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猫窟島のケット・シー  作者: 手這坂猫子
第二章 ケット・シー
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六、夜間授業と風信子堂

 夜間授業が開かれる教室は時計塔の中にあるとカミルは言った。首を反らさなければ全体が見えない時計塔の豪奢な扉は全開になって、学生らしい少年少女が出入りしている。二人は扉から入ってすぐ近くの階段を上がり、三階の広い廊下に出た。

「ここの教室だよ。席もたくさん空いてるから」

 言いながらカミルが一つの扉を開けて中に入り、雪織がその後ろをついていく。蛍光灯に照らされた乳白色の壁と天井、くすんだ薄水色の床で作られた四角い空間に三十個ほどの机と椅子が整然と列を成し、黒板や教卓のある部屋は普通の学校にありそうな教室だった。しかし席に着いて雑談や読書をしている生徒は下が十歳くらい、上は十代半ばくらいと一つの教室に集まるには大きな幅があった。カミル同様学生服を着た者もいれば、私服のような格好の者もいる。

「ここに座ろう、雪織」

 窓際の席に向かうカミルに手招きされ、偶然にも雪織は二年一組の教室で座る席と全く同じ位置に座った。カミルが座る席は五番目の席と同じ位置だ。

「どんな授業をするの?」

「色々だよ。でも、最近は理科の生物が多いかな」

 雪織が相槌を打ったとき、扉が開いて教師らしき男がハンドベルを鳴らしながら現れた。肥満な体型のせいで、金のボタンと白いポケットチーフが目立つ夜会服じみた黒いスーツが随分と窮屈そうに見える。かと言って見苦しい風貌ではなく、後ろに撫でつけた黒髪とモノクルのおかげか、白黒フィルムに出てくる貴族のような雰囲気を醸し出していた。

「皆さん。こんばんは」

 まだ立ち歩いていた生徒は慌てて席に着き、教師に挨拶を返した。教師は榛色の目を細め、教卓に赤茶色のアタッシュケースとハンドベルを置いた。

「今日初めて授業を受ける方はどうぞ前に出てきてください。筆記用具をお渡しします」

 雪織がカミルを見ると、彼は小さく頷いて視線を前に向けた。取りに行け、という意味だろう。唯一教卓の前に出た雪織に、教師はアタッシュケースから取り出した鵞鳥の羽根ペンと黒いインク壜を一つずつ、辞書のような厚みがある横書きの筆記帳を一冊手渡した。筆記帳は黒のラシャ紙に蝋で艶を出した表紙に黄金の飾り罫が描かれている。

「さて、それでは授業を始めますよ。今日は海水魚と淡水魚の違いを説明しましょう」

 教師の言葉を合図に生徒達は筆記帳を開き、羽根ペンをインクにつけ始めた。その様子は彼らの腕の中で白い鳥が羽ばたくようにも見えた。一瞬遅れて雪織もそれを真似るが、筆記帳の紙は画用紙よりもざらついたような慣れない手触りで、羽根ペンはこれまでに一度も使ったことがないためどうしても手間取る。文字を書こうとしても、紙には無意味なインクの掠れ跡ができるだけだった。

「何してるんだい。そのままじゃ書けるわけないだろ」

 なかなか思うように字が書けないでいる雪織に見かねたカミルが腕を伸ばし、彼女の手から羽根ペンをひょいと取り上げた。鞄から取り出したペンナイフで素早くペンの先端を斜めに削ると「ほら」と言って雪織に返した。試しに一頁目の上に日付を書いてみると、さっきよりもずっと書きやすくなっている。どうやら新品の羽根ペンはペン先が出来上がっていないものだったらしい。

「ありがとう」

 感謝と申し訳なさがないまぜになった気持ちで雪織が軽く頭を下げると、カミルは照れたように微笑んで黒板に視線を戻した。教師は白いチョークで海水魚のスズキと淡水魚のアユを描き、その生態の違いを説明し始める。途中でどのような調理方法が美味かという話に脱線して生徒達の笑いを誘った。

