第五十五話
痛くて辛い記憶が無理矢理に繰り返される。私はその感情の海に溺れ、自分を見失いかけていた。
苦しい。体が熱い。何の薬を与えられた? 痛い。骨を折られた。腕が動かない。繋がっているのに、使い魔を殺された。苦しい。息が出来ない。もう起き上がる事も出来ないのに、打ち据えられる。何で俺がこんな目に。苦しい。いつ終わる。この生は、いつまで続く。痛い。痛い。辛い。
『可哀想に』
何だ。誰だ。声が聞こえた。分からない。痛い。苦しい。助けて。誰か。
『こんな目に合わされて』
同情的な声が聞こえたかと思うと、少し感情の揺らぎが収まった。自分の認識が僅かに戻って来る。
髭の生やした男が、ヴァージルの腕を掴む。毎日のように。連れて行かれた先で、訓練用の剣を持たせられた。痣だらけの体にまた痣が出来る。
殺せと言われた。泣き叫び、命乞いをされた。どうしようもなかった。考える事を止めた。仕事は簡単だった。
狼の巣に放り込まれた。使い魔を増やせと。食らった。狼の方が余程上等な生き方をしていた。
『助けるから』
繰り返される記憶のループが止まった。灰色の記憶が進んでいく。
隷属の呪具がつけられているから、外に出された後も自由は無かった。言われた通りに、仕事をこなすだけ。
殺した。まっとうな人生を送ってきた男だった。
殺した。多くの人に慕われている女だった。
殺した。数えるのも面倒な数の傭兵の集団だった。
殺した。悪徳の限りを尽くした男だった。
ふと、景色が変わって見えた。人通りの多い市場を飾る布の色が鮮やかに見えた。
顔を撫でる風が優しく感じられ、道を進む足取りは軽い。
見慣れた店構えが見えてくる。ドアベルを鳴らして、隠れる事も無く正面から堂々と入った。
黒髪の女が笑いかけてくる。呆れる程無防備に、ヴァージルを歓迎する。
「……カナ」
勝手に顔が緩んでいく。
救われたと、思った。
気づけば私は、真っ白な空間で倒れていた。
シーグフリードによって繰り返させられていた壮絶な虐待の記憶によって、疲弊していて体が上手く動かせない。
『酷い目にあったな』
誰かが私の頭を優しく撫でてくれた。目を開いて誰だか見ようとしたが、その姿が光に紛れていて顔が見えない。
声を出そうとしたけれど、それさえも上手く喋れなかった。
『ずっと探していたけど、見つけられなかった。……こんな所にいたんだ』
その人はまるで子供を寝かしつけるように、ゆっくりと私を撫で続けてくれる。
大人になり切れていない少年の声だった。
『この世界は嫌いか?』
ああ、この人は。
私は泣きたくなってしまって、口を震わせながら首を横に振る。
だってあんな目にあったヴァージル自身が、恨んでいなかった。
私に会えた。たったそれだけの出来事で、彼は怒りや恨みを『どうでもいい』ものにしてしまえていた。
だから私は、堂々と彼と出会えたこの世界を好きだという事が出来る。
慰めてくれる少年の手が優しくて、堪えきれなくなった涙が零れ落ちて行った。
『……そっか。なら、俺はもう止めるよ』
ほっとしたような声だった。
『会えて良かった。……加奈』
頭を撫でてくれている手が、指先から消えていくのが分かった。
時間がない。震える唇を無理矢理に動かした。
「……お兄ちゃん。どうして……」
世界を呪いながら死んでしまったの?
