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猫窟島のケット・シー  作者: 手這坂猫子
第二章 ケット・シー
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八、ロンド

 土曜日の昼下がり、雪織は最寄りのバス停からケット・シー行きのバスに乗り込んだ。今日も自分以外無人だろうかと思って車内を見回すと、一番後ろの席で片手をひらひらと振る五番目の姿があった。長靴を履いた猫がデザインされたモノクロのシャツと濃紺のズボンを合わせた少年らしいカジュアルな格好をしている。

「隣、いい?」

「ああ。なんだか今日はケット・シーで雪織と会えるんじゃないかって思ってたよ」

 雪織が五番目の隣に座ると、それを見計らったようにバスが出発した。薄水色をしたシフォンチュニックの胸元に下がっている懐中時計を見て、五番目は訊ねる。

「その懐中時計、前にダイヤの店で貰ったって言ってたものか」

「そうだよ」

「俺は初めてのときにモルフォ蝶の標本を貰ったんだ。今も自分の部屋に飾ってる。でも、そうやって持ち歩けるものもいいな。……音、聞かせてくれる?」

 すぐに雪織は懐中時計の小さな発条を軽く一回だけ巻いた。五番目はそこから聞こえてくるオルゴールの旋律に溜め息をつく。

「本当にいい音だな。それに、そうやって首から下げていても重くないんだろ」

「うん」

「《風信子堂》は新商品を入荷することが少ないんだ。でも、稀に入ってくる新商品はその分、滅多にない代物ばかりだからな。今月はしばらく何も買えない」

「計画的に溜めるつもりなんだね」

「ああ。理科室で話を聞いたときから気になってはいたけれど、今実物を目の当たりにしたら余計欲しくなった。もちろんあのモルフォ蝶も文句のつけようがないけど、きっと雪織は俺より運がよかったんだな」

 羨ましいと言わんばかりの口振りで言い、五番目は仰け反る勢いでシートに背を預けた。

 やがて二人だけを客として乗せたバスはケット・シーに到着し、雪織は五番目と並んで再びケット・シーに足を踏み入れた。明るい時間帯に訪れたことがなかった雪織にとって、太陽の下ではっきりと色彩が映し出されたケット・シーからは、影絵や幻燈ではなく大きな劇場の舞台で作り出された空間のような印象が感じられる。

「雪織。あそこにいるの、カミルじゃないか?」

 五番目が指差す方向に目を向けたところ、人が行き交う様子をぼんやり眺めるカミルの姿があった。道端に咲いている忍冬の白い花を摘み取り、キスでもするように口に銜えてその蜜を吸っている。五番目が名前を呼ぶとすぐに彼も雪織達に気づき、退屈そうにしていた表情を綻ばせた。蜜を吸い終わったばかりの忍冬を道に落とし、カミルは雑踏の間をするすると通り抜けて二人の前に近づいた。

「きみ達二人は友達だったのかい」

「ああ。同じ学校でクラスも一緒だ」

「カミル。これ、返すね」

 雪織が以前借りていたシガレットケースを返すと、カミルは半ズボンのポケットから取り出した箱入り花煙草の中身を全てその中に入れた。

「この前はほとんど案内できなかったから、今日はもっと色んな店を教えておくよ。五鈴も自分がよく行く店、雪織に教えた方がいい」

「だったら、まずは《ロンド》に行くべきだ」

 五番目が先頭を歩くこと五分足らずで到着した店は、透明なガラス張りの正方形に近い外観をしていた。赤いネオンサインで《ロンド》と店名が書かれている。

「この店名、店長が音楽の()()()とドーナツの形をかけて考えたらしいぜ。食べ物はプレーンのリングドーナツのみだけど、シナモンシュガーとかチョコレートシロップとかで客が自由に味付けすることができる。飲み物はほとんどが珈琲だけど、種類が豊富だ」