「雪織。これ、隣に回してくれ」

 不意にカミルが小声で言って、筆記帳の切れ端を雪織の机に素早く置いた。赤いインクで『次の授業は二階の図書室で』と書いてある。雪織は慎重に教師の目を盗み、右隣の席に座る少女に紙を回した。その少女はすぐに得心したように頷くと、さらに右隣の少女に紙を回した。やがて授業は四十分で区切りをつけ、終了した。

「次は十五分後に移動ですよ。古代の生き物について学びましょう」

 そう言い残し、教師は教室から出ていった。雪織は初めて羽根ペンで書いた授業記録を読み返し、ぼんやりとしていた。しかし隣にいたはずのカミルがいなくなっていることに気づき、慌てて席を立つ。まだ他の生徒達は移動を始めていないが、もしかしたら彼は先に移動してしまったのかもしれない。顔も名前も知らない生徒に図書室の場所を訊ねるのは気恥ずかしく、雪織は一人で二階に向かってみた。彼女が筆記用具を全て置いたままにしてしまったことに気づいたのは、その図書室らしき場所に辿り着いてからだった。床には複雑な幾何学模様をあしらった深緑色の絨毯が敷かれ、いくつもの円卓や椅子が置かれた中央を囲むように本棚が並んでいる。

「カミル?」

 名前を呼んでみても返事はなく、彼の姿は見当たらない。それどころか図書室には静謐な空気が満ちているだけで人気が全く感じられなかった。雪織は若干不安になりつつも、待っていればすぐに誰かが来るだろうと信じて椅子に腰掛けた。しかし十五分が過ぎても一向に生徒や教師は現れない。一体どうしたことだろうかと思っていると、出し抜けに背後から笑い声がした。とっさに振り返って扉の方を見るが、誰もいない。

「ここだよ」

 声がした先――上に視線を送って、雪織はぎょっとした。カミルが背の高い本棚の上にしゃがんで彼女を見下ろしていた。小脇に鞄を抱えている。

「何してるんだ。危ないよ」

 カミルはくすくすと笑っていたが、おもむろに鞄の持ち手を口に銜えて本棚から身を投げた。思わず短い悲鳴を上げた雪織だったが、彼は空中で左右の掌と足を同時に突き出し、四つん這いに近い体勢で無事着地してみせた。呆気にとられている雪織の前で床に落ちた学帽を拾い、得意げな顔で立ち上がる。

「やっぱり騙されてくれた」

「なんだって」

「授業中に回される紙で、赤いインクで書かれた内容を信じる奴はいないよ」

「……それって少なくともわたしみたいな余所者以外だよね」

 どこか疲れた心地で雪織は言って、テーブルの上に飛び乗ったカミルを見つめる。

「真っ赤な嘘、って言うだろう。嘘の情報は赤い文字で書かれるんだ」

「一応記憶しておくよ。他の生徒は?」

「四階の視聴覚室」

「今から行って入れさせてもらえるかな」

「よしなよ」

 カミルは足をぷらぷらと揺らしながら続ける。

「適当に言い訳すれば途中でも入れさせてもらえるけど、視聴覚室を使う古代史の授業ほど退屈なものはないんだから。考えてもみなよ。静かにじっと座ったまま、古臭い映像をスクリーンで眺めるのは好き? きみは見たところ特別な歴史好きには見えない」

「当たってるよ。大嫌いってほどじゃないけど」

「だろうね。なら、時間はもっと有効活用するべきだと思う。それに」

「それに?」

「どの夜間授業を受けるかなんて個人の自由なんだよ」

 それを聞き、澄ましていられなくなった雪織は声を上げて笑った。風変わりではあるが、五番目とはまた違った柔軟なやり方で新参者の自分に絡んでくるこの少年にも親しみや興味が沸いてくる。雪織はカミルのやや飄々とした人柄を気に入り始めていた。

「でも、カミル。わたしはあの筆記帳や羽根ペンを教室に置いてきたままだよ」

「平気さ。いつも教室に自分の勉強道具を置きっぱなしにする物臭な奴も多いから」

 二人は教室に戻ることも視聴覚室に向かうこともなく、連れ立って時計塔を後にした。

「次はどこに行こうか」

「きみに任せるよ」

 雪織がそう返すと、カミルは迷うことなく時計塔の裏手にある古い店舗に向かった。《(ふう)(しん)()(どう)》と厳めしい字面の看板を掲げる、白い塗料が塗られた木造建築だ。朽葉色の木の枠で囲ったガラス扉に、湾曲した真鍮の把手がついている。昔の写真館を改装したのだろうかと思われるそのレトロな店は喫茶店にしてもいい雰囲気が出そうな、店自体がアンティークと言えるような風情を漂わせていた。

