ルビー・クルビン2
百合表現注意
基本的に貴族は横割り社会だ。
身分や資産によって明確に参加できる場所が決まっており、区分がはっきりとしている。公爵夫人ーーである私と男爵令嬢が一度も会ったことがないのはそのためだ。彼女が行くような場所は、私が出向かない下位の夜会ということになる。
そうなると困るのが招待状だ。夜会には招待状が必要だが、主賓に送るようにと命令したら目をかけて貰えると勘違いし媚を売ってくるだろう。ロイスは登城を許された権力者。阿る人々も多い。なるべく穏便に済ませるためにも、すでに貰っている人のパートナーとして訪ねたほうがいい。
ルビーさんは、元劣女だったが、その美しさを買われ、グルビン子爵の愛人となった。その後、養子として子爵家に迎えられていた。グルビン子爵はすでに死去されており、正妻であるグルビン子爵夫人も発狂死している。子爵夫人は子供を一人も産まなかったので、ルビーさんが事実上の跡取りとなっている。
ルビーさんに尋ねたら、男爵令嬢が訪れるという夜会への招待状が届いていると言った。昔、グルビン子爵が出資していた事業の夜会らしい。幸いだった。
ルビーさんと一緒にといったのは、こういった事情もあるからだ。
それに、ルビーさんはなんだかんだと言って私に甘い。危険なことでも頼めば一緒に着いてきてくれる。
ロイスに恨めしげに見つめられつつ、ぴかぴかの箱馬車に乗って、ルソール男爵の夜会へと向かう。
道中で、黒い燕尾服を着たルビーさんが、ルソール男爵の仕事について教えてくれる。それにしても、ルビーさん、とてもかっこいい。
今日は白手袋をつけたままだし、きちんと杖も持っている。白髪をまとめて、銀のリボンで結ばれていた。
トップハットの影と長い睫毛の影が一緒になって、赤い瞳に夜の暗さを与える。
それが仄暗い情念を灯しているように見えてどきりとする。人はみんな、心に夜を持つ。
ルビーさんの瞳にその夜がぼんやりと浮かび上がり、ルビーさんを侵食してしまうのではないかとひっそり懸念を抱く。
「ルソール男爵の仕事は、ろくでもない。色を売ると言ってわかる? あるいは花を売るというのだが」
さすがにそこまで子供ではない。
ルソール男爵は売春や娼館関係の仕事についているらしい。グルビン子爵は、好色家で有名だった。子爵夫人が発狂死した背景には、そのことも絡んでいるという。
「私がいた劣花館ーー娼館の運営にも携わっていた、下衆な男爵だが、貴族たちからの支持は厚い。あの場所はいい女揃いだからな」
ルビーさんの瞳が、思い出すように虚空を見つめた。ルビーさんがいた劣花館がどんな場所か分からないが、彼女にとって、場所自体に嫌悪感はないのだろう。苦しみより懐かしさを感じているようだった。
「ルソール男爵とは一度も会ったことはないが、招待状は届けられている。今年一年、資金提供した家にはもれなく招待状が配られているからね。売ってしまおうかとも考えていたのだが、お前と来ることになろうとはね」
この発言には驚いた。グルビン男爵はもう何年も前に亡くなっている。そうなると、資金提供しているのはルビーさんということになる。
嫌悪する過去を自傷のために金で繋ぎ止めているのだろうか。そうだとしたら、自罰的だ。
普通の人は、嫌なことは忘れたいはずだ。関わりなく、生活したいはず。元に、ルビーさんは意図的に女らしさを消している。それは、劣女時代の自分を消したいためではないのだろうか。
いや、違うのかも。ルビーさん自身は、劣花館自体にはそこまで嫌悪を抱いていない。むしろ、懐かしむ余裕すらある。彼女のなかで、劣女であった自分と劣花館は別のものなのかもしれない。
「ただ、この夜会は公のものというよりは私的な要素が強い。訪れる人間は、殆どが利用客でもあるのでね。だから、仮面舞踏会形式が一般的だな」
そうなると、男爵令嬢を探すのは苦労するかもしれない。
