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猫窟島のケット・シー  作者: 手這坂猫子
第一章 猫窟島
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三、家主

 放課後になり、今までにない充実した転校初日だったと満足して雪織は校舎を出た。すると顔と名前が一致するようになった(きじ)()(ふさ)(あさ)(くら)(はつ)()が「途中まで一緒に帰ろう」と声をかけてきため、雪織は快く応じた。

「聞きそびれてたんだけど、釵さんってここの制服は買わないの?」

「その制服、なかなか格好いいよね。制服と言えば青か紺だと思ってたけど、黒のブレザーって滅多にないんじゃない?」

「わたしから見ればそのセーラー服も涼しげで可愛いよ。でも、またいつ転校するかわからないから、そう簡単に制服なんて高くて嵩張るものは買えないんだ」

 すると二人の少女は同時に目を見開いた。

「そんなに忙しいの?」

「大変じゃない?」

 そこで雪織は、親子二人で放浪する生活を送っているということをまだ誰にも話していなかったことに気づいた。

「母さんがとんでもない根無し草なんだよ。転勤族ってわけでもないのに、今までも各地を転々としてた」

「なんだかすごそうだね」

「お父さんは?」

「そんな母さんに嫌気が差したのか、かなり前に家を出ていったよ。それでも母さんは全く気にしてないようだったけど」

 あっけらかんと雪織が返すと、雉居と浅倉は笑い出した。馬鹿にしている様子も冗談だと受け取った様子もなく、ただ単に面白かっただけらしい。母子家庭であることに気の毒そうな顔をされたり同情の言葉をかけられるより、その反応はずっと楽だった。

「でも、この島はすごくいいところだと思う。前住んでいたところよりも、その前に住んでいたところよりもわたしは好きだよ」

「それは嬉しいね」

「うん。嬉しい」

「何より島の名前が気に入った」

「猫窟島って名前が?」

「うん」

「わかった。釵さん、猫好きでしょ」

「じゃあよかったね。この島って結構猫飼ってる人多いんだよ。それに野良猫もたくさんいるし、飼えなくてもよく野良に餌あげたりして飼ってる気分になれるんだから」

 野草地から抜けてY字路の手前で足を止めると、二人は「また明日」と手を振って雪織が進む道とは違う道を歩いていった。雪織は朝の登校中に遭遇した小さな黒猫を思い出しながら帰宅したが、その間あの黒猫と再会することはなかった。

「ただいま」

「おかえり。どうだった?」

 和室から顔を出した母が帰宅した娘にさっそく訊ねる。いつもは「前と変わらない」とだけ答える雪織だったが、この日は違った。

「今日ほど情けない思いをせずに過ごせた転校初日は初めてだよ」

 娘の淡々とした返答に母は笑った。その顔は何度見てもやはり子供っぽいと雪織は思う。

「じゃあ、帰ってきて早々だけど和菓子の家に行こうか」

「制服のままで?」

「ああ」

 母は島に来る前買っておいた銘菓を雪織に持たせ、外に出た。しばらく住宅街を歩いて辿り着いた先に建つのは、釵親子が住む借家の二倍近くありそうな二階建ての家だった。『東奥(あちおく)』と表札のあるその家は決して屋敷や豪邸と呼べるほどのものではないが、それでも今まで集合住宅ばかりに住んでいた雪織の視点からは十分立派に見える。

 母がインターホンを鳴らすと、すぐに眼鏡をかけた四十歳前後と思しき女性が出てきた。

「雨織さん。ご無沙汰しております」

「久しぶりだな、和菓子」

 上品な物腰で母と挨拶を交わした和菓子は、母の後ろに隠れていた雪織を見つけて微笑を深めた。

「あら。あなた、雪織ちゃんよね?」

「はい。こんにちは」

「こんにちは。最後に会ったのは雪織ちゃんが五歳くらいのときだったかしら。大きくなったわね」

 ウェーブがかかった髪を腰のすぐ上まで伸ばし、銀縁眼鏡をかけた目の前の彼女に見覚えがあるかと訊かれても、恐らく雪織はどっちとも答えられなかっただろう。見覚えがあるようなないような、そんな曖昧な記憶しか浮かばず、悶々となる。