 カミルが真鍮の把手を捻ると、カララン、という軽やかなドアベルの音とともに扉が開き、店内の様子が見えた。四方の壁のうち三方が大きな棚で覆われている。北側の棚には筆記帳、羽根ペン、インク壜、フラスコや漏斗、様々な模型といった学生向けの道具が陳列されていた。南側の棚には砂糖菓子やドロップ、ゼリービーンズ、チョコレート、マカロン、ラング・ド・シャなどが壜詰めや箱詰めにされている。そのすぐ隣の台には様々な紅茶の茶葉や珈琲の豆が入った缶、花煙草らしき箱までが積み上げられていた。東側にはガラスや陶磁のキッチン用品から可愛らしい置物、人形、オルゴール、アクセサリーなど西洋アンティークの商品が並んでいる。

「いらっしゃいませ」

 少し鼻にかかったような高い声が聞こえた。声がした西側を見ると、それ自体も商品なのでは、と思うほどレトロなレジスターを載せたカウンターの向こうに立つ若い女性が微笑を浮かべている。雪織が会釈するとその微笑を深め、会釈を返してくれた。銀色に輝く髪にはところどころ黒色が混ざり、腰まで伸びている。白いブラウスシャツの上に着たアイボリーブラックとシルバーグレーのストライプ柄をあしらったエプロンドレスは、この店の雰囲気と彼女によく映えていた。ヒヤシンスを模したブローチがエプロンドレスの左胸に輝いているのを見て、雪織は風信子がヒヤシンスの別名であることを思い出した。

「珍しいわね。カミルが人を連れてくるなんて」

「たまにはそんな日があってもいいだろ、ダイヤ」

 カミルはダイヤという名前らしい女性と会話を始めた。

「あなたと同じような()()(たま)の黒髪ね。この辺りでは見かけないけど」

「バスに乗ってきたんだって」

「ふうん。……それにしてもカミル、また早めに夜間授業を切り上げたのね」

「別に悪いことじゃないだろう」

 そんな会話を聞きながら、雪織はすぐ近くの壁にかけてあるロココ風のタペストリーを眺めていた。それに飽きると次は東側の棚に近づき、ヴェネチアン・グラスやボヘミアン・グラスの美しい模様を見つめる。

「ねえ」

 突然声をかけられて振り向くと、カウンターから移動してきたらしいダイヤが雪織のすぐ後ろに立っていた。カミルのときと同じで足音が全く聞こえなかった。間近で向き合うと身長は雪織よりも若干高く、虹彩がシャトルーズグリーンであることがわかる。

「初めましてだから自己紹介しないとね。私はダイヤって言うの」

「わたしは雪織です。釵雪織」

「雪織ちゃんは中学生?」

「ええ。二年生です」

「どうかしら。ここで気に入るもの、見つかりそう?」

「そんなの……見つかり過ぎて、困るくらいですよ。こんなに素敵なお店、今までに見たことありません。売ってるものも、店自体も」

 するとダイヤは一度大きく目を見開き、そしてゆっくりと瞬きをしてから言った。

「ありがとう。初めての来店記念に、何か気に入ったものがあれば一つ差し上げるわ」

「えっ……」

 驚いた雪織が目を瞠ると、ダイヤは彼女の髪を指で梳きながら続けた。

「あなた、島の外――都会から来た子でしょう。話だけなら聞いてるわ。思っていたよりもずっと素直で可愛いから特別。遠慮なんてしないで」

 戸惑いながらも好意を無下にすることはできず、雪織は視線を彷徨わせた。この店にあるものはどれも魅力的で、いざ一つ選んで持ち帰っていいと言われてもすぐには決められない。塩鮭の頭か黄金のどんぐりか、という二択だったなら簡単に決められたのにと思いながら、彼女は他にも六人ほど客がいる店内をうろうろと歩く。カミルが先に青いインク壜とゼリービーンズを一袋買った後で、ようやく一つの商品を選んだ。

