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Act.14 幸福な食卓

 リースは地上の家を捨て、逃亡した。

 ――――なんてことはない。彼女は大方、地下にでも逃げ込んだのだろう。そう考えてはいるが、嬉良は少しだけ不安なところがあった。

 エデンの中枢に戻る。巨大な扉の前で立ちすくむ。

 良い知らせを持って行くときは、胸を張ってその扉を叩くことができる。だが、今回は悪い知らせだ。深呼吸をしてから、扉を叩く。


「マスター、リースがどうやら逃げたようです」


 嬉良はへりくだって、床に膝をついて俯いたまま、報告した。唇は震えている。


「――――そうか」


 家康は玉座から嬉良を見下ろし、彼女の身体を背中から視線で刺した。

 嬉良は胸を串刺しにされたかのような痛みを覚え、肩を震わせる。――――彼女は、失敗を報告することに慣れていない。まるで別人のように怯えを露にする。


「し、しかし。逃亡先の目星はついていますっ」

「君には期待をしている。僕を失望させないでくれるといいがな」


 皮肉を言う家康。

 彼は失敗に異様に厳しく、それを彼女は異様に怯えている。


「大丈夫です。ご心配なさらず。――――この度、医療関係者とコネを持ちまして、大量の医療用麻酔と、薬物も手配できました。リースには、既に禁断症状も出始めています」

「禁断症状……? 父親を人質にタバコを吸わせていたんじゃないのか」


 家康が嬉良の言葉にぴくりと反応する。


「簡単に禁煙してもらっては困りますから。依存性を高めるために、薬物を混入させました。もうリースは、それを5箱も吸ったことになります。禁断症状はさらに重篤化し、薬物依存症になるのも秒読みかと――――」


 俯いたままつらつらと語る嬉良。その狂気じみた内容に、家康は引きつった笑みを浮かべる。


「――――良いじゃないか。実に粘着質で狡猾な計画だ」

「ありがとうございます」


 そこでようやく嬉良は顔を上げ、家康と目を合わせた。

 彼が笑みを浮かべていることを確認すると、嬉良は心の中でそっと胸を撫で下ろした。


「どうした? らしくないじゃないか。いつものあの笑みはどうしたんだい?」


 そこで嬉良は、いつもの自分を思い返し、あの鋭い猛禽の瞳を再び取り戻した。引きつった邪な笑みを浮かべると、家康はそれにご満悦とばかりに唸った。


「ご心配なく、マスター。あたしは必ずや、ICを地獄に貶めてみせます」


*****


 リースは目が覚めると、身に覚えのない部屋にいた。吸水性などまるでない合皮のソファーの上。寝汗で皮膚が少しヌメってしまっている。寝心地は、お世辞にも良いとは言えない。

 しかし、自分の身体には毛布がかかっている。誰かが世話を焼いてくれたらしい。

 ふと自分の身体を見る。明らかに丈の合わない、男物の寝巻きを着せられている。自分がいる部屋はひどく汚く、破れたノートや紙が散乱し、そのひとつひとつに譜面が書かれてあったり、歌詞が書かれてあったり。中にはステージの組み立て図や、衣装のデザインを絵に描いたものまである。

 一番近いところに落ちていた紙を拾い上げ、そこにある書きかけの歌詞をまじまじと見つめていると、部屋のドアが開いて男が入ってきた。ムンク・オスカーだ。


「ああ、起きたか。おはよう」

「お、おはようござ――――」

 ――――とそこで、自分が一心不乱に地下まで走って、共同スタジオの入り口で力尽き、意識を失ったという顛末を思い出す。まさか、自分が丈の合わない男物の寝間着を着ているのは――――と、顔を真っ赤にするリース。


