第五十話
森に隠された巨岩の壁に、幾つもの穴が人為的に開けられている。三十はあろうかという穴にはそれぞれ扉が付いており、そこが人の住む場所である事を示していた。
この岩窟住居こそが、魔天会の本部である。
ヴァージルはそれを少し離れた高台から、オズワルドと共に見下ろした。
「久しぶりの本部だねぇ」
「ああ。……最後になるがな」
悪夢が今なお生み出され続けている場所。目に見えない怨嗟が周囲を取り巻いているようで、不快さにヴァージルは鼻を鳴らす。
痛めつけられた記憶が足を止めようとしてくるが、囚われているカナの顔を思い浮かべればそんなものは直ぐに小さくなって霞んだ。
同じ思いをさせる訳にはいかないのだ。命が無造作に消されるこの場所に、あの優しい人をこれ以上一秒も置いてはいけない。
強く手を握りしめて本部を見つめるヴァージルの隣では、オズワルドもまた漸く訪れた復讐の機会に目をぎらつかせて興奮していた。
ずっと、同じ苦しみを返してやろうという一念で生き抜いて来たのである。
「今度は、お前の番だ。シーグフリード」
小さく呟き、口角を上げてオズワルドは笑った。
本部は人がそれぞれの入り口から頻繁に出入りしている。普段よりも人数が多いのは、ヴァージル達が本部を襲撃する事など予想しているからなのだろう。
空を見上げる。雲一つない良い天気だった。肩を軽く回してみて問題がないのを確認する。
オズワルドは魔力が回復した。自分も火傷は治ったし、体調は万全である。
確実に救出する為に焦る気持ちを抑えて回復に専念したのだ。これ以上少しも遅らせるつもりはなかった。
攫われた直ぐ後に、カナの感情の酷い揺らぎが伝わってきた事があった。その時は居ても立っても居られず直ぐに救出に向かおうとしたのだが、オズワルドに妨害されている内に収まっていった。
今、カナの感情は、不思議な程に伝わってこない。しかし繋がりが切断された風でもないので、寝かされているのかもしれない。とにかく今は辛い感情を抱いていない事に少し安堵する。
失敗は許されない。
一度深呼吸をしてから、ヴァージルは静かに言った。
「行くぞ」
ヴァージルの足元から黒い影が伸びていき、黒煙を噴出して中にいる恐るべき存在を呼び覚ます。
影の湖から最初に見えたのは翼。それから隆々とした背中が現れ、首、手足、尾とその全貌を表していく。
そして久々の世界を喜ぶかのように、ドラゴンは力強く咆哮した。
「グオオオオオオォォォォン!!!」
大気が震える。小さな山ほどあるドラゴンは、傍にいるだけで死を連想せずにはいられない。
それが今や、ヴァージルの手足となって共に魔天会を滅ぼそうとしていた。
オズワルドは心強さに口笛を吹いて言った。
「はは、ヴァージル。君って最高だ」
ヴァージルは素っ気無く鼻を鳴らし、ドラゴンを本部に向かって飛び立たせた。
ドラゴンは巨大な体であっという間に本部の正面まで辿り着く。
襲撃を悟って慌てた魔天会の兵達がわらわらと穴の中より飛び出して来るが、ドラゴンを見て顔を青ざめさせた。
魔術や矢が兵達によって浴びせられ始めるが、ドラゴンブレスの一撃で全てが焼き払われていく。
そしてドラゴンが正面に陣取って穴にブレスを吐けば、中にいる兵達は外に出る事が叶わなくなってしまった。
しかし岩窟住居は蟻の巣のように奥に続いているので、中の兵達は出てこられないだけで蒸し焼きにはなっていないだろう。
けれどこんな状況で定期的に浴びせられる灼熱のブレスを掻い潜って出て来る者がいるとしたら、それはヴァージル達と同等の実力を持つ者に違いない。
だからヴァージルは影からザカライアを呼び出し、ただ静かに七刃の姿が現れるのを待った。
恐るべき精度と威力で何処からともなく矢が飛来する。遠雷イスマエルの矢だ。
