五、眼帯の少年
五月六日の夜。夕食を終えてしばらく自室で読書をしていた雪織はふと窓の外に目をやった。夜空に昇った三日月が青い輝きを帯びている。今まで見たことのない不思議な光景に見惚れそうになったが、つい最近届いた手紙の内容を思い出した。
「青い三日月が窓から見えたら、最寄りのバス停だ」
薄桃色のチュニックとチョコレート色の半ズボンだけではまだ肌寒いだろうかと思い、胸元や袖口に臙脂色の刺繍を施した白い薄手のポンチョを羽織る。それから母に気づかれないよう、玄関ではなく窓から外に出た。万が一のことを考えて《ちょっと出かけてくる》とだけ書いたメモを机の上に残しておいたが、恐らく放任主義の母は娘が無断で夜に出歩いていることを知っても特に気にしないだろう。
猫窟島の夜は静かで暗い。耳を澄ましても自分の足音以外は車が走る音も犬や猫が神経質に立てる鳴き声も聞こえず、しんとしていた。わずかな街灯を除けば、住宅から漏れる人工的な明かりとヴェールのような青い月明かりだけが路上に影を落としている。やがてバス停まで来た雪織は日除けのあるベンチに座り、目を閉じた。もしもあの封筒が誰かの悪戯だったとして、一体どのくらい経ったら家に帰ろうか――と、しばらく考えていると突然何者かに肩を叩かれた。
「っ、え……?」
目を開けて、雪織は驚いた。制帽を目深にかぶった初老の男がすぐ目の前に立っている。そして男の背後には一台のバスが停まっていた。ノンストップ急行で行き先はケット・シーとある。タイヤが道路を走る音など一切聞こえなかったはずだが、幻覚とは思えないバスがそこに存在していた。呆然とする雪織に、運転手らしき男が口を開く。
「お乗りになりますか?」
「はい」
とっさにそう答えていた。運転手は頷いて彼女に右手を出す。
「それでは、乗車券を拝見」
雪織は半ズボンのポケットからパスケースを取り出し、乗車券を見せた。再び男は頷き、開いていた降車口から運転席へと戻って乗車口の扉を開ける。雪織はパスケースを戻しながらバスに乗った。乗客は彼女一人だけらしく、バスの中はがらんとしている。何気なく一番奥の座席に腰を落ち着けると、それが合図だったかのようにバスは発車した。住宅街は一気に遠ざかり、畑や川も次々に見えなくなっていく。そのうち駅が近づいてきたが、バスは速度を落とすことなくそのまま駅舎の前を通過した。山に続く狭い上り坂を進んでいく頃には、すっかり木々に囲まれて明かりが届かなくなり、深海のような闇がバスの外に広がった。海底を潜水艇で進んでいるような心地になる。
「お客様。間もなくケット・シーに到着します」
運転手のマイクを通した声が車内に響き、うつらうつらとしていた雪織は顔を上げる。その途端、眩しい光が差し込んできて目が眩んだ。ついさっきまで確かに山道を進んでいたはずだが、今バスの前方に見えるのは無数の商店から時計塔や高楼までが立ち並ぶ広い平地だった。こんな辺鄙な山の中で立派な都会が存在していたことに雪織は息を呑む。そしてバスは大木の傍らにあるバス停で停車した。降車する際、運転手は雪織に言った。
「このバスは今後も乗車券さえ持っていれば、いつでもお客様をお迎えに参ります。お帰りの際には声をかけてください。私はずっとここで待っていますから」
「ありがとうございます」
雪織は夢心地のまま軽く頭を下げて外に出た。バス停にはケット・シーと記されているだけで、時刻表はなかった。あの前方に見える、美しい都会のような界隈がケット・シーであることは間違いないらしい。どこか浮き世離れした雰囲気が感じられる。現実と言うよりはまるで巨大な幕に映った影絵か幻燈の一場面を見ているようで、雪織はなかなか足が踏み出せない。そのとき彼女の背後から声が聞こえた。
「何突っ立ってるんだ」
びくっと肩を震わせて振り返ると、そこには右目に白い眼帯をつけた少年がいた。頭には古風な黒い学帽をかぶり、右手には黒革の抱鞄を持っている風貌からして学生だろう。足音は聞こえなかったのに、と思いながら雪織は彼をじっと見つめた。すると少年は肩幅に足を開き、どこか怒っているような表情になった。