婚約者であるサバル様を見つけたほうがいいのかも。
「じゃあもしかして、招待状はいらなかった?」
仮面舞踏会ならば、容易に潜り込むことができるはずだ。無礼講だと、招待客以外の人間が来ても咎めないことが多い。
「いや、招待状の確認はある。身分を隠して出資する高貴な奴らもいるから、警備は厳重なんだ。噂じゃあ、第六王子が来るとか来ないとか」
「第六王子ーージーン王子が?!」
婚約者が姦通していたから婚約破棄した潔癖の王子が、劣花館の出資者。考えられない話だ。ジーン王子の異常潔癖は有名で、病的だと揶揄されるほどなのに。
むしろ撲滅運動に参加しているほうが納得できる。
「贔屓にする女がルソール男爵が経営している店にいるらしいな。熱心に通っているそうだ」
トップハットの位置を整えながらルビーさんが皮肉げに呟く。
「あの、ジーン王子が」
きいてはいけないものをきいてしまった気分。神経質なジーン王子が、女の子の顔を見て魂を抜き取られたように呆然としている。そんな姿を想像してしまった。
ちょっと、無理がある気がする。なにか事情があるんじゃないだろうか。
「王子が来るかもしれないと、招待状は裏で高額で取引されている。わたしが売ろうと考えたのもこのためだ。だれもが権力の虜さ。他人を蹴落とし、のぼりつめることしか頭にない」
「本当に王子が来るかも、分からないのに」
「面白いだろう? 僅かな可能性に賭けるのは、追い詰められたものか、よほどの暇人か」
ルビーさんは足を組み直し、その上に肘をのせにやにやとこちらを眺めている。
「ねえ、イライザ。アリギス嬢はどちらだと思う?」
「アリギ……男爵令嬢が王子とお近付きになりたいって思っているってこと?」
「他に何の理由があるというんだ。ルソール男爵は男性向けの商品しか取り扱っていない。劣男は、マダム・レティの管轄だから」
なんでだろう。踏み込んではいけない話をしているような。
劣男ってつまり、劣女の男版……。うわあ、ロイス、私は貴族の淫らな遊びを知ってしまったのかしれない。
「男だけの秘密の花園に、女が関わることはまずない。わたしみたいに、特殊な事情がないかぎりね?」
「男爵令嬢が王子を」
普通ならば、同じ空間にさえいることができない高貴な人。確かに、気に入られることができたら、愛人として囲って貰え、いい思いができるかも。でも、相手がジーン王子じゃあ難しいだろう。
「モギュレット家は、金はあるが身分は低い家だから、後者だろうか。それとも案外、財政難なのかも」
ルビーさん、野次馬根性が口から出てる。
「イライザ、そう軽蔑した目で見ないでくれる? わたしとて子爵として働かねばならない厄介な立場にいるのだ。モギュレット家の商売仲間には、わたしの商売の顧客になりそうな人達がごろごろいるのだよ。縁を結んでおくのも決して悪いことではない」
獲物を見つけた獣のようなぎらぎらしたしている。ルビーさんの口からあのお嬢さんだったら簡単に取り入れそうだとぎょっとする言葉が。
「ルビーさん」
「お前は、わたしを悪人のようにみるけれど。お貴族様なんてこんなものさ。我欲に溺れることしかできない」
「いえ、私もその貴族だから、知ってます」
私だって汚い欲がある。特にロイスと一緒にいると、自分が汚い人間なんだと叩きのめされる。ロイスは思慮深く、理性的だ。意地悪だけどどこか清廉で憎めない。
私とはまったく違う人間だ。
「その、私が変な顔をしてルビーさんを見ていたのは、私もルビーさんに惑わせられた一人なのかなと落ち込んでいてですね」
うわ、言っていて凄く落ち込む。ルビーさんから商売のために付き合っていると言われたら、どうしよう。裏切られた! って身勝手に怒ってしまうかもしれない。
ルビーさん、私をまじまじと見つめている。重たいと思われただろうか。今からでも撤回したほうがいい?