 雪織に説明しながら五番目はガラスの扉を押した。途端に店内から甘いバニラの香りと苦い珈琲の香りが一緒になって溢れ出し、三人の鼻孔を擽る。ピアノの旋律が聞こえる中に入ると、清潔に磨かれたリノリウムの白い床が、天井からいくつもぶら下がる小さなシャンデリアの光を反射していた。どの席にもたくさんのシュガーポット、メイソンジャー、ディスペンサーが用意されている。繁盛しているらしく満席に近かったが、五番目は真っ先にカウンター席の隅に三つの椅子が空いているのを見つけた。隅から五番目、雪織、カミルの順でカウンター席に座ると、ちょうど奥の厨房でドーナツを揚げるパティシエ、エスプレッソにラテアートを施すバリスタの姿がよく見える。

「いらっしゃいませ。ご注文をどうぞ」

 ラテアートに見入っていた雪織は突然背後から声をかけられ、振り返った。しっかりと糊の効いていそうな白いウィングカラーシャツに灰色のカマーベストを着て、黒いエプロンを巻いたスラックス姿のウェイターが立っている。スカイブルーの瞳を持つ穏やかそうな顔が雪織に微笑を浮かべた。

「初めてのお客様ですね。歓迎します」

「あ、ありがとうございます」

 白と黒のツートーンとなっている長髪を項で結んだ彼は大人の雰囲気を持っていたが、よく見ると雪織達とそれほど年が変わらないようだった。十八歳かその前後と言ったところかもしれない。視線を素早く巡らせてみたところ、店内には老人から十代半ばくらいまでと幅広い年齢層の店員がいた。そのことに驚きながらも雪織は差し出されたメニュー表を受け取る。ドーナツは五番目の言っていた通りプレーンのみだったが、その分飲み物の種類が豊富でどれにするべきかなかなか決められない。

「ラグ。俺はいつもの……いや、ドーナツは二つで」

「ぼくはドーナツ三つとアイスココアにするよ。雪織はどうする?」

 メニュー表を見ることなく注文した二人に対し、雪織はまだ飲み物の名前全てに目を通し切れてもいなかった。五番目とカミルを待たせてはいけない、と思った彼女は一際目についたものを指差して「ドーナツ一つとこれを」と言った。

「かしこまりました。五鈴くんはドーナツ二つとシトロンエード、カミルくんはドーナツ三つとアイスココア、それと雪織さんはドーナツ一つとラズベリーチョコレートの珈琲ですね。それでは、しばらくお待ちください」

 五鈴にラグと呼ばれたウェイターは軽く頭を下げ、足音もなく静かにカウンターの奥へ消えていった。するとカミルが大きく見開いた左目で雪織を見つめた。

「きみ、珈琲なんて苦い飲み物よく飲めるね。好きなのかい?」

「好きってほどじゃないけれど……ラズベリーチョコレートの、って言うのがどんなものか気になっただけだよ。この際、アタリでもハズレでもいいかなって」

「不味くはないだろ。きっと今雪織が注文したもの、ラグが淹れるだろうからな」

 五番目はラグにかなりの信頼を置いている様子で言った。

「ウェイターなのにバリスタなのか」

「ああ。ここの店員って、結構役割が曖昧なんだ。ラグみたいにウェイターをしながら珈琲を淹れる人もいれば、ウェイトレスをしながらドーナツを揚げる人もいるぜ」

「ラグさんの珈琲、五番目は飲んだことある?」

「ラズベリーチョコレートは試したことないけど、カフェ・オ・レとかチョコレートシロップを混ぜた珈琲とかはたまに飲む。珈琲の良し悪しなんてわからないけど、美味いぞ」

「ぼくはせめてカフェ・オ・レにしないと珈琲なんて飲みたくないね。ところで雪織、味はもうどれにするか決めてあるのかい」

「味って」

「ドーナツの味付けに決まってるじゃないか。一つしか注文しなかったんだから、味は慎重に選ぶべきだよ。ほら、これ」

 カミルは自分のすぐ手前にあったシュガーポット、メイソンジャー、ディスペンサーを乗せた横長の銀盆を雪織の前に移動させた。同じものがいくつもあると思われたそれらには、それぞれ中に何が入っているのか示すための名札がついている。

