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Act.13 Dope! Dope! Dope!

 ICを離脱してから数日が経った。

 リースは自宅待機。自室のベッドに横たわりながら、虚ろな目で天井を見上げる。


「短かったなあ」


 ぼそりとつぶやく。

 短かった。自分が舞台に立っていたのは、ほんの十数日かそれくらいだ。

 二週間ほど前、あのコンサートで起きた惨劇。麻酔に侵されて倒れ、退院した直後に父が拘束されていることを知った。突きつけられたのは、タバコの箱。毎日欠かさず吸え、さもなくば父の命はないと思えと。

 そのタバコのせいで、喉をやった。いや、喉だけではない。リースは自覚していた。

 このところ、脱力感が抜けない。だるいとかそういうレベルじゃない。自分の体重で立てなくなるのだ。別に太ったわけではない。むしろ、タバコを吸い始める前と比べて、体重は10kg近く落ちている。持っている服のほとんどが、サイズが余ってしまうようになった。


 全部、嬉良のせいだ。

 コンサートを台無しにしたのも、父を監禁したのも、今の自分を蝕んでいるものも、すべて嬉良の存在だ。

 真っ白い天井に、あの鋭い猛禽の瞳が浮かぶ。

 額に冷や汗がふつふつと湧き出て、唾を飲み込んだ。胸がきりきりと痛んで、息が荒くなる。やがて、激しい動悸に悶えながら、飛び起きる。


「――――っ、はぁ。はぁ……」

 

 リースは嬉良のことを考える度に胃痛と動悸、過呼吸に苛まれるようになった。そんなときにするすると右腕が、タバコの箱に向かって伸びていく。

 半ば夢遊病者のように、ふらふらと歩き、机の上に置いたタバコの箱を手に取る。そして火をつけて、口にくわえる。そうすると、手のしびれや脱力感が、少しだけマシになる。それを求めるときは、全身の筋肉が言うことを聞くのだった。

 ふと我に返る。すると、手のしびれが息を吹き返す。もう一本吸えと言わんばかりに。なんとかそれを振り切り、まだ長いタバコの火を消す。

 数日前までは、自分がそれを求めてしまっていることにひどく怯えを感じていた。しかし、今では何も感じなくなっていることが怖いのだった。


 何も考えないようにしよう。

 脳裏にまとわりつく思考を振り切るべく、リースは洗面所へと向かった。顔を洗えばさっぱりすると考えた。

 鏡の前に立つ。

 痩せこけた頬。クレーターのように抉れている。睡眠不足のせいで眼の下にはくまができ、荒れた肌は粉をふき、真っ赤に腫れている。唇と指の皮膚がささくれている。ぼうっと開いた口からは、黄ばんだ歯が覗いている。鏡の中の自分の姿は、見すぼらしいまでに不健康だった。


 全部洗い流して忘れてしまおう。

 ばしゃりと顔に水を被ると、荒れた唇に冷たい水がしみた。


 顔を拭き、自室に戻る。時刻は14時を過ぎたころ。

 朝から何も食べていない。お腹が減ったとか、そういう生理的欲求が麻痺してしまっているようだった。

 いいかげんなにか食べたほうがいいのか。

 そんなことを考えるも、家には食材がない。外に買いに出るのが億劫だ。――――というのは、今の自分が最寄りのコンビニまで自力で歩行できる自信がない。

 

 家からコンビニまでは歩いて五分ほど。自転車なら数分とかからない。

 しかし、リースは洗面所から歩いて自室に戻るまでの距離で、膝から崩れ落ちてしまうのだった。

 急に意識が遠のいてくらっとなった。

 それからは、背中を上から押さえつけられたかのように、じたばたともがくことすらできない。この立ち上がれないほどの脱力は、日に何回か襲って来る。外出などおちおち出来たものじゃないのだ。


 最近ではいよいよ、あらぬものまで見え始めてきている。

 もうそれこそ、現よりもはっきりと見えるようになってきた。――――手だ。恐ろしく巨大なその手は、リースの体が包み込まれてしまうほどの大きさだ。整った線の細さ、白い肌から分かる。女の手だ。

 リースには、その手が嬉良のものであるように思えてきた。その手が自分の身体を包み込み、耳には嬉良のせせら笑いが木霊する。


 意識が朦朧とする中、廊下を這い、あるものに手を伸ばす。自室の床に散乱している、嬉良から支給されたタバコだ。

 もはやそれを求めている自分に恐怖心を抱く間もなく、躊躇なく火をつけた。体が解放されるのを感じる。まるで、先程まで自分の体を握りしめていたあの巨大な手が、そっと優しく指を開いたかのようだ。

