第五十六話
私はこと切れたシーグフリードがもう動かない事を、恐る恐る確認した。
「お、終わっ……た?」
刺した燭台で頬を突き、微動だにしないのを見て漸く本当に死んだのだと悟る。
ああ、やっと、やっと全てが終わった。
張り詰めていた緊張の糸が、少しずつ緩んでいく。それと同時に安堵と再会の喜びが胸に込み上げてきた。
頭が割れそうになるぐらいの苦痛だった。正気を手放してしまいたい程のそれを、堪えられたのは必ずヴァージルが迎えに来てくれると信じていたから。
寂しかった、苦しかった、申し訳なかった、けれど固く信じていた。
色々な感情が混じり堪らなくなって、剣を片手に持ったまま動かないヴァージルに抱き着いた。
「ヴァージル!」
ずっと助けに来てくれると信じて、その通りに目の前に現れたヴァージルが愛しくて堪らない。
恐怖と寂しさと再会の喜びを涙に変えて、傷だらけのその姿を抱きしめる。頭を胸に寄せて、甘えるように擦り付けた。
どれだけの激戦を越えて此処に来てくれたのだろう。死線を潜り抜けて来た事は、聞かなくても十分わかる。
いつだってその身を晒して戦ってくれたヴァージル。けれどこれが最後になるはずだ。
漸く全部終わった。これで誰からも追われる事なく望んでいた平穏を手に入れる事が出来る。
「来てくれてありがとう……!」
辿り着いてくれた事に、溢れる感謝と愛しさを込めてそう言った。いつもの彼の優しい声が聴きたかった。
「ヴァージル……?」
けれどいつまで経っても抱きしめ返してくれる腕は来ず、安心したように名前を呼んでくれる声も聞こえない。
何かが変だった。
私は顔を上げて、彼の顔を見る。何の感情も浮かんでいない、光の無い目が静かに私を見下ろしていた。
何処かで見た事があるその表情。
ザカライアのものと全く同じである事に気が付き、一気に血の気が引いた。
「ヴァージル? ……ヴァージル!?」
何度も名前を呼んで、その体を揺さぶった。けれども動力を失ったかのようにヴァージルは動かない。
幻惑のシーグフリード。精神魔術を極めたその男と戦う為に、一体何を手放したのか分かってしまった。
「嘘、でしょう?」
心が見えない。
優しさも執着心も怒りも必死さも喜びも、何も見えなくなっていた。絶望が足元から這い上がってきて、私を飲み込もうとする。
「……ヴァージル」
ヴァージルは操られないようにする為に、自分の精神を手放してしまったのだ。
此処にあるのは、彼の抜け殻。
もう私を見て笑う事も、名前を呼ぶ事も、抱きしめる事もない。
全ての事に感情を持たない。……それは、死んでしまったのと何が違うのだろう。
私の頬を涙が伝い落ちて行く。拭う事もせず、彼の頬に手を伸ばして撫でた。
こんなの嘘だ。
全部、全部、嘘。
「一緒に、お店をするって……言ったよね?」
緑色の目。いつもきらきらと輝いているそれが光を失い、今は何も映さない。
「私に離れて行くなって言ったじゃない。ヴァージルがいなくなって、どうするの?」
ぽたぽたと地面を透明な雫が濡らしてく。
魂の片割れというものがあるならば、それはきっと貴方だ。
出会ってしまえば離れられなくなって、失えば生きていけなくなる。
記憶の中で受けた拷問よりも、ヴァージルがいなくなった事実が私を深い闇に突き落とそうとする。
世界を呪ってしまいたくなる程に、目の前の人形のような彼の姿が私を打ちのめしていく。
溢れ出た異世界人の持つ強大な魔力が、絶望の感情に従い大気を揺らす。
こんな事ある筈がない。あってはならない。
両手でヴァージルの頬を包み、背伸びしてそっと唇を合わせる。
ああ、駄目かもしれない。ヴァージルの唇はいつものように柔らかいのに、心が何も伝わってこない。
ごめんね、ヴァージル。全部背負わせてしまって。
守ってくれてありがとう。……でも貴方のいない世界は、もう考えられない。
そこにヴァージルがいないのなら、私も共に連れて行って。この世の果てでも、地獄の底でも、何処にでも付いて行くから。
そうでないならば。
「戻って来て。私の所に」
私は涙で塗れた酷い顔で、そう彼の抜け殻に懇願した。
ふと、胸が温かくなったような気がした。
違和感に胸を押さえると、感じた温かさが次第に強くなっていく。
それがヴァージルの居場所が分かる感覚と似ている事に、不意に気が付いた。
いつか使い魔の魔術により、混じり合ったお互いの精神の一部。それが今、私の願いによって強く反応しだしていた。
「ヴァージル……? 此処にいるの?」
応えるように、温もりが強くなる。ばらばらに崩れそうだった心を、希望が繋ぎとめる。
ああ、彼だ。間違いない。私の中に、彼がいる!
