七、共有
「雪織は猫が好きなのか?」
連休が明けて間もない涼しい朝。連休明けには避けられない気怠い空気が漂う教室で、着席した雪織に五番目が突然訊ねてきた。
「登校中に野良猫を撫でる姿を見たんだ」
何故それを、と訊ねる前に彼は付け足す。確かに雪織は十分ほど前、学校までの道中で灰色の毛を持つ野良猫と遭遇した。思わず足を止め、しゃがんでそっと手を差し出してみると人懐っこく近づいてきた。やや太り気味の体格をしたその野良猫を撫で回し、至福を感じていた一時を目撃されたらしい。通学路として使われている道の脇だったのだから当然なのだが、そのことをやや恥ずかしく思いながら雪織は頷く。
「うん。すごく好き」
「でも、お前の好きな宮沢賢治は猫が嫌いなんだろ」
「好きな人の好きなものを自分も好きになるっていうのはよくあることかもしれない。けど同じように好きな人の嫌いなものを自分まで嫌いになることはそんなにないと思う。わたしみたいに、好きな人の嫌いなものを好きになる人もいるんじゃないかな」
事実、雪織が猫好きになったきっかけは宮沢賢治の作品を読んだことだった。擬人化された猫達が織り成す物語を読んで、それまではただ可愛い小動物という認識だった猫に可愛さだけでない不思議な魅力を覚えるようになっていった。
「ただ漂泊生活してる身だから、生き物なんて飼いたくても飼えないんだ。飼ったとしてもストレスを与えてしまいそうだからね。いつか独立したら飼ってみたい」
「実際、生き物を飼うなんてそう簡単なものじゃないよな。でも、確かに猫はいいぜ」
その言葉に反応して、雪織は五番目を見つめた。
「五番目は猫を飼ってるのか」
「元々捨て猫だった赤ん坊を拾って育てたんだ。ラグドールっていう長毛種で、全体的に白っぽい奴が多い。綺麗な碧眼をしてる」
「へえ。可愛いんだろうね」
「もちろんすごく可愛い。鳴き声も静かだし、懐が深い性格をしてる。ただ比較的帰巣本能が強いから引っ越しや譲渡には神経質になってしまうかもしれないな」
「そっか……」
羨望の眼差しを曇らせ、肩を落として嘆息する雪織に五番目は優しく言った。
「よかったらうちで飼ってる猫の写真、撮ってこようか」
「本当?」
「見たいだろ」
「とっても」
「じゃあ約束な」
彼はすっと右手を雪織の前に出した。それは小指だけをぴんと立て、小指以外の指を折り畳んでいる状態だった。一拍間を置いて、雪織はそれが指切りをしようとしているものだと気づいた。彼女は今までに指切りをした経験はない。そもそも中学生にもなって指切りをして約束を交わす人がいるのかと驚いた。それでも無視することはできず、雪織は自分も小指を出して、五番目のそれに絡めた。上下に軽く二回振ってから離される。
「明日、写真を撮って持ってくるから」
そう言って五番目は席から立ち上がり、三人の男子生徒と一緒に教室を出ていった。それを見送った後、ふと雪織は視線を感じて右方向に首を向けた。自分の席から右に三つ、上に一つ離れた席に座る、腰の近くまで長く伸ばした髪が特徴的な回向昼顔がこちらを見ている。雪織と目が合うと相手は自然に視線を逸らした。普段から物静かな彼女は全くと言うわけではないが、あまり雪織と会話することがない。何故視線をこちらに向けていたのか少し気になったが、目が合っても何も言ってこなかった本人に追究する気は到底起きない。雪織は幾度となく読み返している宮沢賢治の本を開いた。
翌日、五番目は約束通り飼い猫の写真を持ってきた。
「可愛い」
「だろ」
まじまじと、写真に穴が開くのではないかというほど雪織は被写体の猫を見つめる。五番目が言っていたように、耳や顔の中心が黒く、足の先や尻尾は焦げ茶色で、全体的には白と灰色が混ざった、ふさふさとしていそうな毛並みのポインテッド。優雅な姿勢でこちらに顔を向けている。その瞳は快晴の空を写し取ったかのようなスカイブルーだ。
「性別は?」
「雄だよ」
「名前は?」
答えようとした五番目は何故か一瞬思い止まると、含みのある笑みを浮かべた。
「当ててみろ」
「…………レオ?」
「違う」
「ソラ」
「違う」
「コタロウ」
「違う」
「わからないよ」
「そんな、いかにも飼い猫につけられそうな名前よりもっと簡単な名前なんだけどな」
「タマとかシロとか?」
「それは違うけど」
結局五番目は飼い猫の名前を明かさなかったが、雪織も名前を知ることにそれほど執着を持っていなかったためすぐ諦めた。
「そう言えば、この島ってペットショップがないよね」
「ああ。大抵の飼い猫は島の外から連れてこられたんだ。ここにいる野良猫のうち何匹かは島の外から来た飼い主に捨てられて野性化したような奴もいるけど、大半は元々猫窟島に住んでいた猫らしい。基本的に島の猫は島民が協力して世話してる」
「へえ。……でも、猫は飼い猫も野良猫も野性的な感じがするよね。犬と違って」
「確かにそうだな」
雪織は写真を五番目に返し、彼の顔をじっと見つめた。すると五番目はすかさず「何?」と見つめ返すように視線を寄越す。
「わたしの思い違いだったら恥ずかしいんだけど」
「うん」
「五番目、何かわたしに訊きたいことがあるって顔してない?」
「………………」
