二つ
聞いてはいけないことのように思えた。
というか、実際、聞いてはいけないことだったに違いない。
だけど僕の中に収めておくのには、あまりに大きく重いことだった。
「お兄ちゃん、無理はしないでください。あの、あのおじさんは、だれだったのですか」
何を言っているのか、わからないといった様子である。
一日が過ぎたのだしあのおじさんと言ったところでだれだかわからない。
それは当然であろうが、当然であるのも悲しかった。
お兄ちゃんは僕が見ていたことも知らない。
困ったような顔にどう説明をしたらいいのかがわからない。
「昨日の彼か。気配は感じたけど、やっぱりお前が見ていたんだね」
考えるように視線を彷徨わせて、溜め息とともに吐き出した。
髪を弄って視線を逸らす。
「無理はするなって、お兄ちゃんは僕に言いました。ですが、それは僕だけじゃなくって、お兄ちゃんも無理しない程度に頑張るよう努力するべきです。休む努力もお兄ちゃんには必要です!」
懸命の訴えが、届いたのか届いていないのか。
困惑の瞳が、苦笑いが、僕に恐怖を見せた。
この人に僕の言葉は届いていない。
「ごめんね。何か勘違いをさせてしまっているようだね。私は、無理だとかではなくて、好きでやっているのだよ……。誇れる兄でありたいから、お前には隠していたけれど、私は立派でいられなかったね」
言葉が嘘であることは、確実なことであった。
好きでやっていた?
そんなわけが、そんなわけがあるか。
なら、なぜこうも悲しい顔をするのか。なぜこうもまっすぐに僕を見ることができるのか。
それこそ好きでしているならば、正面からは見かねるはずだ。
隠していたくらいなのだから、そのはずだ。
優しさで全てを誤魔化そうとするけれど、ここで見逃してしまったらば、まただれにも気付かれないまま、お兄ちゃんは無理をする。
だれにも気付かせないように、お兄ちゃんは無理をする。
今ここでじゃなければ、次は僕だって気が付けないのに違いない。
悲鳴を上げてもだれも気付かない。
そしてストイックなこの人は、自分自身ですら誤魔化して、平気で笑えるような人なのだ。
だれにも守られず、それなのに、だれもを守ろうとする。
トップに立つに相応しい人であるし、トップに立つべき人なのでもあろう。
だからこそ守られるべき人なのでもあろう。
「今日の仕事がまだ残っているから、終わらせなくちゃいけないんだ。それじゃあ、お前はもうお休みね。それと、私の趣味は口外せず、できることならお前も忘れておくれね。どうか頼むよ」
凛とした背中を向けて、お兄ちゃんは去って行った。
引き留められなかったことで、自分を責められもしない。何度繰り返したところで、挑戦をし直したところで、指は届かないことを痛感させてくるから。
仕事だけがお兄ちゃんを慰めるものなのであろう。
何にせよ、好きでやっていると本人が主張するからには、どう言ったらよいものか僕にはわかりかねた。