「あ、いえ、私みたいな騙しやすそうなやつ、いくらでも騙してくれて構いませんよ。裏切られたって怒ったりしませんし、むしろ寛大な心で許すので」
さ、最悪だ。事実と真逆のことを言っちゃうなんて。それに、尊大な言い方すぎた。ああ、鞭。私を罰する鞭はどこに。
どれだけ、叩かれれば、この口はきちんとした言葉をつむぐことが出来るようになるのか。
相手は子爵様だ。貴族どころか使用人である私がこうもやすやすと言葉を交わしてはいけない人なのに。
頭を掻き毟りたい。ロイス。ロイスはどこにいるんだろう。どうして、私を置いていくの。……違う、違う! ああ、もう、いつまで、使用人のつもりなのだろう。もう、五年以上前の話じゃないか。
「イライザ」
むすっとした顔が、不機嫌そうな声が、あの人に重なる。落雷に打たれたように、頭を伏せた。躾だと、重厚な声が響く。雨音がする。あの館に、私はいる。
「はい、ご主人様」
応えを返した後にぎょっとする。私、ルビーさんにご主人様と言ってしまった?
「ご、ご主人様?」
ルビーさんが瞠目している。そうじゃない。ルビーさんは、ご主人様じゃない。顔を上げなければ。
だが、白髪は銀髪のように見えないか。吊り上がった目は憎悪と愉悦に浸かってはいなかったか。この人はご主人様だ。ご主人様が帰ってきたのだ。罰して貰わなくては。
「どうぞ、鞭で打ってください」
「む、鞭」
「お気に召すまま。従います」
「こら、待ちなさい。イライザ。お前、まさか、あの陰険魔法使いと倒錯的な遊びをしているの?」
「いいえ、ロイスはしてくれません」
「お前、待ち望んでいるような言い方になっていないか?」
「して下さっても構わないのです。私は、卑しい使用人なのですから」
「イライザ?」
無理矢理、顔を上げさせられる。今度はなんだ。食事を口に突っ込まれ、嘔吐する姿をげらげら笑うのか。それとも血を吐くまで頬を叩かれ続けるのか。どちらにしろ、心を殺せばいいことだ。
耐えられないことなどない。心はないのだから。私は家具だ。
「お前、本当にそういうふしだらな遊びにはまっているの。だからって、わたしを選ぶ? ちょっと待ちなさい。いい? わたしは本気にしてしまうよ。嫌なら、わたしがなにもしないうちに笑って誤魔化しなさい 」
なにを笑って誤魔化すというのだろうか。
「なんでもして下さい。ご主人様」
ご主人様の瞳が墨の奥で燻る炎のように陰惨に燃えていた。食べられてしまうと、初めて、恐怖を味わう。
この人は、ご主人様?
違う。ご主人様は、私をこんな風には見ない。
では、この人は誰だろう。この人は。
「ああ! もう、話に脈略ないどころか、人の気を揺さぶっておいて、こんなに危ない遊びに巻き込み、お前はなにがしたいの。なんでもというならしてやる。いいね、文句を言うなよ」
そうだ、この人はルビーさんだ。
ご主人様じゃない。ルビーさんなのに。
「ルビーさ」
「黙れ」
熱いなにかがおしつけられる。それが唇だとわかったとき、彼女の手が私のドレスをしっかり掴んでいた。
強引に唇をこじ開けられ、舌が口内を撫で回る。息が出来なくて、ルビーさんの胸をどんどん叩いても、一向に離れることがない。むしろ、両手を掴まれ、身動きが出来ないようにされた。
彼女と目が合う。嗜虐的な瞳に身震いする。
あの、ルビーさん。私が鞭でとか言ったから、とっても被虐趣味の子だと誤解して……いや、さっきのは私のせいですけど、ちょっと待って欲しい。弁明をきいてほしい。
「ねえ、優しくしてあげるから、わたしに飼われないか?」
愛おしそうに髪を撫でられる。ぶわっと羞恥心が膨らんだ。叫びまわりたいほど、艶のある声だったのだ。
「惑わされているのはわたしだ。お前、一流の劣女になれるやもしれぬね。様々な女も男も見てきたわたしをこうも惹きつける」
ねえ、ルビーさん。これから夜会に行くんだよね?
その言葉も、降り注ぐ口付けのなかに消えて、溶けていった。