イスマエルは弓術の達人である。まるで遠雷の如く音を聞いた時には既に事が終わっているのが二つ名の由来だった。
矢はオズワルドを明らかに狙っていた。彼なりの指名に笑顔を浮かべ、オズワルドは空を飛ぶことでそれを避ける。
「遠距離対決か。良いね。負ける気がしないよ」
不敵にそう笑い、オズワルドはヴァージルから離れて行った。イスマエルの居所を探しに行ったのだ。
彼は身を隠す事に長けている。彼の矢に射られるのが先か、彼を見つけるのが先か。
イスマエルを相手にするならば、必ずその戦いを強いられる。
「それじゃあ、私の相手はどっちかしら?」
いつの間にかヴァージルの背後にはプルデンシオともう一人、筋骨隆々とした壮年の男が立っていた。全身の筋肉が異常に発達しており、実用的ではないようにさえ見える。
その男こそが七刃の一人、金剛のアードルフだった。
「お前の相手はザカライアだ。俺はアードルフとやる」
「分かったわ。ザカライアちゃん、よろしくね?」
答えなど返って来ないのを知りつつ、プルデンシオはザカライアに言った。
そして二人は共に地面を蹴って移動した。ヴァージル達の戦いに巻き込まれないようにする為だ。
アードルフは好戦的な笑みを浮かべて、自らの拳を突き合わせた。彼は一本の剣も帯刀していない。全身を武器にして戦う、格闘家だからである。
「暴食か。相手にとって不足なし。全力でお相手いたす」
「ああ。俺も、お前が何処まで丈夫なのか気になってたんだ」
ヴァージルもアードルフに向かって、不敵に笑った。
アードルフが跳躍する。一足で一気に肉薄すると、掌を広げ突き出し掌打を放った。
ヴァージルがそれを辛うじて避けると、空気と魔力の圧によりヴァージルが避けた場所の木々がなぎ倒されていく。
身体能力に違いがありすぎるのを察したヴァージルはすぐさまリッチを呼び出し、自らの体に支援魔法をかけて回避に専念した。
アードルフの攻撃が一撃でも当たれば、体が吹き飛ぶ程の威力だからである。
避けながらヴァージルは使い魔を呼び出していく。ヘルハウンドにサラマンダーといった炎を操るモンスター達だ。
アードルフはヴァージルの相手をしながらモンスターを攻撃するのは出来なかったようで、一定の距離を保って円状に囲まれていく。
そして使い魔達はそれぞれに口を開き、一斉に炎を放射した。更にヴァージルはシルフを呼び出して、風でその威力を更に強めた。
炎の竜巻が立ち上り、中心にいるアードルフは超高温に熱せられた。
周辺の草は一瞬で燃え上がり、熱波がヴァージルの頬にその火力の凄さを伝えてくる。人間ならば数秒も生きていられないだろう。
しかしその炎の中から平然と蹴りが飛んできて、ヴァージルは舌打ちしながらそれを避けた。どうやら炎は無駄らしいと、使い魔達に炎を収めさせる。
金剛のアードルフ。肉体改造の果てに得たその肌は刃を通さない。だからヴァージルは剣をこの男に向けないのだ。
火力もどうやら無駄だったようで、炎が消えると依然と全く変わらない様子のアードルフがその場に立っていた。
ヴァージルは今度はバジリスクやカプトレパスといった石化させるモンスターを呼び出し、アードルフに状態異常を引き起こさせようとしてみた。
「ハァッ!」
しかしこれも、魔力の籠った気合の声と共に破られてしまい効果がない。
「頑丈だな。流石、金剛」
ヴァージルは呆れた声をだして、彼の二つ名を讃えた。
その間にもアードルフの手や足が凶悪に命を狩ろうと襲い掛かってくる。精神を集中させ紙一重で拳を避けたつもりだったが、風を纏っていたようで耳を鋭く斬られてしまった。
気を良くしたアードルフの凶悪な笑みが視界に入る。
苛立ったが、舌打ちする間もなく飛んで来た回し蹴りを体を横に回転させて避けた。
戦わされているという根底はヴァージルと変わらないが、アードルフは七刃の中でも最も好戦的な人物だった。
