九、仕立屋ゴクサヰシキ
「それじゃあ遊びに行こう」
「どこに?」
「どこにでも」
「時間が許す限りね」
《ロンド》を後にして、五番目とカミルは雪織を引っ張っていった。
路地にいた易者に手相を見てもらったり、著者がすでに故人である本ばかりを取り扱う古本屋で立ち読みしたり、小さな鉱物や化石の標本を売る露天商の商品を手に取ったり、天文台で天体望遠鏡を覗かせてもらったり――それこそケット・シーを隅から隅まで遊んで回ろうとする少年二人に連れられ、雪織はそこで出会う初対面の人達と親しくなった。しかし天文台を出てすぐにまたどこかへ向おうとする彼らを追い、静かな雑踏を通り抜けたとき、雪織は五番目とカミルの姿が見当たらないことに気づいた。
「五番目? カミル?」
恥ずかしいため声を張り上げることはできず、雪織が小さく呼んだ名前に応じる者はいなかった。若干の焦りを落ち着かせようと一人歩みを進めても、五番目やカミルの後ろ姿は見つからず、次第に雪織の中で焦りが膨らんでいく。手持ち無沙汰に胸元の懐中時計を弄りつつ歩いていると、雪織は前方から歩いてきた人物と衝突してしまった。
「す、すみませんっ」
「いえ、平気よ。あなたも大丈夫?」
相手は《風信子堂》のダイヤと同じ十代後半くらいで、丈が膝まである菫色のカシュクールワンピースを着た女性だった。胸元まで伸ばした黒髪は濡れたような艶を放ち、カミルと同じ黄金色の瞳をしている。彼のように眼帯をつけてはいないが。
「大丈夫です。一緒に遊んでいた友達とはぐれたので、余所見をしてて――」
「あなた、そのお友達とどれくらいの時間遊んでいたの?」
思いがけない質問に雪織は戸惑ったが、すぐに「三時間くらいです」と答えた。
「だったら、しばらく私の店で休んでいきなさい」
「えっ」
「見たところ、あなたはあんまり運動が得意ではないわね。体力がないのに三時間も歩き回って遊び通していたら疲れて当然。お友達のことを悪く言うつもりはないけれど、はぐれてしまったのはきっとあなた一人のせいじゃない。あなたが疲れ気味だと察することができなかったお友達の一因もあると思う。……お友達は男の子?」
「あ、はい。五番目とカミルっていう名前の二人です」
一瞬、女性が眉を寄せたようだった。
「やっぱり。男の子は女の子のことを完全に把握できないから、仕方ないわね。じゃあ、ついてきて。店はすぐそこの仕立屋だから」
今さら辞退することはかえって失礼な気がして、雪織はそのまま歩き始めた女性を追った。ほどなくして女性が立ち止まった先には、想像していたよりもこぢんまりとした小さな二階建ての仕立屋が建っていた。小さいながらも存在感は、壁一面に描かれたモノクロのペイズリー模様が十分引き立たせている。木製の看板には縦書きで《仕立屋ゴクサヰシキ》と彫られてあった。女性は「入って」と言い、扉を開ける。
「ただいま、コリン」
「おかえり。……ケイラ姉さん、その女の子って」
カウンターの向こう側で頬杖を突いていた、コリンと呼ばれた少年――雪織とは二、三歳ほどしか年の差がなさそうだ――が、雪織を見た途端大きく身を乗り出した。ケイラという名前らしい女性とは姉弟なのか、彼女と同じ髪と瞳の色をしている。店番より早く外で遊びたい、と我慢しているように見える活発そうな雰囲気が感じられた。
「帰り道を歩いてるときにぶつかったの。一緒に遊んでたお友達とはぐれたらしくて、疲れてるみたい。ここで少し休ませようと思って、連れてきたのよ」
「ふうん」
雪織は二人の会話よりも派手な店内に気を取られていた。壁紙は等間隔で白、橙、青、緑、桃、紫と色を分けていて、床は赤一色だ。本物そっくりな花飾りや羽根飾り、リボン、ボタン、スパンコール、ラインストーンなどが所狭しと並び、天井には帽子やマフラー、ストール、ベルト、ドレスグローブをいくつも吊るしてある。取り扱っている服の大半は色鮮やかで、とても普段から着て外を出歩く気にはなれないものばかりだった。