「えっと……もしかして邪魔だった? ごめんね」
二人が立っている場所はバスとバス停に挟まれた細い道の上だ。譲るように道の端に立った雪織に、彼はきょとんと目を丸くする。しかし、すぐにまた憤然とした表情に戻った。
「どうして謝るんだい」
まだ変声期を迎えていない中性的な声。身長は雪織と同じで年齢は一つか二つほど下のようだった。同い年という可能性もあるだろうが、声や外見で判断する限り年上であるとは到底思えない。
「どうしてって、きみに迷惑をかけたんじゃないかって思ったからだけど」
「ぼくは何突っ立ってるんだ、って言っただけだよ。一言も迷惑だとか道を譲れだなんて言ってない。それなのに、謝るだなんて変だ」
雪織は面食らった。面倒事を避けるために最善の行動を取ったつもりだったのだが、彼はそれをよしとしなかった。こんな相手は初めてで、どうすればいいのかわからない。
「ふうん。きみもぼくを憐れむつもりだな。こんな目をしてるからって、まともな喧嘩ができない弱い奴だと思ってるんだろう」
「え、ちが――」
「遠慮はいらないよ。そもそもきみから睨んできたんだからな。ほら、かかってこい」
少年は袖捲りをした両腕を胸の前に持ち上げた。彼が拳を握りしめたとき、呆気に取られていた雪織は慌てて首と手を横に振った。
「いや、だから違うって。わたしはきみに喧嘩を売ったつもりなんて全然ないんだよ。睨んだ覚えもない。そもそもどうして初対面なのに喧嘩をしないといけないんだ」
それを聞くと少年は腕を下ろし、怪訝そうな顔になった。
「本当に変わってるね、きみ。あんなにじっと見つめてきたくせに、喧嘩を売ってたんじゃないなんて。売ったつもりはなくても喧嘩をしないで謝ったり譲ったりするなんておかしい。それじゃあ馬鹿にされてしまうよ」
「まさかとは思うけど、この島では見つめ合うことが喧嘩を売る合図になっているのか」
猿じゃあるまい、と雪織は呆れた。
「いいや、あくまでこの界隈だけさ。ああ……余所者なんだな。だけどきみだって、ここに来たんだったらここの流儀に馴染んだ方がいいと思うよ」
「遠慮しておく」
そこで雪織は改めて少年を観察した。黒瑪瑙のように艶やかな黒髪は耳の下まで伸びている。眼帯をしていない方の左目は黄水晶のような黄金色で、こんなに綺麗な虹彩なのだから思わず見つめたっておかしくないだろうと雪織は内心褒めつつ抗議した。しかし、彼のしなやかな細身に無駄なくぴったりと合わせた黒い詰襟には見覚えがない。この島に青い詰襟以外の制服を着る中学校は存在しないはずだ。
「もしかして、きみはこのバスに乗って来たのかい?」
バスを見上げながら少年が訊ねた。運転手しかいないバスはすでに明かりを消しているせいで、まるで等身大の模型のように静かだった。
「うん。この前、家に封筒が届いたんだ。差出人はわからなかったけど」
「それにバスの乗車券が入っていたんだね」
雪織が頷くと、少年も何度か頷いた。
「だったらぼくが案内するよ」
「え?」
「どうせきみ、ケット・シーにも初めて来たんだろ」
雪織の左手を取って少年はすたすたと歩き始める。その足が向かっているのは雪織が彼から話しかけられる前に眺めていたケット・シーだ。無理に手を振り解く気は起きず、雪織は半ば流されるようにそのまま少年とケット・シーに足を踏み入れた。
ケット・シーは町というより商店街や繁華街という表現が正しい場所だった。民家らしき建物はなく、店ばかりの賑やかな往来が目立つ。街路は清潔に掃除されていて、どの商店も小奇麗な飾り窓に様々な商品を並べていた。しかし都会的と一言だけで片づけることがもったいないと思えるほどに、それらは途轍もなく魅力的だった。全ての建築物から道の脇を彩る草花さえも、美術的にどこか変わった風情で意匠を凝らされ、このケット・シーという場所全体としての集合美を構成している。雪織は何か感想を言おうと思ったが、いい言葉を探し出せずに感動の溜め息をつくだけだった。