しばらく沈黙した後で写真を鞄に収め、五番目は神妙な顔つきで周囲をぐるりと見回した。昼休みであるため、クラスメイトの半数以上がグラウンドか他の教室へ行っている。
「本当に何か訊きたいことがあるなら、答えられる範囲で全部答えるよ」
「わかった。じゃあ、理科室に行こう」
そう言うや否や、五番目は授業道具を抱えるとさっさと教室を出ていく。五時間目は理科だが、まだ授業が始まるまで二十分はある。猫窟島の住人は時間にさほど厳しくない融通の利く人柄で、この中学校の生徒も移動教室にぎりぎり間に合わせる者が多い。今の時刻では生徒どころか教師もまだいないはずだ。理科室の鍵が開いているかどうかも怪しい。わざわざ早めに移動してまで周囲に聞かれたくないことだとは雪織にとって思いもよらないことだった。彼女は慌てて授業道具を取り出し、五番目を追って理科室に向かった。
理科室の教卓には鍵が投げ出されていた。恐らく職員室からそれを借りていたのだろう五番目は、窓際のガラス戸棚にある貝殻の標本を眺めている。もう卒業した生徒が蒐集したらしいその標本は、十五種類以上に及んでいた。
「五番目。わたしに訊きたいことって何?」
雪織は自分の席に着いて話を促す。しばらくは煮え切らない様子で標本を眺め続けていた五番目だったが、ようやく席に座ると意を決したように口を開いた。
「雪織って、煙草を吸うのか?」
唐突な質問に思わず面喰った。当然雪織は喫煙者でなく、学校に煙草を持ち込んだ覚えもない。両親にも喫煙の経験はなく、今まで未成年のうちから喫煙するような連中と付き合っていたこともないため、煙草を手にしたことすらない。何故五番目がそんなことを訪ねてきたのか要領を得ず、彼女は戸惑うしかなかった。
「吸わないよ。吸うわけない。どうして、そんなこと……」
「これってシガレットケースだろ」
そう言って五番目が取り出したものに雪織は驚いた。それは間違いなく、カミルから受け取った花煙草が入っているシガレットケースだった。鞄のポケットに入れていたはずのものを何故五番目が持っているのかと目を見開く。
「雪織の机の下――フックにかけた鞄のすぐ下に落ちてたから拾ったんだ。四時間目の体育が終わって、教室で着替えてるときに。……ここの生徒は誰も喫煙なんてしないし、島の大人も煙草と酒だけにはすごく厳しいんだ。こんなものが見つかったって広まれば、絶対に教師の雷が落ちる。だから、あんまり人前で返せないと思ってた」
五番目は雪織にシガレットケースを差し出した。席から立ち、それを受け取ろうと彼に近づきながらも雪織はどう弁明するべきか悩んでいた。シガレットケースに入っている花煙草は、普通の人体に悪影響を及ぼす煙草とは違う。しかし本当のことを言ったところで信じてもらえないかもしれない、と思いつつ右手を伸ばした。
「花煙草」
「えっ」
シガレットケースに指先が触れたとき、五番目の呟きに雪織の動きがぴたりと止まる。
「これ、花煙草だろ」
五番目は若干見開いた雪織の目を見つめ、シガレットケースを開けた。それをそのまま雪織に手渡すと、彼はスラックスのポケットから小さな箱を取り出した。マッチ箱のようだが、一般的なマッチ箱と比較すると縦にも横にも大きい気がする。スライドさせる開け方もマッチ箱同様だが、箱の中には予想外のものがマッチと一緒に入っていた。
「俺も同じ《春季》、持ってる」
桜によく似た、花煙草が五本ほど箱の中にちょうどよく収まっている。雪織の目はさらに見開き、五番目を見つめ返した。
「じゃあ、もしかしてきみもケット・シー行きの乗車券を?」
「ああ。あの場所はもう二年前から知ってる。でも、俺以外に乗車券を持つ人は雪織が初めてなんだ。今日そのシガレットケースの中を見て、気づいた」
「わたしは海釣りをした日、家に帰ったら封筒が届いてたんだ」
「もし俺が受け取ったものと同じなら――青い切手を貼った銀色の封筒、黒地に白文字の手紙、それから白い名刺みたいな乗車券だっただろ」
「うん。手紙に書かれていた通り、六日の夜に行ってきた」
雪織はバス停でカミルと出会ったことから、金貨との険悪な会話、不思議な夜間授業、《風信子堂》でダイヤから貰った懐中時計、別れ際にカミルから受け取ったシガレットケースのことまでを手短に話した。
「カミルに会ったのか。あいつ、面白い奴だろ」
「ちょっと変わってるけどね」
雪織が微笑を浮かべると、五番目は不意に席から立ち上がり、近くの窓を開けた。そして窓の傍で花煙草とマッチを一本ずつ取り出す。
「教師に見つかったら雷が落ちるんじゃないのか」
「見つかったら、な」
尤もな切り返しに雪織が頷いて時計を確認すると、五時間目の授業が開始する時刻まであと十分だった。まだ教師も雪織達以外の生徒も来ていない。
「そもそもこれはケット・シーの花煙草。もう一年近く吸い続けてるけど、俺は健康だ」
「でも窓は開けておくんだね」
「もう五月なのに春の香りがするなんて変に思われるかもしれないだろ」
雪織は五番目の隣に立ち、自分も花煙草をシガレットケースから取り出した。すでにマッチで火を点けていた五番目は何も言わず、箱を雪織に渡した。
「ありがとう」
春の香りがする白い息は、二人が吐き出すとすぐ風に乗って消えていった。