「これ、どうぞ。つまらないものだけど」

 母は形式的な口上を述べ、雪織に持たせていた銘菓の包みを差し出した。

「あらあら、ありがとうございます。せっかくだから三人で食べませんか? 一人で食べるにはもったいないですもの」

「だったらお邪魔しようかな。旦那さんはまた単身赴任か」

「ええ。相変わらず仕事中毒なんですから。さあ、あがってください」

 学生時代の後輩だった相手に対し、母は遠慮という言葉を知らないらしい。勧められるがままに和菓子の家にあがると、よく磨かれた長い廊下を通り、北欧風のインテリアで統一してある広いリビングに案内された。

「猫、飼ってるんですね」

 テーブルの席に着いた雪織は、ダージリンティーを淹れる和菓子に言った。その視線は三匹の黒猫に向かっている。どれも短毛種のセミコビータイプで、大きな金色の瞳を持っている上品そうな猫だ。

「あら。雪織ちゃんは猫に興味があるの?」

「はい」

 和菓子は受け取ったばかりの銘菓の包みを開けて、焼き菓子を三枚の皿に分けた。それだけでカスタードクリームの甘い匂いがふわりと漂ってくる。

「ここにいるのは私が好きな金の目をした黒猫ばかりよ。ほら抱いてみて」

「え、わっ」

 テーブルの近くで毛繕いをしていた一匹を抱き上げると、和菓子はそのまま雪織に預けた。雪織は突然のことに戸惑いながらも、思っていたより重い黒猫を落とさないように抱える。意外にも見知らぬ他人に抱かれたその猫は嫌がる様子を見せなかった。

「へえ。大人しいんだな」

 感心した口振りで言って、母はエナメルのような光沢がある黒い毛並みを撫でた。

「よく手入れされてる。絹みたいな手触りじゃないか」

「種類は何ですか?」

「アメリカが原産国のボンベイって言うの。結構筋肉質な体格だから、見た目よりも体重があるでしょう?」

「はい。すごく綺麗ですね」

「ふふ。そう言ってもらえて嬉しいわ」

 その後は黒猫を床に下ろし、銘菓を食べながらの雑談が始まった。そして雪織は今朝登校中に見た小さな黒猫を話題に出した。

「その黒猫の顔は見た?」

 和菓子の質問を不思議に思いながらも、雪織は首を横に振る。

「いえ。すごい速さでコンクリート塀の穴に潜り込んでいきましたから、顔はよく見えませんでした」

「そう……。でも、もしかしたらその猫、うちで飼ってる問題児かもしれないわ。朝、私が起きたときからいなかったから」

 少し眉を下げ、和菓子は小さく溜め息をついた。

「何、問題児の猫がいるのか?」

「ええ。今ここにいるのは純血のボンベイ同士の間に生まれた黒猫ばかりなんですけど……その子だけ片親が違うんです」

「純血のボンベイじゃないってことか」

「そういうことです。愛猫家の中には純血で血統書つきの猫にこだわる人もいるんですけど、別に私は純血でも混血でも全然構わないんです。でも、うちで飼ってる猫達の間ではそうもいかないらしいんですよ」

 雪織はぐるりとリビングを見回した。先ほど抱いた一匹は相変わらず毛繕いをしていて、他の二匹は日当たりのいい窓辺で昼寝をしている。

「今、その猫はどこにいるんですか?」

「さあ。あの子も自分で兄弟達と違うって理解してるからか、あまり仲良くないのよね。他のご家庭で飼われてる猫も自由に外を出歩くけど、うちの子はかなり頻繁で、ちょっと目を離した隙にいなくなってることが多いの。だから、今どこにいるのかは私でもわからないわ」

「そうなんですか」

「ふうん、大変だな…………あ」

 ティーカップの紅茶を飲み干した母は、壁にかけられた時計を見て立ち上がる。

「紅茶ご馳走様。もうそろそろ夕飯作らないといけないから、帰るよ」

「またいつでもいらしてください。雪織ちゃんもね」

「はい。ご馳走様でした」

 席を立って、雪織は頭を下げた。

「あ、そうそう」

 見送りのため玄関先まで来ていた和菓子は、思い出したように二人を呼び止めた。

「今さらなんですけど、あの家の住み心地はどうでした? 悪くありませんでしたか?」

 母と娘は自然と顔を見合わせる。そして母が微笑んで答えた。

「広くて和室もあって落ち着ける、いい家だよ。ありがとう、和菓子」

 和菓子は笑顔で頷き、親子を見送った。


 

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