Act.2 憂鬱なPhone Call
公演の終わったハコからはぞろぞろと人がはけていく。
皆が皆ライブセットやパフォーマンスについて語り合う中、寡黙な少女がひとり。
辻井リースは項垂れて歩いていた。
ショートヘアの金髪は、目に見えて傷んでいて心労を伺わせる。彼女のスマートフォンに着信が入った。
「はい、そうですか。――――到着しましたか」
乾いた声。感情が抜け落ちてしまったかのよう。
「どうした? なにか不服なことでも?」
それを電話の向こう側の相手に読み取られる。
「あの、マスター。あたしでは、駄目なんでしょうか」
相手の男をマスターと呼ぶ彼女。喧騒を避けるように壁に追いやられる。スマートフォンのマイクの収音部を包み込みようにして、か細い声を送る。
「今のお前では、声が続かないだろう。――――もともと肺の弱かったお前だ。歌手として生きていくことが難しいのは自分でもわかっていたはずだ」
思い切って聞いてはみたが、自分の甘えた願いが叶えられるわけもない。よりいっそう頭を垂れて背中を丸める。
「はい……」
「安心しろ。時が来れば、必ず舞台にもどれる」
「わかりました。マスター」
彼女にできることは、その言葉を信じることだけだった。
打ちひしがれる。彼女の背中はもたれかかった壁をずりずりと滑り落ちた。
「――――リース、久しぶりね」
ようやく人ごみがはけきったころ。ねっとりとした声が彼女の頭に降り注いだ。
「と、友見坂先輩……」
嫌味たらしい声の主――――友見坂嬉良――――は、腕組みをしながら蹲るリースをなじる。二―ハイソックスの似合う脚の長い少女だ。
「歌姫がどうもドサ回りご苦労さん。あ、でも……たしかもう声がそんなに続かないから、な~んも仕事入ってこなくなったんだっけ? せっかく人気が出てきてソロパートも増やしてあげたのに。長期の体調不良とは笑わせるわねぇ。――――ね、“元”歌姫さんっ」
笑う口元を線の整った手で隠し、けらけらと笑う。
リースは奥歯をぎりりと噛み締めた。
「やめな、嬉良」
挑発する嬉良を止めたのは、寺嶋優香梨。
リース、嬉良、寺嶋の3人はかつてアイドルユニットを組んでいた。
しかし、リースが声の不調をうったえ、音楽活動が難しくなったことが原因で、リースはユニットを事実上解雇というかたちで抜け出したのだ。
「――――喉は大丈夫か」
リースは、予測していなかった寺嶋の言葉に一瞬戸惑った。てっきり、嬉良からそうされたようになじられるかと思っていたからだ。
「無理をさせてすまない。――――また、一緒にステージの上に立てたらいいな」
静かに笑顔を向ける寺嶋。嬉良はそんな寺嶋の態度すら気に入らないのか、リースと寺嶋を交互ににらみつけていた。ぎょろぎょろと動くその目玉がひたすらに恐ろしく、リースはただただ俯くのみだった。
「嬉良、行くぞ。ここでの仕事に取りかかろう」
寺嶋が呼びかける。嬉良はわざとらしく足をずりずりと鳴らしながら、その背中についていった。リースをいびり足りないのが惜しいとばかりに。
「――――今日は帰ろう」
左胸を押さえながら立ち上がる。嬉良の声を聞くたび、胃がキリキリと痛む。
リースは地下の地下から、地下にまで登ってきた。シェルタリーナは巨大な地下都市。ハコから登って来てもそこは鉛色の天井の下だ。
鉛色の天井はドーム状になっている。真っ直ぐに進めばいずれは天井となった壁にぶち当たる。そこにはドアがあった。“EXIT”と上に緑色のランプで表記されている。地下から地上への通り道は何のカモフラージュもない。
ドアをくぐるとまっすぐにエレベータへと続く通路がある。もはやリフトと言うべき、剥き出しの昇降機に乗るリース。こいつが地上への船だ。
昇降機がついた先。再び一本道の通路を渡るとドアがある。その先は廃線になった地下鉄の駅だ。崩れた瓦礫は人が通れるようにどかしてあり、人の行き来があることを伺わせる。ひび割れたコンクリート製の階段を上り終えるとやっと本物の地上だ。とはいっても、結局夜空は真っ黒で鉛色の天井とさして変わりはないのだが。
――――やっと家に着いた。
玄関を入ると、ただいまと言う前に家の中から声がした。
「おかえり、里依紗。今日はどうだったんだ?」
辻井リースというのは芸名だ。本名は辻井里依紗。母は8年前に交通事故で他界している。それ以来、家では父の辻井恵介とふたり暮らし。
「最近は、顔が暗いな。何かあったのか?」
「なんでもないよ。今日も歌を歌って踊った。それだけ」
早速父親に向かって大嘘をついた。このところ舞台の上はおろか、マイクすら握らせてもらっていない。地下のドサ周り――――シェルタリーナの調査――――ばかりだ。
「そうか……」
