プロローグ「紅い雨」
――――少年は走り続けた。
ただひたすら脇目も振らず、ただ一心に。その心にあるのは悲しみと怒りだけだった。先刻まで、少年の右腕がつながっていた肩口からは、大量の鮮血があふれ出ている。
滴り落ちる雨は次第に強くなり、彼の頬を強く叩く。だが、失った右腕の痛みのせいで、少年は雨のことなど気にも止めなかった。
だが、失血と雷雨は容赦なく少年の体力を奪い去る。
「あ……」
少年は惚けた声をあげて、その場に倒れこむ。切れる息を整えながら、光の無くした眼で神の作ったとされる空を見上げる。
「神なんていなかった……」
絶望をうつす少年の瞳は、ただひたすら虚空を見上げる。彼を囲む森は、その全てを嘲笑うようで、少年は悔しそうに歯噛みした。
雨音と遠雷に混じる足音が聞こえた。少年はそれを聞いて戦慄する。
――――いやだ……死にたくない。
無様に残った左腕で、草をつかみ芋虫のように這いずる。
「いたぞ! こっちだ‼」
手のひらが擦り切れ、ボロボロになっていく。先刻までは健康そのものだった少年の手のひらは、自らの血で染まる。
「助けて……」
本来助けてくれるはずの衛兵はあてにならない。それどころか傷ついた少年を殺そうと追いかけまわしているのは、その衛兵だ。
「助けて…………」
彼女のことを思い出した。だけどその人は、命なき血だまりとなり、もうこの世には形すら存在しない。砕けた骨と、血液だけが彼女の亡骸だ。その光景がフラッシュバックし、再び少年は絶望する。
誰に助けを求めればいい? 思考を巡らせるが、この世界に少年の味方は一人もいない。無情にも少年を追いかけまわしていた衛兵は、ついに地を這う彼の服をつかんだ。
「うわああああぁぁぁ‼ いやだああぁ‼」
最後の力を振り絞って叫んだ。叫ぶ事しかできなかった。
四、五人くらいか。大柄で屈強な男達は、黒いローブを纏って長剣を携えていた。だが、そこに恩情などなく、容赦なく少年の銀色の髪を引っ張り上げる。
「いだあぁいいいぃぃ‼ いやだあああぁぁぁ‼」
叫ぶ少年は髪を掴んでる男の目を見て、顔を青くする。
その目は、少年だからとか可愛そうだとか、そういう感情は持ち合わせてはいない。その男の目は……ただの害虫を駆除する作業員の目だった。
「うわああぁぁぁ‼ 助けてぇーーーママァーーー‼」
少年は突きつけられた剣を見て、自分の愚かさに気づいた。
そもそも、自分を殺すように命じたのは……たった今、助けを求めた母親だった……。
だが……気がついたら少年は、しりもちをついたまま座り込んでいた。そして見上げると同時に真っ赤な雨が降った。
何が起きたのかわからない少年は、その光景をじっと眺めていた。だが……次第に高揚した。人間が醜い悲鳴を上げ、血肉となり爆散していく光景が、ひどく嬉しかった。
なぜなら……彼らを殺したのは、彼の右腕なのだから――――。
*** *** ***
――――十年後。
「つまんなーーーい‼」
血のように赤い髪でショートカットの少女が、目的地である街のそばにある、緩やかな丘に、たどりついてから放った第一声がそれだった。
その言葉の相手は青年。右腕をマントで隠し、前髪は彼女と同じブラッドレッドだが、それ以外は剣のような鋭い銀色。
「お前なぁ……遊びにきてるんじゃないんだぞ?」
青年は、少女とおそろいの赤い瞳をまぶたで隠し、深くため息をついた。そんな青年の態度に“なにおう!”とばかりに食ってかかる。
「こっちに来てからずぅーっとお仕事お仕事お仕事お仕事っ‼ ヴァン以外はみーーんな息抜きしてるんだよ!?」