「何がなんだかわからんだろうが安心しろ。服を変えたのは私じゃない、星羅だ」

「えっ……」

「おはよ、リースちゃん」


 共用のキッチンスペースに立つ星羅の姿を見て、リースは走り出さずにはいられなかった。星羅の上半身に縋りついた。


「ちょっ! リース! 寝てなきゃダメだよ!」


 星羅は、動揺しながらも心の中で安堵のため息をつく。

 リースが玄関先で倒れて意識を失っているのを目にしたときは、星羅もどうにかなってしまいそうなくらい心配したのだ。


「これで、星羅も寝れるんじゃないのか? 昨晩は私が呼び出したせいで一睡もできなかったからな。

 まあ、私も寝ていないがな」


 わざとらしく、あくびをひとつ。

 ようやくリースの抱擁から解放された星羅はそれを見てくすりと笑った。


「まったくひどいですよ こっちはようやく布団に入ったところなのに。スタジオに来いと呼び出して」

「いきなりずぶ濡れの女が玄関にやってきて、倒れたんだぞ。こっちの身にもなれよ。

 まあ、とにかくこれで一安心だ。今、美那ちゃんも来てるから世話焼いてもらいな。朝ごはんつくってくれてるんだよ」


 冷蔵庫から材料を取り出し、調理台に置くところで、美那とリースは目が合った。小柄な美那が冷蔵庫の扉の影に屈んでいたので、気づかなかったのだ。


「美那は本当におしとやかで、料理もできて気立てがよくていいコだな。どっかの誰かとは大違いだ」

「ちょっと、ムンクさん! あたしだって、料理くらいできますよ! っていうか今も手伝ってるし!」

「ホットケーキ焦がした奴がか?」

「それは8年前の話でしょ!」


 星羅とムンクのやり取りは相変わらずだ。ここには、自分を脅迫する存在もなければ、自分を思考の螺旋に陥れる沈黙もない。心地よい騒がしさに、リースのこわばった表情は緩んだ。


「あ、朝ごはんできたよー」


 しばらくすると、美那と星羅が声を揃えた。ムンクが乱暴にテーブルの上を片付ける。ソファーに座るリースの前に、出来上がった朝食が運ばれてきた。リースは、食卓を前にして硬直した。


(な、なに……、この量……。こ、これを、この量を朝からたべろというのか)


「いっただきまーっす!」


 他の3人は当惑するどころか嬉々としている。

 だが、自分の前に並べられた朝食の量に眉をしかめずにはいられない。並々と茶碗に盛られたご飯。それだけでもお腹がいっぱいになりそうだ。

 その茶碗の反対側に置かれたお椀には、具だくさんすぎて汁がほとんどない味噌汁が置いてある。本当は味噌汁ではなくゴボウやレンコン、コンニャクが入ったけんちん汁で、具だくさんなのは当たり前なのだが。リースはけんちん汁など食べたことがないので、バカみたいに具だくさんな味噌汁にしか見えない。

 この2品だけでもリースにとっては相当な量なのに、お品書きはまだ終わらない。

 秋刀魚の塩焼き――――小骨が多い上に、背わたの苦みがあって、リースは苦手だ――――にだし巻き卵。

 そして、小鉢には何やら得体の知れないものが入っている。

 リースにはそれが食べ物かどうかすらわからなかった。緑色はほうれん草で赤色は人参だろうか、こんにゃくも入っている。だが、それらを包んでいるぼそぼそとした黄ばんだ白い粉のようなものが、全くなんなのかわからない。


「リースちゃん。もしかして、嫌いなものあった?」


 隣に座っていた、この豪勢な朝ごはんの作り主である美那が上目遣いでそう聞いてきた。

 嫌いなもの。たしかに、リースは秋刀魚があまり好きではないが、それ以上に得体の知れない和え物が気になって仕方がない。

 いや、まずそれ以上に、この尋常じゃない豪勢さを問いただすことにした。


「い、いや。あの――――なに、このすごい量」

「え? これくらい普通じゃないの?」


 もっとも小柄な美那が言うものだから、リースの口はぽかんと空いてしまった。


「まあ、こんなに朝食べるのって言われてみれば久しぶりだな」

「でも、修学旅行だったらこんなぐらい朝食食べさせられない?」

「今年32だぞ。修学旅行なんてもう15年以上前だ。

 しかし旨いな、出汁がよく染みてる」

「本当ですか?」


 腕によりをかけた手料理が評価されて、ぱぁっと晴れ上がる美那。

 3人が箸を全く休めることなく、進ませていることからその美味しさが測り知れるのだが。リースはその光景にすっかり引いてしまっていた。

 というかよくよく見ると、リースの前に並べられた朝食だけ異様なのだ。明らかに彼女の茶碗のご飯だけ、うず高くもられている。他の3人は半尾の焼き魚は、彼女のものだけ一尾まるまるだ。だし巻き卵が2個多い。汁物のお椀が一回りでかい。そして、得体の知れない和え物は小鉢から溢れている。