 口元がゆるみ、薄らわらいを浮かべる。自分の魂が深く深く落ちていくのを感じながらも、そのふてくされた笑みを抑えきれずにいられなかった。タバコくわえたまま、床に仰向けになり天井を眺めると、どこまでも天井が遠くなっていくようだった。そのまま天井は雲をかぶるほどまでに高く離れ、リースは意識を失った。


「熱い。熱いよ。ねえ、とうさ……ん……」


 リースの自宅は火に包まれていた。見慣れた自室の壁やら天井やらくまなく火の手が上がり、ごうごうと燃え盛っている。窓から逃げようにも、割れた窓の向こうから素手でもハンマーでもぶち破れそうにない鋼鉄の壁が覗いている。自室のドアは鎖でがんじがらめにされていて、いくつもの錠前がかけられている。ノブを必死にガチャガチャと回し、扉を押し引きし、何度も強く叩く。


「あつい! 出して、ここから出して!」


 叫ぶ声も虚しく届かない。

 焦る思いは次第にリースを攻撃的にさせ、ドアを無我夢中で蹴り続けるようになった。今度は椅子を投げつけてなんとかドアごとぶち壊そうとする。だが、普通の部屋の木製のドアのはずが、まったくもってビクともしない。割れ目も傷も入らない。やがて火がリースを包み込み、激しく運動した体は汗にまみれていた。

 少しずつタンパク質のこげたあの独特の匂いが立ち込めていく。身体がひび割れ焼けただれ、火をまとって燃え盛る。自分を包み込む炎の中で声にならない叫びを上げながら、また意識が堕ちていった。


「うああっ!」


 わけのわからない声をあげて目を覚ました。

 自分は冷たいフローリングの床の上で眠ってしまっていたようだ。窓の外は、先程まで夢の中の業火を、一瞬にして沈めてしまうかのような大雨。

 立ち上がって、曇った窓ガラスに手を這わす。


「――――逃げなきゃ」


 ぼそりと呟くと、部屋に散乱していたタバコの箱を抱えて、窓からすべて放り投げた。空から注ぐ大量の水によって箱ごとふやけていくそれらを見送ったあと、リースは荷物をまとめ、玄関を飛び出した。

 傘もささずに、豪雨の中全速力で走り抜ける。もちろんすぐに息が切れ、足が途絶えたが。それに例のごとく体の力が抜け、地面に手を付くこともあった。


 それでもなお立ち上がり、目指す場所があった。

 もう、リースは限界だったのだ。


「か、かくまってください」


 リースは命からがら、地下にたどり着いた。

 ムンクが間借りをしている共同スタジオ、その入り口で力尽き、湿った匂いのする床に倒れた。


*****



 リースが自分の家を飛び出して、日も経たないうちにがさ入れが入った。嬉良は、リースの自宅に盗聴器や監視カメラまで付けていたのだ。

 監視カメラの映像で、リースの逃亡を確認するや否や、嬉良はリースの家に上がり込んだ。運転手兼付き人として、スーツ姿の中年の男も連れている。


「もぬけの殻ですね」


 中年の男が言った。


「言わなくてもわかってるわ。KT、今イライラしてるの」


 中年の男は、KTと呼ばれていた。なんとも機械的な名前だ。

 KTとともにリースの部屋まで入り込んだ嬉良。彼女が苛ついているのは、頻りに床を踏み鳴らしている様子からも明らかだ。


「でも、逃亡先の察しはついてるのでしょう?」

「ええ。あいつは、地下の人間どもと仲良くやっていたようだからね」


 部屋の中には、開け放たれた窓から雨が入って、フローリングの上に水たまりができている。窓を覗き込み、外を見渡した。庭の地面に、雨に降られてすっかりふやけてしまったタバコの箱が散乱していた。


「あたしのプレゼントにこんなことして。結構手間暇かけたのに」

「これでめでたく禁煙というわけですか」


「さあ、どうだろうね。これをもう5箱も吸ったことになるあいつが、これなしに生きていけるとは到底思えないけどね」


 嬉良はハンドバッグから、外でふやけていたものと同じタバコの箱を取り出した。KTが顔を歪める。


「なに? あたしは吸っちゃいないわよ。人間やめても、アイドルはやめてないから」


 タバコの箱を開け、中から一本を取り出した。そして長い爪で、火をつけるがわにぴらっと飛び出した紙片をつまみ、引き抜いた。タバコの中に爪楊枝ほどの太さの、何かを包んだ薬包紙がねじ込まれていた。


「あいつはもう、こいつなしには生きられないはず。禁煙なんて無理に決まってる。本当の地獄はこいつを手放した時に始まるの」


 その薬包紙を開くと、中には白い粉が入っていた。


「そ、それは――――」

「以前に、大量の麻酔薬を発注した得意先から仕入れた、MDMAの類の薬物よ。PTSD(心的外傷後ストレス障害)の治療法の研究に使われていたものよ」


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