店名通りの極彩色だ、と雪織は声に出さず呟く。
「ここの椅子に座りなよ。雪織」
ぼうっと店内を見回していたところ不意にコリンから声をかけられ、雪織は驚いた。
「どうして、わたしの名前を?」
「そんなに広くない島だからな。四月に入ってきた新入りさんの名前くらい、もうとっくに知れ渡ってるよ。ほら、こっちおいで。レモネードは好き?」
「あ、ありがとうございます。いただきます」
雪織は軽く頭を下げ、カウンターのすぐ手前に用意されたスツールに腰掛けた。コリンから差し出されたレモネードのグラスを受け取る。歩きっぱなしだった身体は自覚していた以上に疲れていたらしく、口に含んだレモネードが甘く感じた。
会計をするカウンターの内側は作業場を兼ねているようで随分と広い。奥にはいくつも布の束を入れた棚、その近くにはアンティークとして価値がありそうな足踏みミシンがある。カウンターの中に入っていったケイラはそのミシンの前に座ると、コバルトブルーの本繻子を用意し、カタカタと小気味のいい音を立てて縫い物を始めた。
「ここの服って、どんな人が買うんですか?」
現在、この小さな店に客と思しき人物は一人もいない。そのため派手な店内は目には騒がしいものの、耳にはしんと静かだった。雪織の質問にコリンが薄く笑みを浮かべる。
「《仕立屋ゴクサヰシキ》はサーカスとかパーティーとか、そういった特別な行事のために着る衣装を仕立ててるんだ。きみはケット・シーで開かれるサーカスを知ってるかい?」
「いえ」
「ここでは一年にたった二回だけ、夏と冬に一度ずつ開催されるんだぜ。今から一番近いのは七月開催のサーカスだから、きみも興味があったら見に来たらいい。僕も姉さんも、それから今はいない兄さんも、ここで仕立てた衣装を着て演目の花形である空中ブランコを披露するんだ。ただ、チケットを買えたらの話になってしまうけどな。サーカスは大人にも子供にも人気だから、チケットはあっという間に完売するんだよ」
サーカスを実際に見たことがない雪織にとって、それは朗報だった。しかし胸が高鳴ると同時に、七月のサーカスが開催される前にこの猫窟島から去ることになるのではないかという不安に襲われる。もうじき猫窟島に訪れて一ヶ月が経つ。長いときには半年ほどその土地に滞在する母だが、一体いつこの島を出ていくことになるのかはまだわからない。雪織はなるべく考えないようにしていたことを思い出してしまい、たちまち仄暗い気分になった。
「……どうかしたのかい」
彼女の表情が曇ったことに目敏く気づいたらしく、コリンが優しく声をかけてきた。しかし雪織はすぐに愛想笑いを浮かべ、軽く首を横に振る。
「いえ、なんでもありません」
そう言って空にしたグラスを置いた雪織に、コリンはそれ以上干渉しようとしなかった。
「ご馳走様でした。そろそろ、お暇します」
「もういいの?」
雪織が立ち上がると、ミシンで作業をしながらケイラが訊ねた。まるで手足がミシンと一体化しているのかと思わせるほど、彼女の動きは正確で一定している。
「疲れも回復したので、もう一度二人を探してみます」
「そう」
「またいつでも来てくれよ」
「はい。お邪魔しました」
頭を下げて店から出ると、すぐ近くに五番目とカミルを発見した。雪織が声をかけるより早く二人は彼女に気づき、焦り顔で駆け寄ってくる。
「雪織! 見つかってよかった……」
「どこに消えてたんだい。ぼく達、ずっときみのこと探してたんだよ」
「ごめんね。天文台を出て、人混みの中を通り抜けたとき二人が見当たらなくて、わたしも探してた。そのとき女の人とぶつかって、この店の中でちょっと休ませてもらってたんだ」
カミルは目線を上げて、雪織の背後に建つ《仕立屋ゴクサヰシキ》に目を瞠った。途端に彼の顔が、どこか不機嫌さを感じさせる顔つきに変わる。雪織がどうかしたのか訊ねようとしたとき、突然カミルに右腕を掴まれた。