不思議なことに、雑踏の中を通ってもほとんど物音が聞こえない。歩行する人以外に車や自転車が全くないことから当然かと思えるが、それにしても静かだ。
「ぼく、金貨のところに行かないと」
「誰?」
「高慢で嫌味な男。あいつ、女たらしのくせに人気者で喧嘩が強いからっていつも威張ってるんだ。それでぼくはよく使いっ走りをやらされる」
そう言って少年は鞄から派手な色の何かをいくつか取り出した。よく見るとそれは小さな魚を模したルアーだった。
「落し物のこれを探し出して、持ってくるよう言われてたんだよ。何もこんな時間じゃなくたっていいじゃないか。他にも適役がいるのに何故かいつもぼくばかり」
ぶつぶつと文句を言いながらも少年は石畳の道を進んでいく。彼を使いっ走りにするという金貨はすぐに見つかった。二十歳前後に見える端整な顔立ちの青年で、金色の輝きを孕んだ美しい髪を無造作に肩まで伸ばしている。そんな思わず目を引く顔立ちや髪とは対照的に、白いダウンシャツに茶色のチノパンツという服装は飾り気がないもののどこか引き締まった印象があった。シャツの襟は鎖骨が見えるほど開かれ、首に巻かれたモスグリーンのチョーカーが存在感を放っている。
「毎日毎日いいご身分だよね、金貨」
金貨は甘味処のすぐ外にある、赤い布を敷いた長椅子に座っていた。ボレロとイブニングドレス姿の艶やかな女性四人を侍らせていた彼は、少年に声をかけられてようやく視線を寄越す。
「カミル。随分と遅かったな」
カミルと呼ばれた少年は憤然とした表情でルアーを彼に手渡した。金貨は満足そうな顔でルアーを見つめていたが、ふと雪織に向けて首を傾げるようにして微笑んだ。
「やあ、どうも」
金貨に身を寄せる女性達は雪織とカミルの二人には目もくれず、うっとりとした表情で彼の身体に触れている。そのことに雪織は少し戸惑ったが、礼儀としてすぐ会釈をした。
「こんばんは」
「カミルの友達? 珍しいな。きっと明日の天気は豪雨と落雷が重なってやってくるぞ」
「ほっとけよ」
「俺は金貨、よろしく。見たところあんた、ケット・シーに来たのは初めてだろ」
「だからぼくが案内してあげてるんだ」
「お前には訊いてない」
ぴしゃりと言われ、カミルはますます不機嫌そうな顔になる。
「こんなに遅くなったのだって、その子に話しかけていたからじゃないのか」
「金貨はぼくにルアーを持ってこい、って言っただけで女の子に話しかけるなとは一度も言ってないだろ。それに彼女と会ったのはルアーを見つけてここに来る途中だった」
「ふん。すぐそうやってむきになるのは乳臭いガキの証拠だぜ」
二人は自然と睨み合う。もしこのまま喧嘩が勃発しては堪らないと思った雪織だったが、金貨が彼女に視線を向けたため睨み合いはわずか五秒で終わった。
「そう言えば四月に島の外からやってきた二人がいるって聞いてたんだが、もしかしてあんたがその一人なのか」
「はい。わたしともう一人、わたしの母が」
「名前は? カミル、お前には訊いてないからな」
「ぼくだって知らないよ。さっき外で会ったばかりで、まだお互い名乗ってないんだ」
それを聞いた金貨は怪訝そうに眉を顰めた後、鼻で笑った。
「馬鹿か、お前。なんで出会ったときにすぐ名前を訊かないんだよ。非常識だぜ」
「うるさいな。自分の鼻と口を完全に塞いでそのまま五分ほどじっとしててくれない?」
「釵雪織です」
今にも口喧嘩を始めそうな二人に雪織は名乗った。
「雪織か、いい名前だな。俺の金貨って名前には劣るけど」
「もう行こう、雪織。こんな奴とずっと一緒にいたら妊娠しちゃうよ」
「え」
ぽかんとした表情のままカミルに手を引かれ、甘味処を離れる雪織の後ろからは金貨の愉快そうな笑い声が聞こえていた。
「本当に苛々する、金貨の奴」
甘味処が見えないところまで来てから、カミルは雪織の手を離した。
「でも、あんなに髪が綺麗な男の人なんて初めて見たよ。傍にいた女の人達は?」
