そこそこに運命的な出会い
初投稿です(嘘)
「たすけてください」
小さな声だった。
聞こえるはずのないその声に、耳を疑った。しかし、身体に張り巡らされた恒常術式がもたらす、強化された五感は野生動物にも匹敵する。空耳は有り得ない。足を止め、信じられない思いで、辺りを見回した。
気にも留めていなかった人いきれが、風が、雨音が、一気に煩わしく感じられる。
「たすけてください」
また聞こえた。言葉が。
消えそうなすり減った音が。
すれ違う通行人が迷惑そうに彼を眇めるのも厭わず、俺は気づけば走り出していた。
雨除けに被っていた外套のフードが、風に耐えかねて外れる。雨粒が顔面を叩く。ブーツの底が水溜まりを跳ね飛ばす。小さな悲鳴や罵声を浴びながら走る。
そして。
雨空の下、誰もが足早に急ぐ中。通りの隅に膝を抱えて座り込んだ少女。その伏せられた口から、助けを求める声が発せられていた。
雨に打たれて、ぺしゃんこに潰れた黒い髪。華奢な身体を包む、濡れて重たくなった紺のセーラー服。スカートから覗く下肢は、泥と擦り傷に塗れて痛々しい。
「たすけてください」
なんでもしますから。
少女は、安っぽく続けた。
いっそ、呪詛にも思えるほど、平坦な声。救いを求めているはずが、欠片も期待を抱いていない諦念しかない声音。ただただ、惰性で紡がれ続ける願い。
「たすけてください」
四度目。いや、あるいは何十度か、何百度目なのだろうか。
何度も助けを求めたことは容易に想像が付くし、誰もがそれに応えないことにも、やはり容易に想像が付いた。
壊れた蓄音機のように同じセリフを吐き続ける頭頂部を見下ろしながら、俺は声をかけることを躊躇っていた。
街の喧騒を背景に、俺は、少しの間、立ち尽くしていた。馴染みのある言葉に飛びついたものの、勢い任せで次の展開を考えていなかった。口元がつり下がっていることを自覚する。
とりあえず声をかけるため、右手を上げたが、その手で肩を叩こうとしたのか、あるいは手を差しだそうとしたのか、俺自身にも分からない。こんなシチュエーション、想像したことがない。
空を見上げてみても、天から答えは降ってこない。
たすけてください。
たすけてください。
たすけてください。
たすけてください。
「おい」
九度目の『たすけてください』の前に
、少女に声をかけた。宙ぶらりんになっていた右手でガリガリ頭を掻いて、少女の前にしゃがむ。
俺は対話が苦手だ。相手が女の子なら、尚更。
「助けて欲しいのか」
初めて、少女は伏せていた顔を上げた。
上目遣いで見上げてくる、掘りが浅く、ともすれば幼くとられがちな、東洋人の顔立ち。
長い睫毛が、大きな瞳を縁取っている。やや低めの鼻立ち。薄い唇。雨に青ざめた頬。
可愛らしい娘だと素直に感じた。その瞳が、泥のように濁っていることを除けば。
「たすけてください」
薄紫の唇が割り開かれて、同じ音が流れる。
もう聞くことはないと思っていた、日本語を紡ぐ。
「助けるよ」
俺は、日本語で返答した。
何年ぶりかも分からない、久しぶりの発音を、自分はまだどうやら覚えていたようだ、と、目を見開く少女を眺めながら、俺は他人事みたいにぼんやり驚いた。
「…………日本語?」
少女の瞳に、光が戻る。
「そうだ。俺は、元、日本人だ。お前もそうだろう」
「…………元」
「ここは、日本ではない。気づいているだろう」
なんとなく事情が分かってきた。噂くらいは聞いたことがある。
世界の境界、階層を越えて迷い込む《隣人》。この幼い少女は、次元を越えてこの世界に墜ちてきたのだろう。
俺と同じように。
語りかけながら、通りを眺める。俺には見慣れた、コンクリートとアスファルトに覆われた日本の街とは似ても似付かない光景がある。
長く踏み固められて出来上がった、街を東西に貫く一本道を、人間、獣面、全身鎧、耳長の精霊族、縦に小柄で横に大柄な鉄妖精、邪精に亜人と、様々な種族が行き交っている。
