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臙脂色の竜使いの制服に身を包んだ鳶色の瞳をした青年が、夕闇の中佇んでいた。
マスターはよくぼんやりと遠くを見ていることがある。
マスターは整った顔立ちで背も高く、立ち姿を見ているだけなら本当に絵になる。
だがしかし、こんなときは、決まって良くないことを考えているときだ。
今までは、そんなマスターの側にただ寄り添うことしかできなかった。
でも、もう今までの私ではない。
「マスターッ。」
「え、ああ、どうかしたかい。」
「どうかしたかい、じゃあありませんよ。
ご飯まだですか。私もうおなかがぺこぺこです。」
「フフ…。ごめんごめん、もうすぐできるから。」
「マスター、今日はアレ、ありますか。」
「ああ、今日のデザートにしようと思って用意しているよ。それにしても…。」
マスターは急に声をあげて笑い始めた。
「なんですか、マスター。急に笑ったりして。」
「いや、ごめん。でも君と何年も一緒にいたのに、知らなかったなあ、と思って。
君の好物が、まさか『はちみつプリン』だったなんてね。」
「いいじゃないですか。女の子はみんな、甘い物が好きなんです。」
「女の子…?」
マスターはさっきよりも大きな声で笑い出した。
こんな風にマスターが笑うのは何年ぶりだろう。
私は心のどこかで安心しながら、それでも怒ったふりをした。
「どうしてそこで笑うんです。私のこの純情な乙女心を傷つけて、マスターなんてもう知りません。」
「いや、失礼した。そうだった、君は女の子だった。」
「まさか忘れてたわけじゃないですよね。」
「やだなあ、忘れるわけないよ。ハハハ…。」
楽しそうに笑うマスターを見て、怒ったふりをしながら私は嬉しくなった。
◆
竜である私が話せるようになってから、竜使いであるマスターはよく笑うようになった。
私が初めてマスターに話しかけたとき、私はマスターに約束させられたことがある。
『決して他の人間の前で、話さないこと』
竜は人語を話せない。
そんな竜が話せるようになったことが知られると、きっとまずいことになるのだろう。
私はマスターとの約束に、神妙な顔をして頷いた。
しかし、基本的にはほとんどが2人きりであるため、それほど注意を払う必要はなかった。
私とマスターは任務のため各地を飛び回りながら、たくさんの話をした。
◆
山岳地帯に行ったとき、びっくりするほど綺麗な夕焼けを見ることがあった。
景色の荘厳さも相まって、まるで一枚の絵画のようで、それがとても美しかった。
「うわあ。マスター、見てください。とても綺麗な夕焼けですよ。」
私はマスターに元気を出してもらいたくて、そう声をかけた。
しかし、マスターは夕焼けをみて、少し目を細めただけだった。
「あれ、マスターは夕焼けは嫌いですか。」
そう問いかけた私にマスターは少し苦笑いした。
「そうだね。あまり好きじゃないかな。」
ちょっと話題を間違った気がした私は、思わず俯いた。
「君は、夕焼けが好きみたいだね。」
マスターはそれでもこの話を止めるつもりはないらしく、そう言った。私は挽回のチャンスとばかりに、勢いよくマスターの方を見た。マスターはまだ、山々を染める夕焼けに目を向けていた。
マスターにもこの世界の中で、好きなものを増やしてもらいたい。
かねてよりそう考えていた私は、これがマスターに夕焼けを好きになってもらうチャンスだと考えた。
「夕焼けは大好きです。綺麗だし、それに元気をもらえます。」
「夕焼けがどうして元気をくれるのかな。」
「夕焼けって、太陽の励ましと約束だと思うんです。
太陽は明日の朝までいなくなるけど、必ず帰ってくるからそれまで頑張ってって、みんなを励ましているのです。
夜を乗り越えてねっていう応援と、必ず帰ってくるっていう約束の証として、こんなにも鮮やかな色で空や私たちを染めているんだと思います。」
「ふうん。太陽の励ましと約束、か。君は意外にも詩人だな。」
「エヘヘ…。そう思ってみるとなんだか元気が出てくる気がしませんか。」
「そうだね。僕も、なんだか夕焼けが好きになれそうだ。」
「良かった、それならこれからは毎日が楽しみですね。明日はどんな夕焼けがみられるかなあって。」
「毎日が、楽しみ…?」
マスターはぽかんとした顔をして、私を見上げた。
私はもう成竜であるので、背の高いマスターでも私の顔を見ようと思うと見上げる形になる。
ああ、私が人間だったら、至近距離でマスターを見つめ合う形になるのに、と残念に思う。
しかしマスターは私の心の中などいざ知らず、とても優しく笑って私の首を撫でてくれた。