「行こう」
そのままずかずかと歩き出すカミルに引っ張られ、雪織は戸惑いながらも足を動かす。無言で隣を歩く五番目に窺うような視線を投げかけてみたが、彼は困ったように笑うだけで何も答えようとしない。やがて《仕立屋ゴクサヰシキ》が見えなくなり、時計塔の前でカミルは足を止めた。時計塔の前は広場となっていて、中央には丸い形をした噴水がある。カミルは噴水の縁に腰掛け、二人にも座るよう仕草で促した。
「雪織。あの仕立屋で、誰と会った?」
「最初にわたしが道でぶつかった相手はケイラさんっていう、綺麗な黒髪をした女の人だよ。仕立屋で会ったのはコリンさん。ケイラさんの弟みたい」
「その二人、きみに何か変なこと吹き込まなかった?」
「変なことと言われても――あの店で売っているのはパーティーやサーカス用の衣装で、ケット・シーでは一年に二回サーカスが開かれるって話なら聞いたけど……」
「それは別にいいんだ。ただ、他には何か言ってなかったかい? ぼくのこととか」
「カミルの?」
そう訊ね返したとき、雪織の脳裏に数分前に見たものが蘇った。五番目とカミルの名前を出したとき、ケイラは一瞬だったが眉を寄せたように見えた。本当に一瞬の変化で、雪織は気のせいだろうと思い込んでいた。だが、もし気のせいでなかったとすればケイラとカミルには何かしら関わりがあるのかもしれない。そんな考えが浮かぶ一方で、ケイラが反応した名前は五番目だったという可能性もあるのではないかと雪織は考えた。どちらにしてもケイラもコリンもカミルについて、何も喋ってはいない。名前すら一度も口にしなかったのだから。雪織は慎重に思案したうえで、首を横に振った。
「いや、特に何も」
「…………そうか」
雪織の答えに、カミルはどこか安堵したような表情になった。何故そんな質問をしたのかと訊ねたかったが、深く干渉してはいけないと思い、雪織は口を噤む。まだ二回しか会っていない相手なのだからと自分に言い聞かせた。
「わたし、そろそろ帰ろうと思ってるんだけど二人はどうする?」
「俺はもうちょっと遊んでから帰るつもりだ」
それまで静かに噴水の水に片手を浸していた五番目が言うと、カミルは頷いた。
「ぼくも五番目と同じ」
「それじゃあ二人とも、またね。今日は楽しかったよ」
「ああ。次はケット・シーの全体を回ってみようぜ」
「ばいばい、雪織」
二人と別れた後で、雪織は数歩進んだ先でふと振り返ってみた。五番目とカミルがそろって時計塔の中に入っていくところを見て、かすかな疎外感を覚える。
きっと五番目はカミルが雪織に何故あんな質問をしたのか、わかっているのだろう。雪織よりも先に二人は出会っていたのだから、彼らの絆が自分を間に挟んだものより強いことは当たり前だ。だからと言って雪織は、その疎外感を気にしないでいられるほど大人ではない。猫窟島に来る以前であれば、自分はどこへ行っても余所者なのだから仕方ないと諦観していた。そのため疎外感をさほど気にせず冷めた態度で過ごせるようになっていた。しかし、この島に来てからは今までと勝手が違う。雪織は嘆息してバス停に向かった。
「なんか変わったよな、雪織」
帰宅したばかりの娘に、夕食の準備をしていた母がぽつりと言う。
「ああ、もちろんいい意味でだよ。今までは何事にも冷めてる感じがしてたんだけど――最近は中学生らしいというか、明るくなった気がする。外に出て、遊びに行くなんてこともほとんどなかったのに。ここに来てから変わったよ、お前」
「………………」
それは全て五番目のおかげだと雪織は心の中で呟く。
これからも彼を含む二年一組のクラスメイト、ケット・シーで出会ったカミルともずっと友達でいたい。そんなふうに思える相手ができたことが嬉しかった。だからこそ、母が今この瞬間にも「出発するから荷物をまとめておくように」と言い出さないでくれと雪織はこれ以上なく祈っていた。