信号機はなく、代わりにガス灯とも電灯ともつかない、奇妙にねじくれた標識のランプ部分の中では、擬似妖精が交通整理を行っている。
鉄クズを無理やりくっつけたような車を乗りこなす中年の小人が、頭に生えた花や果実を売る木人の少女が、濡れながら歌を披露する蟲妖精の音楽隊が、謎の肉を売る大鬼の青年が、いかにも当たり前の風景としてそこかしこに居る。
煉瓦や石で構成された建物の群れは、地球の常識では有り得ない、例えるなら、歪な箱を乱雑に積み上げたような形をしている。
どれもこれも、日本では、有り得ない光景だ。
俺の問いに、少女は、顔面をクシャッと歪ませた。
そして、様々な気持ちを飲み込んで、薄ぼんやりした真顔に戻った。瞳から、光が消えていく。意図して心を殺していく。最後には、再び俯いてしまった。
「なあ、ここでは日本語は通じない。不安とは思うが、俺と一緒に来ないか」
言いながら、俺は言い知れぬ不安を覚えた。
俺は一体、この棒切れのような少女に、どんな答えを求めているのか。ひょっとすれば、彼女を探すべきではなかった、関わるべきではなかったとさえ思った。だからせめて、少女の方から助けを求めて欲しい、と思った。面倒と厄介さしか感じないシチュエーションに、せめて後付けの理由が欲しいと思った。
いや、これも自分に正直ではない。
格好良く煙に巻こうと独白してみたが、要は、もっと『上手く』やりたかった。
いくらなんでも話の振り方が下手すぎる。自分の対人能力の低さが嫌になる。鍛えてこなかったのも俺だから、自業自得であるけども。
柄にもなく気分が高ぶって、あまつさえ少女に声掛け。自分の行動に後悔し始めている。顔には出さないが、心の中は苦さで一杯だ。まず笑顔でも向けて、警戒心を取り払う所から始めるべきなのに。
「その提案を蹴って生きていけると思うほど、わたし、ばかじゃないわ……」
「……それは良かった」
眼前の少女の声は固く、悲壮感を感じさせた。
無理もない。逆の状況なら、俺だってアレコレ想像するだろう。
そういうのじゃない。
危害を加える気なんてさらさらない。そう言ってやりたい。しかし、この状況でそんなあからさまな台詞を吐くことは、返って彼女を怯えさせないだろうか? 結局、黙って彼女のつむじを見ているだけだった。
……何故俺が、助けてやる立場の俺が、こんな気まずさを味わわなければならないのだろうか。理不尽にもそんな考えすら浮かぶ。
「……ッ」
無言に耐えかねたのか、彼女はグッと膝を抱えた。
同時に、腹が鳴った。
俺じゃない、目の前の腹だ。
そろそろと、少女は顔を上げた。さっきより、血色が良いように見えた。
「…………聞こえた?」
可愛い音だねとでも、言えばいいのだろうか。
「とりあえず、名前を教えてくれないか」
下手なりに、今度は笑って言えたと思う。腹の音には触れないことにした。
「……サユ」
仏頂面で、少女は名乗った。
「…………俺はハクウ。同郷のよしみだ、奢るから、飯でも食わないか」
「食べる」
「そうか」
少女の……サユの手を引いて立たせてやる。俺の胸元にも届かない頭に、改めて幼さを感じた。
泥をはたいてやろうとして、こんな細っこい身体でも女性なのだと思いとどまる。少し考えて、外套を脱いで、サユに着せてやった。雨に打たれ続けるよりは、少しはマシだろう。素直に外套を受け取ってくれたことを嬉しく思う。
俺達は見つめ合った。多分、お互いに言葉を待っていた。
何か…………気の利いた、少しでも安心させるような暖かい言葉を……………………。
「……何が食いたい」
「肉」
「……分かった。豚鬼の肉でもいいか?」
「なにそれ、キモイ」
「案外いけるんだ、それに安価だ……」
初めて、はにかむようにして、サユは微笑んだ。
俺達は連れ立って、雨空の下を歩いていく。
これが俺達の出会い。
長く続く奇妙な関係の始まりだった。
これが最後の投稿にならないよう頑張ります