「僕も、明日が楽しみになってきたかな。」
「わあっ。それなら私、晴れ人形を作りますね。明日天気になりますように。」
晴れ人形とは布と綿で作る簡単な人形だ。子どもが祭りやイベントの前日に、明日晴れるように願いを込めてせっせと作る。
マスターは私の手のごつい爪と私の口の鋭い牙を交互にみて、苦笑いした。
「君が、晴れ人形を作るんだ。…意外と器用なんだね。」
なんだかマスターが失礼なことを考えているようだったが、マスターの好きなものを一つ増やせてご機嫌だった私は、そこは追及しなかった。
◆
任務で北の地に遠征した時のことだった。
野営するには気温が低すぎたその日、私とマスターはちょうどよく深い洞窟を見つけ、眠りについた。
次の日の朝、目が覚めると外の景色が一変していた。
「うわあ、マスターッ。雪ですよッ。たくさんッ。」
「随分と積もったね。どうりで冷えると思ったよ。」
「雪がこんなに積もったところ、私初めて見ました。白いっ、冷たいっ、ふわふわっ。」
「ハハハ…。あんまりはしゃぐと滑って転ぶよ。」
「ッギョエッ…いったーい。」
「…注意しておいてなんだけど、竜も滑って転ぶことがあるんだね。」
「また馬鹿にして。あ、そうだ。マスター、二人で足跡つけましょうよ。」
マスターの足跡と私の足跡を二つつけた。
君の足跡は紅葉のような形だね、とマスターは笑ったけれど、そんなかわいいものじゃない。
大きさが違う。
マスターの足跡と比べると何倍もの大きさの自分の足跡を見て、こっそり溜め息をついた。
乙女の心はいろいろと複雑なのだ。
「君は雪が大好きなんだね。」
「はい、雪って綺麗だし、楽しいです。…ええと、マスターは雪は嫌いでしたか?」
「いや、好きだよ。君が好きなものは全て、僕にとっても愛すべきものなんだ。」
「…?なんだか難しいですけど、でもマスターも雪が好きで良かった。一緒に雪ダルマ作りましょう。」
「…君は、雪ダルマまで作れちゃうのかな。」
「やだなあ。マスター私のことなんだと思ってるんですか。雪ダルマくらい作れますよう。」
「よし、じゃあびっくりするくらい大きい雪ダルマにしようか。」
「はい、マスター。竜の本気を見せますから。」
良かった。マスターは今日も笑っている。
マスターが笑っていると、私も幸せな気持ちになった。
その日、私は張り切りすぎて、私の背丈まで届く巨大な雪ダルマを作った。
マスターはとんでもなく大きくなった雪ダルマを見て、また笑ってくれたのだ。
◆
そろそろかな、と思う。
マスターと話ができるようになって、しばらくの時が過ぎた。
マスターはよく笑うようになった。
私の他愛もない話に耳を傾け、穏やかに笑んでくれる。
言葉というものは本当に偉大だ。
竜が吐く炎より、よほど大きな力があると思う。
そして、マスターと話をするのにもすっかり慣れた近頃、そろそろいいかなと思った私は壮大な計画をたてた。
名付けて、『大好きマスター☆告白大作戦』。
そう、私のこの想いをマスターに伝えるのだ。
私の長年に渡り育んできたマスター大好きという気持ちを、言葉にする。
マスターはどう思うだろうか。なんと言うだろうか。
もちろん贅沢を言えば、恋人同士になれれば最高であるが。
いかんせん私はマスターとは違う種族である。
それもエルフやドワーフなどといった可愛らしいものではない。
竜だ。
全身鱗に覆われ、口からは火を吐き、鋭い爪で岩を抉るような、いかつい白竜だ。
種族というか、もはや哺乳類ですらないのだが、マスターは私のことをどう思っているのだろう。
いやいや、邪念はこの際置いておこう。
この間読んだ恋愛指南書にも、告白は気持ちを伝えることが一番大事、結果はおまけだ、と書いてあった。
私は常々こっそり集めておいた雑誌を取り出す。
鋭い爪でページをめくった。
私が兼ねてより目をつけていた記事だ。
『最強の恋愛パワースポット。ここで告白すれば、成功間違いなし。』
素晴らしい。
告白はシチュエーションが大事だ(恋愛指南書より)。
雑誌に載っていたのは、湖に住む人魚と人間の青年との美しきも悲しい恋の言い伝えがある場所だ。
人間の足では厳しい場所にあるせいか、実際にはあまり訪れる人はいないようだが、翼がある私には関係ない。むしろ他に人がいないところでないと話ができない私におあつらえ向きと言える。
よし、女は度胸だ(恋愛指南書より)。
私はマスターを連れ出すべく、勢い込んだ。
「君からのお誘いなんて、珍しいね。しかもはちみつプリンを売っている店じゃないなんて。一体どこに行くんだい。」
「それは着いてからのお楽しみです。マスター今日は時間は大丈夫ですか。」