温かで、切ない涙が降ってくる。
『知らなくて良い。カナ。知らないままで、幸せになってくれ。俺が起こしてあげるから』
もしもおばあちゃんに拾われなければ、どうなっていただろうか。
もしも神父さんに支えられなければどうなっていただろうか。
孤独に沈み、あるいは人の悪意に曝されて。私は自分を保てなかったかもしれない。
兄はきっと、酷い目にあったのだ。この世界で生まれた孤児ですら、地獄のような経験をする世界なのだから。
手を伸ばす。涙を拭おうとしたが、既に光に溶けかけた顔を指は突き抜けてしまう。
『大好きだよ。加奈』
笑ったような気配。それを最後に、白い世界は崩壊した。
◆
シーグフリードは剣で斬られた足をもつれさせ、血痕を岩窟の廊下に垂らしながら疾走していた。そんな状態であってもその速度は常人以上のものである。
背後から聞こえるヴァージルの足音に苦い顔をした。少しでも油断すれば追いつかれそうな速度だ。
岩窟内は細い廊下が延々と伸び、曲がりくねり、迷路のようになっている。怨嗟の玉とカナがいる部屋はその最深部だった。
蝋燭の明かりがより奥へ、より深い所へとシーグフリードを導いていく。
それはさながら、地獄へと続くかのような薄暗がりの道だった。
早く。少しでも早く。
背後から迫り来る男の足音が恐ろしい。呼吸は苦しく、血の滲む味がした。
それでもまだ、取り返しのつかない事にはなっていない。シーグフリードには、他の誰にも扱う事の出来ない怨嗟の玉があるのだから。
ヴァージルの投げた短刀が、シーグフリードの背中に突き刺さった。
「ぐ……っ!」
後ろを振り返る。もう、その姿が見え始めていた。
早く。早く。
シーグフリードは必死で足を動かす。汗を垂らし、生き延びようともがくその姿に、いつもの支配者然とした雰囲気は何もない。
とうとう扉が見えた。その先にはあの女がいる筈だった。
首を掴み、盾にしてやろう。そうすればヴァージルの剣は止まるに違いない。そこを今度は私が狙う。そしてヴァージルを女の前で殺せば、それで計画は元通りだ。
失ったものは多いが、手元の怨嗟の玉が二つになるならばおつりがくる。
金属の取っ手に手をかけて、勢いよく扉を開け放つ。
その瞬間、違和感がシーグフリードを襲った。
怨嗟の玉により充満している筈の、陰鬱な空気が何もないのである。
それに気を取られて数瞬その原因を探ってしまう。
目線の先に、恨みなど全て忘れたかのような白い頭蓋骨があった。
「な……」
ほんの僅かな動揺。
ドスッ
衝撃が横から来て視線を向ければ、蝋燭を除いた燭台の針をシーグフリードに突き刺すカナの姿があった。
何故、この女の目が覚めている?
カナに向かって手を伸ばそうとした。けれどそれを止めるように二度目の衝撃が体に走る。
問おうとした自分の口から血が零れた。
「ごふっ」
視線を下に降ろすと、剣で後ろから貫かれた自分の胸板が目に映る。剣先で玉を作る自分の血が、やけに鮮やかに見えた。
背後を見れば、そこには無表情のヴァージルの姿があった。
足に力が入らなくなり、膝立ちの状態になる。剣がずるりと引き抜かれて、自分の中心に大きな穴が開いた。
血が。血が抜けていく。
手で胸を押さえようとして、血を止める事が叶うはずもなく指の間を血液が滴り落ちていく。
とうとう膝立ちさえも出来なくなって、地面に体を横たえた。
温かな血と共に、命が体から抜けていく。力が入らなくなっていく。
視界の端で、今までシーグフリードの欲望を叶えて来た筈の怨嗟の玉を見た。
全てを恨み、世界を呪いながら死んだという異世界人の頭蓋骨。
私達は、同じだったでしょう……?
この世界は汚くて醜くて、だからこそ踏みにじっても良いのだ。
シーグフリードは精神を操る魔術を使うからこそ、人の闇をずっと目の当たりにし続けていつしか酷く嫌うようになっていた。
愚かで、滅びるに相応しい生き物。けれど数が多すぎて殺しきれないから、私が適切に管理してやっただけではないか。
怨嗟の玉と呼ばれるその異世界人も、それを喜んでいたに違いなかった。
それなのにどうして、今更只の白い骨になった。裏切られたような気がした。
ずるりと地を這いながら頭蓋骨に手を伸ばした。けれど届かない。
命が終わる。
自分が死んだ所で只の躯にしかなれないのを嘆きながら、シーグフリードは息する事を止めた。




