そして仕事は始まった〈古谷〉
残念ながら、そのパーティーでは永井さんとそれ以上お近づきになることはなかった。
だけど、彼女はその時 僕以外の誰かと特に親しくなった訳でも無さそうだったのは救いだった。
4月に入った。新たな年度の始まりだ。
永井さんは見かけはギャルに変身したけれど中身はそのまんまで、誰に対しても礼儀正しく真面目な受け答えだった。
そのギャップがまた良いらしくて、彼女の評判は新入講師の中では際立ってる。
新人さんはまずは別階の研修室行き。
最初の2週間は見かける事すら無かった。
その後、新人さんたちは各科目の先輩エージェントに一人一人付いて実践を学ぶ。
彼女の実習のメイン教官講師は、数学の丹治エント。だから彼女の側にはいつもエントのやつがいる。
羨まし過ぎだろ。永井さんと一緒にいることが仕事だなんて。
エントは僕の同期。僕の同期10名で個性持ちのまま残ってるのは僕とエントの2人のみ。4人は退職し、3人は通常の講師となり1人は事務系に回った。
学校の生徒は担任の教師や教科ごとの専任の教師を選ぶ権利は持ち合わせてはいないけれど、こちらは民間の学習塾だ。しかもセレブ向けの。だからもちろんの事、顧客の方が自分に合う講師を選ぶ権利がある。
それゆえ人気が無くて指名が入らなかったり、教え方にクレームなどが多いと判断されれば会長命令で配置替えも行われる。
顧客を満足させなければ会社が潰れてしまう。民間は厳しい。
講師の中には個性に疲れて自ら普通講師に戻る人もいるけれど、役職手当てと指名料の歩合が無くなるから懐はずいぶんのダメージをくらうことになる。
あと、勝手に個性を変えちゃう人がいるけれど、これもNG。
その人に求められているものを遂行しないのは業務違反とされる。変えたい時は会長承認を得なければならない。
会長が決定したことにに逆らう人はここを去る運命だ。
僕は相変わらずいつも通りで、ジェントルマンな男として孤独に外回りの仕事がメイン。
夕方会社に戻ったとしても、空いてる時間は皆、次の授業の準備したり、生徒ひとりひとりに合わせた学習進行計画を立てたり、成績管理もあるし、僕は僕で今日一日の報告書もその日の内に入力しなきゃなんないし、教える以外にも業務は山積みで無駄話してる暇はない。
そんなわけで永井さんと業務以外で話す機会など帰り間際まで来やしない。
やっとお話するチャンスが来たぜって思ってもさ、他の同僚がいる前で堂々と彼女を誘うだなんて無理。
一応会社で顔を合わせてはいるってのに いきなりメールで誘うのもはばかられるし。
エントたち数学講師陣は女性の永井さんが加入してにわかに活気づいてる。だって今まで数学チームには野郎しかいなかったんだから。
今日数学チームは、歓迎会だの親睦を深めようだのと言って永井さんともう1人の新人の男を飲みに連れ出す模様だった。
僕も入れろよ、ってエントに冗談混じりで言ってみたら即座に断られた。
「残念だなぁ。ショウも誘いたかったんだけどね。僕らは数学についての話をするわけだからさ、ショウが来ても解んないしつまんないだろ? それに‥‥‥」
「それに?」
「お前、新歓ん時、仮病使ってしょっぱなっから永井さんを暗がりに連れ出したんだって? 噂になってるぜ? 止めてくれよ、僕らの大事な新人に手を出そうだなんて真似は」
「はいっ? なんだよそれ! 僕、初耳だよ。誤解だって」
そんな噂になってたなんて! 割り込んだ事、あの事務系のやつらに根に持たれちゃってるみたい。
そう、僕たち個性を与えられてる講師たちはここでは一際目立つ花形的存在。社内にも推しもいればアンチもいる。
「ああ、永井さんもそうは言っていたけど。でもな、これは数学講師オンリーだから。悪い、じゃあなっ」
ったくさぁ‥‥‥
めっちゃガードされちゃったよ? 永井さん。数学オタクらめっ!
それでもさ、まあグループで行くってならまだ許せるさ。でもなぁ?
エントはその後も、今日の実習の続きをするだの何だのと仕事にかこつけて、度々アフターまで永井さんを連れ出してることが判明。それって彼女と二人きりじゃん!
仕事の延長みたく言われたら永井さんだってついて行くしかないもんな?
僕はやきもきしながら永井さんとエントを見ていたのだけど、今んとこ、特に色恋に進展したようでも無い。
あの永井さんの事だから予想はつく。僕は経験者だ。
エントも永井さんから、『ご一緒にゴールドバッハ予想の検証をしませんか?』とか 『十進数のナルシスト数を小さい順に交互に言ってみませんか?』なーんて持ちかけられて口説きをはぐらかされてんだろなっ。ざまぁ。
僕は心の中でせせら嗤う。
お前に永井さんは無理だって。
永井さんの同期の甲本さんが話してたんだけど、彼女はあの筋肉自慢のイケメンお笑い芸人がお気に入りらしい。
僕は毎日家で筋トレしてる。ジムにだって週1は行ってるし努力は怠らない。多少は腹 割れて無いと、いざって時は恥ずいじゃん?
まだ25だっていうのに最近腹が出て来てるエントより、僕の方が彼女の好みに合ってるってば。
とは思っているけれど、オフィスで二人が会話してる場面に遭遇すると、僕の心は穏やかではない。
エントはそんな僕に感づいているのかチラチラ僕の方を見ては得意気に声をややでかくする所がマジムカつく。
僕たちはいい年してなんて子どもっぽい低次元のさや当てしてるんだろうね。
わかっているけど、どうにもなんない。それが恋だろ。
だけどね、月日はエントと永井さんをやっと引き離してくれた。
永井さんはゴールデンウィークが明け、5月も終わりに近づいて来た頃にはもう実習を終え、社内試験にも合格してエージェントとして一人前となったのだった。
これでエントと二人きりで仕事帰りに飲みに行くこともなくなるだろ。やれやれ。
だからと言って僕に特別なチャンスが巡って来るわけでもないんだけどさ。
その内、毎年の事ながら夏期講習の準備も加わり更に大変で忙しくなって来た。
永井さんは、と言えば デビューしてから瞬く間に人気講師へと駆け上がって行ったんだ。