自ら望んで体を差し出し、改造を繰り返した。彼が一度戦場へと出れば、全ての者をなぎ倒す様に肉片へと変える。
強者と戦う事を至上の幸福と考えているこの男は、嘗ての同僚との戦いに興奮して目を血走らせながら笑っていた。
その血に塗れて喜ぶ姿など到底理解出来ないが、ヴァージルにとってはどうでもいいだけで好悪の感情は持っていない。
けれどたとえ隷属の呪具が壊れたとしても、最も野放しにしてはいけない人物だと思っている。
そういう奴は、生かしてはおけねぇんだよ。
きっと放っておけば、ヴァージルと戦う為に必ず姿を現すだろう。その時、どうやればヴァージルに本気を出す事が出来るか考える筈だ。
そしてヴァージルの最も大切なものに辿り着く。
だからここで必ず、倒さなくてはならない。
「これはどうだ!?」
恐るべき拳の連打がヴァージルに繰り出された。一撃一撃には致命傷程の威力は込められていないが、数がなにせ多い。
面のように迫り来る連打の全てを避ける事は出来ず、庇いきれなかった胸部や腹部に当たってヴァージルの体力を削っていく。
「ぐ……、」
痛みを奥歯を噛み締めて堪える。それらから逃れる為に、ヴァージルはシルフに足場を作らせて空へと駆け上がっていった。
その際に使い魔達に真空の刃や魔術弾を打たせてみるものの、アードルフに当たってもまるで効果が無いように見える。
アードルフは空に逃げたヴァージルに向かって吼えた。
「いつまでも逃げていては俺は倒せんぞ!」
「……分かってるさ」
空のヴァージルに向かって、アードルフは地面の小石を蹴り上げた。礫はヴァージルを殺すに十分な威力となって襲い掛かってくる。
ヴァージルはそれを空で避けながらアードルフから距離を取る。
「逃がさん!」
今度は石を手で投擲してきた。蹴り上げた礫よりも早いそれがヴァージルの頬をかすり、傷をつけた。
アードルフの足の速さはヴァージルよりも遅いが、投擲の威力が凄まじい。距離をとっても油断は出来ない。
ヴァージルは使い魔達に一斉に魔力弾を発射させ、アードルフに叩き込んでいく。
大地を捲りあげ、土煙が上がって視界からアードルフの姿が見えなくなる。
「無駄!」
けれど少しも弱らない声が聞こえ、大した損傷を与えていない事をヴァージルに伝えた。
やがて弾幕の中からアードルフが悠々と姿を現した。
彼の恐るべき頑丈さは、あらゆる攻撃を無効化していた。
ドラゴンに一飲みにさせた所で、腹を破いて出てくるだろう。
剣も効かず、魔術も効かず、状態異常も効かない。ヴァージルにアードルフを倒す手段が存在しない。
「ははは、暴食! その程度か?」
勝ち誇った笑みを浮かべるアードルフに、ヴァージルも笑みを返して言った。
「……ああ。お前の頑丈さには、叶わねぇな」
大人しく認めたヴァージルにアードルフが怪訝な顔をする。そんな殊勝な事を言う男ではない筈だ。
しかし彼がそれに気づくよりも早く、ヴァージルは親指で地面をさして言った。
「落ちろ」
その瞬間、地面に潜ませたサンドワームが大地を突き破ってアードルフを地下に誘った。
戦う前から、既にこの場所にサンドワームを使って大穴を用意しておいたのだ。
「おのれぇえぇええぇっ!」
何が起きているのか悟り鬼の形相でヴァージルに手を伸ばすが、もう全てが遅い。
丹念に用意された大穴にその姿は飲み込まれ、消えていく。
「あんた相手に手間取ってる時間はねぇんだよ」
ヴァージルはそう言って直ぐに意識を切り替える。ザカライアの支援に行かなければ。
これから先、あの男の存在が絶対に必要なのだ。
顔を上げると、森の向こうから狼煙が上がるのが見える。
「あっちも、順調らしいな」
ヴァージルはほっとした表情を浮かべ、ザカライアの元に向かって駆け出した。