私は見つけたその細い糸を手放さないように、必死で声をかけた。
「戻って来て……!」
強い願いと共に、自分の中に宿る彼に向かって叫んだ。
「戻って来て! ヴァージル!!」
急に強く抱きしめられた。痛い程に強く。
外界の何物からも遮断するように、大きな体で覆いつくす様に私を抱きしめようとする。
「カナ」
愛しい人の声が聞こえた。
私は堪らなくなって、ヴァージルの背中に手を回す。放さないように強く抱きしめ返した。
伝わる熱が、その存在の確かさを教えてくれる。
「ヴァージル」
失ったかと思った大切な人が手の中に戻って来た。
私はその奇跡を確かめようと、顔を上げてヴァージルを見上げた。
いつものように輝く緑の目が微かに潤んで見下ろしてくる。
口角は上がり目は細められて、愛おしさに溢れていた。無表情の人形はもう、居ない。
「遅くなった」
勢いよく首を横に振る。今傍にいてくれる。それだけで胸が満ちていく。
歓喜の涙がぼろぼろ零れ、震える声で言葉を紡いだ。
「来てくれるって……信じてた」
だからどれほどの苦痛を記憶で味あわされても、耐える事が出来た。
笑う彼の顔が至近距離にあって、唇を寄せて離れて行った。ヴァージルの流した一筋の涙が私の物と混じり、落ちて行く。
地下の最奥の部屋で薄暗がりと静けさが、全て終わった事を告げる。
私達を追う者はもういない。アストーリ侯爵は恩赦の約束を守るに違いない。
闇から伸びていた鎖が壊されて、世界が私達の前に開かれる。
魔天会の七刃の一人、暴食のヴァージルは消える。ヴァージルと共に胸を張って何処にだって行けるのだ。
ヴァージルは一度瞼を強く瞑り、深く息を吐いて言った。
「……やっとだ。やっと、お前の隣に堂々といられる」
ヴァージルの声には万感の思いが込められていた。
ずっと気に病み続けていたのだろう。ヴァージルはいつも私に合わせようとしてくれていた。
自分が普通を知らないまま、暗がりの中で生きてこさせられてきたから。
彼の顔に屈託のない笑顔が浮かんでいく。
今のヴァージルを見て、日向が似合わないなんて言う人はいないに違いない。
彼の心のつかえが取れたのが分かり、私の胸にも喜びが満ちていく。
「手放さねぇから、もう何処にもいかないでくれ」
私を使い魔にしようとしてまで望んでいたその願いは、今度こそ叶えられるだろう。
「うん」
私は彼に擦り寄り、目を細めて微笑した。
「……愛してる」
ヴァージルは囁きと共に淡い口づけを私に落とす。私は儚い程に優しいそれ受け止めて、言葉が返ってくる喜びを噛み締めたのだった。