「これを頂けますか」

 そう言ってダイヤのもとに持っていった商品は、五百円玉より二回りほど大きなハンターケースがボールチェーンに繋がっている白銅色の懐中時計だった。蓋には双魚が精巧に彫られている。双魚以外にも天使や花などを彫ったものが売られていたが、この連休中に釣りを楽しんだことやついさっき夜間授業で魚に触れたことが印象に残っていたためか、雪織の目を一際引いたものは双魚だった。

「あら。雪織ちゃんはいい商品を見抜く目があるわね」

 ダイヤは懐中時計を包装することなく、そのまま雪織の首にかけた。蓋をしていれば懐中時計と言うより瀟洒なペンダントのようにも見える。

「これはつい昨日入荷したばかりの新商品なの。懐中時計としても使えるけど、オルゴールでもあるのよ。この下についてる発条を巻いてみて」

 そう言われた通りに小さな発条を摘まんで二周ほど回してみると、聞いたことのない優しい旋律が流れ始めた。

「綺麗な音……」

「大事にしてね」

「はい。ありがとうございます」

「雪織だけ贔屓じゃないか、ダイヤ。不公平だよ」

 横で見ていたカミルが不満げな声を上げると、ダイヤは澄ました態度で返した。

「あなたは初めて来店したわけじゃないでしょう」

「ぼくだって今日《風信子堂》に来たのは今が初めてだ」

「馬鹿なこと言わないで。来客全員に商品を一つあげていたら大赤字よ」

 するとカミルはダイヤに長い舌を突き出し、さっさと店から出ていった。慌てて雪織はダイヤに目礼して彼を追いかける。しかし《風信子堂》のすぐ前で立ち止まっていたその表情を見る限り、本気で腹を立てていたわけではないようだ。どうやらダイヤを相手にしているときは金貨の場合と違い、言い合いに親しみを感じているらしい。

「さて。次はどの店に行こうか」

「待ってカミル。わたし、もう帰らないと」

 懐中時計に示された時刻を見つめて雪織は言った。連休は今日で終わり、明日から学校が再開する。さすがにこれ以上の融通は利けない時刻になっていた。

「そう……。なら仕方ないね」

 カミルは残念そうに表情を曇らせたが、彼女を無理に引き止めようとはしなかった。《風信子堂》の壁に凭れると、花煙草を一本取り出し、口に銜えて火を点ける。

「今日は楽しかったよ。案内してくれてありがとう」

「またここに来るといいよ。きみが持ってる乗車券はいつでも使えるんだろう」

「うん。約束する」

 そこで白い息をふうと吐き出したカミルは、あと二本だけ花煙草が残っているシガレットケースを雪織に差し出した。

「この花煙草、気に入ったみたいだからあげる」

「いいのか」

「どうせ二本だけだし、ケースは次会うときまで預けておくよ」

 雪織はシガレットケースを受け取り、半ズボンのポケットに入れた。

「わかった。この花煙草の味を忘れないうちに、また来る」

 二人は同時にふっと微笑み、お互いに手を振り合った。

「またね、雪織」

「またね、カミル」

 バス停まで戻ったところで振り返ってみると、やはりケット・シーの街並みは巨大な幕に映った影絵か幻燈の一場面のように見えた。さっきまであそこに自分が立っていたという事実が、何故だか自分でも信じられない。そんな奇妙で、夢から覚めたような心地だった。雪織は半ズボンの上からシガレットケースの硬い感触を指でなぞり、乗車口を開けて待っていたバスに乗り込む。

「お願いします」

 来たときと同じように雪織が一番奥の座席に腰を落ち着けると、バスは彼女以外に客を乗せることなく出発した。そして乗車券に書いた通りのバス停で雪織を下ろすと、そのままどこかに走り去っていった。窓から自室に戻り、机の上にそのままだった置き手紙を捨てた後、雪織はパスケースと懐中時計をあの封筒が入っている抽斗にしまった。


 

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