「他所は他所。うちはうちだ」
まるで我が儘娘と、それをたしなめるお父さんだ。ただ、年齢の差はそこまで開いている様子はなく、青年もせいぜい18歳かそこらだろう。少女が見た目14歳ほどなので、どちらかと言えば兄弟に見える。その証拠のように青年と少女は同じ瞳と、青年の前髪と少女の髪がお揃いの色だった。
ヴァンと呼ばれた青年のテキトーな態度に少女は、頬を風船のように膨らませる。
「ヴァンの真面目クズっ‼ 陰険っ‼ サディスト‼ DV男‼」
青年と同じ紅の瞳を持つ少女は、まるで駄々をこねる少年のように地団駄を踏み、腕を振り回す。服はどうやら魔導学院のものに見えるが、赤のタイに、黒のプリーツのミニスカート。ニーソックスとおおよそ公式のものではない。そもそも昼間から街はずれの丘にいる時点で魔導学院の生徒ではないのだろう。
「褒め言葉と受け取っておく……とにかく宿探すぞ」
ヴァンと呼ばれた青年は、少女のクレームを軽く聞き流して街を見下ろす。そんなヴァンの右腕を引っ張り、無理矢理振り向かせる。その様は完全に、おやつをおねだりしている子供だ。
「あのねぇ‼ 普通“彼女”がここまで怒ってたら『ごめんよ、今日は目一杯遊ぼうか』って言って、たくさん貢ぐものだって、アンナさんが言ってたよ‼ 私っ! 今っ! 激おこなんだからねぇ‼」
真っ赤な瞳で背一杯睨みついて、小さな体でせわしなく腕を振り回して怒りを表す。だが、ヴァンから見ても、他の人から見ても、“彼女”には見えない。
だが、ヴァンは彼女の言い放った「恋人」という言葉については否定しなかった。
「いい加減にしろクレア。今日野宿でもいいのか?」
そう聞いてみると、意外な反応が返ってきた。
「外で……っていうのも興奮しない? あだっ⁈ ぶったっ‼ 今思いっきりぶったあぁ‼」
「ウルセェ黙れ。……こっちだって痛いんだぞ」
マントから現れた銀色の握りこぶしをフルフルと震わせながら、もう一発殴ろうかとかまえる。すると、流石にまずいと思ったのか、クレアと呼ばれた少女はバツが悪そうに、おとなしくなる。
「……今日のお仕事のターゲットは?」
「ベルンブルグ領主、パラケルスス教の教祖ジルート=サイオンの討伐と、ベルンブルグ攻略だな。奴も、かなり多くの奴隷を従えている」
「うわぁ……絵に描いたような極悪人だねぇ」
クレアは彼の似顔絵を見ながらニヤニヤと笑って見せた。ヴァンもまた、丘の先にある城壁に囲まれた街を睨みつけながら、怒りを滲ませていく。
一陣の風が肩をなでて、一瞬だけ右腕があらわになる。肩先まで鋼鉄の腕は、人間のものというよりは、まるで機械のようだった。
「……神が神を崇めるとは……世も末だな」
――五年前、魔族との戦いに終止符を打つべく神の仔は、四人の勇者を召喚した。
武に長け、優れた英知を持ち、未来にも到達しうる力を持つ四人の勇者。彼らの活躍と、ジークヴェルト最強の騎士によって、戦争は終結した。
しかし、その戦いは一つの問題を残した。――奴隷制度である。
魔族達は戦闘行為を正当化するために、奴隷制度に対する問題提起をしていた。一部の正義を産んだ奴隷解放という大義名分は、次の戦争を産む可能性があった。
ゆえに神の仔達は、奴隷達に一定の人権を認め、奴隷省という彼らを管理する機関まで生み出した。それによって生殺与奪まで自由だった奴隷制度は改善され、見た目だけは平穏を取り戻していた……。
――そんなねじ曲がった世界を、神を刈り取る死神は、ただ静かに見下ろしていた……。