「……粉砂糖、黒砂糖、黄粉、シナモンシュガー、蜂蜜、チョコレートシロップ、メープルシロップ、ジャム、プレザーブ、マーマレード……。こんなにあるんだね」

「ここでのジャムは林檎、プレザーブはブルーベリー、マーマレードはグレープフルーツだけど、他の席で借りれば別のものも楽しめるよ。一緒に注文した飲み物に浸して食べるのもなかなかいいんだ」

 しばらく待っていると、ラグが注文の品を持って現れた。まだ湯気が昇っている揚げ立てのドーナツと飲み物が目の前に置かれ、会話中だった三人は思わず口を噤む。

「それでは、ごゆっくりどうぞ」

 再びラグが立ち去ると、カミルはまずココアを一口飲んでからシナモンシュガーのポットを手に取った。スプーンで大盛りにすくったそれを三つのドーナツに雪のように降らせていく。すぐにシナモンシュガーの小さな山脈が出来上がった。五番目は慎重に思案しているようだったが決心がついたらしく、黒砂糖のポットとメープルシロップのディスペンサーを手に取る。そんな二人の手元を交互に気にしながら、雪織は真っ黒で熱そうな液体が入った陶器のカップを口元に運んだ。何度か息を吹きかけて冷まし、菓子のように香り高い珈琲に口をつけると、ラズベリーらしい酸っぱさと同時にチョコレートが混ざったかすかな甘さのある味が広がった。

「…………美味しい」

 ほうと息を吐いて呟くと、自然と口元が綻んだ。

「苦くない?」

 唇についたシナモンシュガーを指で拭いつつ訊ねたカミルに、雪織は苦笑した。

「苦いものは苦いよ。砂糖もミルクも入れてないんだから。でも、ラズベリーとチョコレートは単なる風味だけじゃないみたい。本当にそういう味がする」

「それで雪織。味付けは決まったのか」

「うん」

 雪織はカップをソーサーの上に戻し、銀盆に手を伸ばした。粉砂糖、チョコレートシロップ、プレザーブを皿の周りに置いた彼女に五番目とカミルは目を瞬く。そして雪織は彼らが見守る中で、ドーナツを三等分に千切った。

「こうすれば、一つのドーナツでも三種類の味が試せる」

 それぞれの味付けをして口に運ぶ雪織に、五番目とカミルは互いに顔を見合わせた。

「こんな発想、今まで誰も思いつかなかったな」

「うん。今思えば、すごく簡単なことなのにね」

 雪織は左右から尊敬に近い眼差しを向けられていることに気づかず、まだ温かいドーナツを味わうことにしばらく夢中になっていた。そして皿についたチョコレートシロップを丁寧に拭うようにして最後の一切れを食べ終えたところで、空になった皿が上から現れた手にひょいと取り上げられた。かと思うと、もう一つドーナツを乗せた新しい皿が雪織の目の前に置かれる。振り返ると、いつの間にかラグがすぐ後ろに立っていた。

「よろしければ、どうぞ」

「いいんですか?」

「ええ」

 店内の状況やドーナツの見た目からして、余り物の処分に困って、と言いたげな提供でないことは明白だ。客の対応に忙しそうであるにも関わらず、わざわざ自分のためにもう一つのドーナツを用意してくれたという事実に雪織は恐縮する。

「初めてご来店してくださったので、ほんのお礼です」

「……ありがとうございます。ドーナツ、すごく美味しいです」

 どうやらケット・シーの住人はダイヤと言い、ラグと言い、初めて訪れた人間に対して随分と好意的らしい。雪織は再びドーナツを三つに分けると黄粉、シナモンシュガー、蜂蜜でそれぞれ味付けをした。彼女が全ての味を堪能し、珈琲を飲み終える頃には五番目とカミルも皿とグラスを空にしていた。

 

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