彼女に譲ろうとすると、
「いえ、すぐ済みますから」
マウスを操作し、ささっと画面スクロールさせて相野さんの情報を確認すると僕にお礼を言って離れた。
「古谷さんもコーヒー、いかがですか?」
永井さんはオフィスに設置されてる自動サーバーでコーヒーを入れながら僕に聞いた。
「いいね、ありがとう。僕ももらおうかな」
ここのオフィスには決まった自分の席は無いんだ。
オフィスには洒落たカフェ宜しくあちこちに座る場所があって気分で変えられる。
僕は急いで個人情報ソフトを閉じ、彼女の座った見晴らしのいい窓際のスツールの席の隣に向かった。
もしかして、今、絶好のチャンスだよな。
「今日は初日だね。緊張してる?」
「いえ、大丈夫です。在学中からずっと大手の学習塾でアルバイトしてましたから慣れてはいるんです。でも‥‥‥‥」
「でも?」
「私はプロになったわけですからあの頃とは違います。ひとりひとりに私が合わせてあげられなくてはいけませんし。それに‥‥‥自分で気づかずに、子どもに勉強を強要するかのような‥‥‥キツい言い方になってしまうのではないかと心配しています」
「‥‥‥永井さんもそういう経験が?」
「‥‥‥そうですね。ガチガチに強要されていました。手のひらも言葉も凶器ですね。とても苦しかったわ‥‥‥‥」
コーヒーをひと口飲んでウィンドウ越しのクリアに晴れた空の向こうを見つめながら呟くように言った彼女の横顔には‥‥‥
涙?
しばしの沈黙が流れる‥‥‥
僕は女の子を泣かせてしまったのか?
何か彼女の心のセンシティブに触れてしまったようだ。どうしよう‥‥‥
えっと、こういうときはマジどうしたら? えーっと、そっと肩を抱く?
ダメだっ、オフィスでそんなのセクハラだ。
じゃあ、さりげなくハンカチ差し出す? ハンカチ王子よろしく?
あ、ハンカチとか持ってない‥‥‥じゃ、あそこのティッシュ箱を‥‥‥
僕はひとり、おろおろおたおたしていると、
ガタンっ! 後ろの方でドアが開いた音と同時に声が響いた。
「おっはようございまぁーす! んっ? ちっ!」
タッタッタッタッ、ガシッ。
「うっっ!」
痛ってぇ‥‥
後ろから僕の両肩がきつーく掴まれた。
「おはよう! 永井さん。ついでにショウ」
振り返るとエントがスッゴい笑顔で立っていた。
目は笑ってなかったけどね。