そっけない会話を父は年頃だからということで飲み込んでいるのか。すっかり軽薄化した父娘の会話。
ここ2、3ヶ月の間ろくに歌わせてもらっていない。そんなことを正直に話せば、父はどんな顔をするだろうか。父は幼い頃から歌手に憧れていた自分を、大金をはたいて養成所に入れてくれたというのに。情けなくて黙りこくることしかできないリース。
「――――父さん、また地下室に行きたい」
不甲斐ない自分を忘れたくて逃げ込む場所がある。
「いいよ」
父はにっこりと笑った。
地下室は父の秘密基地だ。実はリースは、父が家を空けている間は地下室に入り浸っている。流石に部屋主がいるときは一声かけるようにしているが。
中に入ると、まず目を見張るのが、世界中のアーティストのものが揃っているという大量のCDストック。60年代の生まれたてのロックから、ハードロックの全盛期80年代、ブリットポップやグランジ・オルタナティブの90年代。すべての音楽史がここに揃っている。
ボブ・ディランにビートルズやプレスリー。デビッド・ボウイにサイモン&ガーファンクル。それ以前のロックンロールという言葉ができる前の音楽だってある。もちろん邦楽のCDも沢山。
リースはここでギタースコアを読みあさり、毎日のように練習をしていた。その甲斐あって、ギターは彼女の得意楽器だ。
「里依紗はここが好きなんだな」
「うん、ここは自由だから」
本来、ここにあるCDは、すべて所持すること自体が違法にあたる。政府はなんの目的か文化を認可のない音源の所持を厳しく処罰するようになった。違法でないのは政府が管理するレーベルから出された音源のみ。定期的に政府の役人が住居を訪ねるため、地下に秘密基地を作って保管をしているのだ。
管理音楽の生み出した楽曲そのものは悪いわけではない。ただ、管理音楽という体制自体が音楽を腐敗させていた。それは父娘共通の認識。そんな中で夢を叶えるために政府の認可を受けた養成所に通わざるを得なかったのは父娘にとって苦い決断だった。
「ちょっと練習したいから、ひとりにさせて」
そう言うと、分かったと言って父は階段を上っていった。
突き放しているように取られるのは内心辛いところもあったが、独りになりたかったのは事実だ。父のお気に入りのアコースティックギターを太ももの上に寝かせ、ため息をひとつ。
「ギターが弾けたって、あたしはボブ・ディランにはなれない」
管理音楽の下では、一般人は一般人のままでしか生きられず、アマチュア活動もできない。アーティストになっても提供された歌を歌うことしか許されない。
たとえギターがいくらうまくても、天才的な詞・曲が書けてもそれを歌うことは重罪だ。自由が許されたのは閉じた地下空間だけ。
寝かせたギターを立て直し、拳でギターを叩いて拍子をとる。おもむろに弾き始めたのは、2年ほど前に自分で作った曲、『孤独のライオン』だ。
》
女のくせにたてがみ生やして 我が強いのよ
群れるハイエナにはなるなよと 育てた親が悪いのよ
初めて恋をした瞬間に 生き方がアダになった
守ってやりたいと女になんて
なれるわけないし なりたくもない私は
孤独のライオン Woh Woh 吠え続けている
孤独のライオン Woh Woh 駆け抜けている
》
ちょうどひとしきり歌い終えたところで電話が入る。
今最も話したくない相手からだった。画面の前で一度咳払いをしてから応答する。
「もしもし、なんでしょうか。マスター」
「長い間ドサ回りごくろうだったな」
その声は、胸元を抉るようにして聞こえてくる。
「いいえ、とんでもございません」
「今日はお前にとっておきの知らせがある」
「なんでしょうか」
「お前に舞台に戻ってもらおうと思ってな」
その言葉はにわかには信じ難かった。――――というより信じる気はなかった。どうせ自分はまた突き落とされる。
「そうですか」
「なんだ? 嬉しくないのか?」
「いえ、そういうわけでは……」
「だが、うちのユニットに戻るわけではない お前には潜り込んでもらう」
舞台に戻るというのは建前、実際はまたドサ回りだった。シェルタリーナで調査をしていた対象。地下のアイドルプロジェクトに潜り込めと。潜入にあたり近づくべき標的は、そのプロジェクトを手掛けるプロデューサー。
ムンク・オスカー
彼は、10年前に音楽業界の独占体制に対して抗議し、監獄にぶち込まれた。
「は、はい」
「ムンク・オスカー彼をかく乱させて欲しい。――――まあお前はごく普通に振舞ってくれ。お前には良心を捨てることはできないだろうからな」
「承知しました。マスター」
機械的な返答とは裏腹に内心は複雑な気持ちだった。指令の内容が引っかかる。
“良心を捨てることはできないだろうからな”
リースはゆっくりと反芻する。しかし噛み砕けず。心はただただ震えるのみだった。