「朝からこんなに量食べれないんだけど。それに、あたし太りやすいし」

「いや、太ったほうがいいって」


 ムンクががつがつとご飯を食べながら、デリカシーのない言葉を放った。それに思わず「はぁ?」と声を上げてしまった。


「はぁ? とはなんだ・・・、思ったことを言っただけだ 鏡を見てきたらどうだ? どう見てもやつれているぞ。

 美那もその顔を見て元気を出して欲しくてその量をわざわざ作ったんだ。わかったら冷めないうちに早くたべろ」


 ムンクのその言葉に自分のわがままに気づいた。そして同時に、昨日鏡で見た自分のやつれた姿を思い出す。――――ちゃんと食べないと駄目だ。

 思い直したリースは、箸を取り、ご飯を口に運ぶ。ほわっとしたほのかな甘みが噛む程に広がる。続いてだし巻き卵を一口かじる。適度な塩っけと出汁の香り、卵の甘味が口の中いっぱいに広がった。


「お、おいしい……」

「よかったー。リースちゃん、和食なんてあんまり食べないから、ちょっと心配しちゃった」

「ところで、美那ちゃん。――――これ、なに?」


 リースはかねてから不思議に思っていた、小鉢の中の得体の知れない和え物の正体を美那に尋ねた。


「ふぇ? 知らないの? 卯の花だよ」

「うのはな? なにそれ?」

「おからのことだよ」

「おからってなに?」

「豆乳の搾りかす」

「それ、食べられるの?」

「食べられるよ!」


 ふたりの滑稽な言い合いに、星羅とムンクが声を合わせて笑った。


「ほんと何も知らないなぁ、和食たべたことないのか?」

「わ、和食は食べたことあるけど! 卯の花なんて、父さんにつくってもらったことないし!」

「まあでも、あたしも卯の花初めて食べたの中学の時だし。でもおいしいよ。食べてみなよー」

「う、うん」


 星羅に言われるがまま、数秒前まで自分の中で勝手に“物体X”と名づけていた卯の花をそっと箸ですくう。見た目に似合わず、それはちゃんと形を保って箸の上に鎮座した。そして口の中に入れる。ほろほろとしたおからの食感が非常に新鮮で、優しい味わいがした。見た目にすっかり惑わされていたため、想像をもし得なかったその味に惚れ惚れしてしまい、うなってしまった。


「うぅうん!」

「うぅうん! だって……ハハハ」

「リースちゃん、大げさだよ 卯の花なんて貧乏料理なんだから。その分だと、全部食べれそうね」

「うんっ!」


 ――――だが、その威勢のいい返事にもかかわらず、リースの分の朝食は、結局半分以上、ムンクが食べたのだった。


「嘘つくなよ。リース。あー、寝てない上に食べ過ぎた」


 ほぼ徹夜のところに、大量の飯をかき込んだものだから、ムンクはすっかり胃の調子を悪くしてしまった。


「ご、ごめんなさい」


 思わず謝ってしまうリース。


「無理して食べなくても、お昼に残しといたらよかったのに」

「美那……、そういうことはもうちょっと早く言ってくれ 気持ち悪……」


 ぐったりしているムンクの肩を、星羅が優しくぽんぽんと叩いた。


「リースちゃんはいつも朝、そんなに食べないの?」

「いや、むしろ食べることの方が少ない」

「それは駄目だよー。ちゃんと朝、食べないとー」


 普段から、リースが食事の際、野菜の量などを注意してくる美那。朝食をあまり食べることがないという不摂生を聞いて眉をぴくぴくと震わせる。


「だ、だって。朝は、父さん寝てるから――――」

「パンも自分で焼けるし、卵焼きぐらい作れるでしょ?」


 星羅の言葉に、美那はうんうんと頷いている。

 先程4人分の豪勢な和食を作った美那、そしてそれを手伝っていた星羅にとっては“卵焼きぐらい”という認識だった。

 もちろん、ムンクも自炊経験は有り、料理も人並みには出来る方なので、卵焼きなど朝飯前だ。だが――――


「あたし、ゆで卵焦がしてから料理したことないよ」


 明らかにリースは、次元が違う人間だった。

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