「今日明日は非番だから問題ないよ。僕も君と過ごそうと思ってたからね。」
おおっ。嬉しい言葉を聞いた。これは脈があるとみていいのか。
しかし油断はできない。私は竜だ。マスターが私をペット的な感覚でもって接している可能性も否定できない。
そうこうしているうちに、雑誌に載っていた湖に着いた。
雲ひとつない良い天気。風が心地よく吹き抜け、森の香りを運んでくる。湖は太陽の光をキラキラと反射し、輝いていた。
「うわあ、綺麗なところだね。」
マスターは目を細めて湖面を見つめる。
雑誌で読んだとおり、最高のシチュエーションだ。
「マスター。」
マスターを呼ぶと、マスターは「なんだい」と首を傾げて私を見上げた。
今だ。今しかない。
これを逃したら次いつ機会が回ってくるか。もしかすると、もうないかもしれない。
告白するのだ。
心臓が早鐘を打つようにバクバクしている。
顔に血が集まる。
何をしているのだ、沈黙が続くとマスターが訝しむ。
今こそ私の中のありったけの勇気をかき集めて、さあ。
私は息を大きく吸い込んだ。
「初めて会ったときから好きでしたッ。私と付き合ってくださいッ。」
ぎゅっと目をつむって、叫ぶように言い切った。
しばらく沈黙が続いたので、私は恐る恐る目を開けた。
目の前にはポカンと口を開けたマスターの顔があった。
「…は?」
私はショックを受けた。
よりによって『は?』はないだろう。
拒否されるかもしれない、そんなことを考えたことももちろんあった。
これでもありったけの勇気を振り絞ったのに、マスターにとっては歯牙にもかからないようなことだったのか。
私はブルブル震えながら、低い声を出した。
「マスター『は?』っていうのはあんまりじゃないかと。私はありったけの勇気を出して告白したんです。それを『は?』って…」
マスターは慌てて、勢いよく首を振った。マスターが取り乱すなんて珍しい。
「そうじゃない、そうじゃないんだ。ただ、こんな特殊な状況で、まさか市井の女学生的な告白をされるなんて、夢にも思わなかったからさ。」
「特殊ってなんです。つまりマスターは、私のことを女子ともなんとも思ってなかったということですか。」
「いや、だから誤解だって。」
「もうっ、マスターなんて、知りませんっ。」
私はプイッとそっぽを向いた。
ちょっぴり涙が出て視界が滲む。
これは振られたんだろうか。すごく遠回しに振られたんだろうか。
マスターはそんな私の首を優しくなでて、そしてこう言った。
「僕も君のことが好きだよ。」
私は耳を疑い、しばらく固まり、そして勢いよくマスターの方へ振り返った。
マスターはとても穏やかな笑顔で私を見ていた。
「マ、マスター、今なんて…。もう一回お願いします。」
「あれ、聞いてなかったの。どうしよっかな。もう一回言えるかな。」
「もう一回、もう一回でいいんです。私に都合がいい夢じゃなかったことを確認したいんです。マスターッ。」
マスターはしばらく「どうしようかな」と言いながらニコニコしていたが、やがて少し真剣な顔をして言った。
「じゃあ、一回だけ言うから、よく聞いててね。」
「ハイッ。脳に焼き付けます。」
じゃあ、と言ってマスターは私の正面に回り込み、私を見つめた。
「僕の命が続く限り、ずっと君だけを愛すると誓う。」
今度こそ私は完璧に固まった。
マスターが、私を、愛する…。
マスターがそう言った。確かに今そう言ったのだ。
胸のあたりから色んなものがこみ上げ、目から涙が、鼻から鼻水が、止まらなくなった。
信じられなくて、でも嬉しくて、何をどうすればいいのか、訳が分からなくなった。
「ウェッ、グズッ、マスター、わ、私も、マスターを…。」
「ああ、はいはい。もう顔が大変なことになってるよ。」
マスターは優しく背中をさすってくれた。
それがとても気持ちよくて。暖かくて。
私はなんて幸せ者なんだろう、と思うとまた涙がでてきた。
かみさま、かみさま、ありがとうございます。
マスターと両想いになれました。
かみさまが言葉をくれたおかげです。
私はこのときただ嗚咽するだけで。
かみさまに感謝したり、マスターの言葉をもう一回反芻したりで頭がいっぱいで。
でも。
だから。
私は、マスターが泣きじゃくる私の背中をさすりながらつぶやいた言葉を、全く聞いていなかった。
「でも、僕にとっては君の幸せが一番大切だから、いつかその時が来たら君は君の幸せを見つけなさい。」
このときの私が、マスターのこのつぶやきを聞いていたら、この後何かが変わっただろうか。
私は、ただ単純に、呑気に、喜ぶだけだった。
マスターの苦悩も覚悟も何も知りもせず、恋にのぼせ上がっていた。
愚かな私は、それこそ何一つとして、気付いていなかったのだ。