「黒髪が杏子、長いブロンドがカノン、短いブロンドがリサ、茶髪の人は確か胡桃だったかな。四人とも育ちのいいお嬢さんで、金貨と結婚したがってるらしいよ」
「そうなんだ。本当に女性から人気あるみたいだね」
「もう金貨の話なんかしなくていいよ」
むすっとした表情がなかなか直らないカミルに言われ、雪織は苦笑する。ふとカミルは足を止め、南国から持ち帰ったような大きな葉の街路樹に背を預けた。そして鞄を足元に置くと半ズボンのポケットに手を入れ、銀色のシガレットケースとライターを取り出す。
「きみも一本どう?」
当然断るつもりの雪織だったが、シガレットケースに収まっているものを見た途端その言葉は喉の奥に引っ込んだ。カミルは怪訝そうな表情でシガレットケースの中身をまじまじと凝視する彼女に気づき、小首を傾げた。
「ただの花煙草だよ」
「花煙草……って宿根煙草のことだよね。それ、ソメイヨシノだろう」
カミルが一本抜き取った花煙草は、どこから見ても宿根煙草ではなく桜の花だった。しかし普通のソメイヨシノと比べると花柄の部分が長くて太い。
「ああ、あの植物とは違うよ。花煙草って言うのはあくまで商品名」
そう言うとカミルは花柄の先端を銜え、ライターで花弁に火を点けた。桜はすぐに燃え尽きることなく、白い煙が揺れながら空に立ち昇る。雪織はその煙やカミルの吐き出した白い息からヤニではなく、花のような香りが漂ってくることに気づいた。
「大丈夫なのか。ニコチンとかタールとか、一酸化炭素だって」
「そんな身体に悪そうなもの、入ってるわけないじゃないか」
煙を吸っているのに一酸化炭素がないとはどういうことだ、と雪織は眉を寄せる。
「じゃあ、中毒性は?」
「ないよ」
カミルはくつくつと笑いながらもう一本の花煙草を取り出し、雪織に差し出した。あまりにも自然な動きにつられ、受け取ってしまう。感触は普通の桜だ。
「ほら、銜えて。火はぼくが点けてあげる」
しばらく躊躇していたが結局好奇心が勝り、雪織はそっと唇で食むように花柄の先端を銜えた。すぐにカミルがライターで花に火を点け、花柄を持つ雪織の指がわずかに強張る。
「ゆっくり深呼吸するように吸い込んで」
言われた通りにすると、ほんのりと甘い蜜のような風味の温かい気体が喉や肺に広がった。煙と言うよりケトルから立ち昇る熱い水蒸気を吸い込んだような感覚だった。息を吐き出すと、白い煙となって空に昇っていく。口の中には甘い風味だけがかすかに残った。確かに桜の香りを濃縮して、煙にしたような味わいがあった。
「…………なんだか、不思議な感じ。温かくて、甘くて、春の空気みたいだ」
雪織が呟くと、カミルはその表現が気に入ったらしく微笑んだ。シガレットケースとライターをポケットに戻すと、足元に置いていた鞄を持ち上げる。
「吸いやすいだろう。花煙草の中でも一番人気の《春季》だからね」
「《春季》?」
「梅雨が明けたら《夏季》を吸う人達が増えるよ。でもぼくにはちょっと刺激が強いから、なるべく溜めておいた《春季》を続けるか、すぐ《秋季》に替えてしまうんだ」
「春夏秋ときたら《冬季》もあるんだろうね」
「ただし、かなり上級者向け」
どうやら花煙草には四季をモチーフにした種類があるらしい。一体何の花を使っていてどんな風味がするのだろうかと雪織が想像を巡らせていると、突然カミルが何かを思い出したように勢いよく時計塔に目をやった。
「いけない。そろそろ夜間授業が始まってしまう」
「何?」
「夜間授業だよ。きみもそれを受けるんじゃないのか」
カミルは最後に花煙草を一吸いすると、もうほとんど花弁が燃え尽きたそれを街路樹の植わった地面に放り投げた。どうやら花煙草は吸い終わった後、煙草の吸殻と言うよりも枯れた花として扱うらしい。
「よくわからないけど、わたしは授業に必要なものを持ってないよ」
「それくらい教室で貸してもらえるさ」
「……途中参加でも大丈夫なら、行ってみようかな」
吸い終わった花煙草を地面に落としながら雪織が言うと、カミルは大きく頷いた。