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猫窟島のケット・シー  作者: 手這坂猫子
第六章 ジョバンニとカムパネルラ
22/29

二十二、折り鶴

 一週間が過ぎても、五番目は診療所の病室で眠っているままだ。正確には眠っているのではなく昏睡状態なのだと医師から聞かされていたが、雪織にとって彼が目覚めないことには変わりないのだからどうでもよかった。

 五番目がいない二年一組の教室は、明らかに今までとは全くの別物となっていた。クラスメイトや教師は誰もがそれをわかっているようだが、当然誰も口にしない。

「行ってきます」

「ああ、行ってらっしゃい」

 この日も雪織はいつものように、大切な一人が欠けた学校へ行こうとした。しかし気づけば乗る必要のないバスに乗って、ケット・シーで降りていた。バスに揺られている最中はどうしようと焦っていたが、バスが停車したときには、ここまで来てしまったのだから今日一日くらいいいだろうと開き直ることにした。

 とりあえずカミルかダイヤ、あるいは金貨や天――親しい人物を探そうと思って再び足を前に出したそのとき、雪織は突然視界がぐちゃぐちゃに歪み、胃の腑が引っ繰り返るような吐き気を感じた。ほんの一瞬だけ重力から解放された気がしたが、硬い石畳の感触を肌に感じ、そこでようやく自分が倒れたことに気づいた。周囲の人々が何か叫んでいるのを聞きながら、雪織は目を閉じる。意識を手放す寸前、もしかしたらまた夢で五番目と会えるかもしれないと思ったが、そんな都合のいいことは起きない。夢を見る間もなく、開いた視界がはっきりして初めに映ったのは、見覚えのある黄金色と青色の虹彩だった。

「雪織!」

「うっ……」

 上体を起こした途端がばっと抱きつかれ、雪織は呻く。

「ぼくがわかる?」

「か、カミル……」

 乾いた声で目の前にいる彼の名前を呼ぶと、その顔は安堵の色に染まる。

「よかった。きみ、ケット・シーの出入り口付近で倒れてたんだよ。覚えてる?」

「あ……うん」

 きょろきょろと辺りを見回すと、客や店員は一人もいないためがらんとしていたが、そこが《ロンド》の店内だということがわかった。空調で低過ぎない室温に設定されている。雪織がそれまで横になっていたのは、客用の座席だった。鞄は頭の近くに置かれている。

「ここって《ロンド》だよね」

「そうだよ。きみ、ずっと眠ってたからもう昼まで目を覚まさないかと思ったよ。いきなり起きて気持ち悪くない?」

「気持ち悪くはないけど、ちょっと暑い。そろそろ離れてくれると嬉しいんだけど」

 それを聞いてカミルは慌てて雪織の背に回していた両腕を離し、テーブルを挟んだ向こうにある椅子へと移動する。

「雪織をここに運んだのはラグなんだよ」

「そうなんだ。でも、わざわざ店を休ませてまですることないのに」

「ううん。……店を休むようになったのは、もう十日くらい前からかな……」

 カミルにしては珍しく、歯切れが悪そうに言った。視線も彷徨っている。

「どうして?」

 雪織が訊ねると、彼は俯いて目元に影を落とした。

「五鈴が、起きないからだと思う」

「あ…………」

 その言葉を聞いた途端、蘇った。

 銀河鉄道に乗った五番目。

 白い病室。

 目を覚まさない青白い顔。

 点滴と酸素マスク。

 脳に直接水泡ができては破裂する。それが繰り返されるような感覚がした。治まっていた吐き気が再び込み上げ、雪織は口元を片手で覆う。

「雪織――」

「大丈夫ですか?」

 カミルの焦った声に続いて、落ち着いた声が聞こえた。口元を覆ったまま顔を上げると、いつの間にか銀の盆を右手に持つラグが立っている。

「は、はい……」

「恐らく日射病で倒れたのでしょう。それに加え、前に見たときより少し痩せていますね」

「最近あまり食欲なかったんで……そのせいだと思います」

 もちろんその原因がただの暑気中りだけでないことは雪織自身がよくわかっている。

「そうですか。ちゃんと食事を取らなければ、この夏の暑さには負けてしまいますよ。これ、よかったら飲んでください」

 ラグは盆に載せていたグラスをすぐ近くのテーブルに置いた。甘酸っぱい香りがするオレンジジュースで、グラスの縁に一切れの皮つきオレンジが刺さっている。

 雪織はラグの手元を見てぎょっとした。彼の指の爪は凸凹に歪んでいる。ところどころ異様な深爪になっていたり、割れて乾いた血がついていたりするその爪は、まるでひどい噛み癖のある子供のそれだった。見てはいけないものを見てしまったような気がして、雪織はすぐに視線をラグの手元から逸らす。

「あ、あの。ありがとうございます。ここまで運んでくださって」

「いえ、いいんですよ。今日は休みですから、店を開ける予定もないんです。気分が落ち着くまでここにいてください。私は奥にいますから。カミルくん、頼みましたよ」

「うん」

 ラグが足音を立てず厨房の奥へ消えると、雪織はカミルに言った。

「ラグさん、憔悴してるみたいだね。爪が荒れてたし、目の下に隈があった」

「十日前から夜はずっと泣いてて、ほとんど眠ってないらしいよ。爪も自分で噛んだみたい。この界隈に住んでる面子で五鈴のことを知らない奴はいないんだ。皆、心配してる。ラグは五鈴とすごく仲がいいから、特に」

 カミルはテーブルの下に置いていたらしい大きな紙袋を手に取る。がさがさと紙が擦れる音を立てて中から取り出したのは、十枚入りの折り紙だった。

「はい、これ」

「何」

「千羽鶴。少なくても一人十羽、皆で折ってるんだ。よかったら雪織にも折ってほしいな」

 言いながら彼はさっそく鶴を折り始めている。雪織は少し悩んだ後で一枚を手にした。

「折り方、教えてくれる?」

「いいよ」

 頷いたカミルの笑顔も、よく見れば以前より明るさが欠けているようだった。

 雪織は折り鶴を一羽完成させるのにひどく時間をかけた。完成した鶴の姿は老いて元気がないようなもので不恰好だ。教えたカミルも苦笑している。

「とりあえず一通りの折り方はわかったかい? わからないところがあったらその都度訊いて。あと九羽、頑張れ」

 カミルの指はそれぞれが意思を持っているのかと言いたくなるような滑らかな動きで、折り鶴を次々に完成させていった。

「…………カミル」

「何?」

「どうしてわたしが平日の午前中にここへ来てるのかとか、訊かないの?」

「ぼくは学校の先生じゃないよ。それにぼくだって自分の好きなときに学校へ行って、他は自由に昼寝したり遊んだりして過ごしてるからね」

「本当に自由気ままなんだね、カミルは」

 ようやく十羽を完成させた頃には、雪織が折った鶴もカミルのそれとあまり遜色ない出来になっていた。時計を確認すると十時になっている。

「完成したね。じゃあ集めに行こう」

 そう言うとカミルは自分が折った三十羽の鶴と、雪織が折った十羽の鶴を紙袋に入れて立ち上がった。《ロンド》を出た二人は、まず時計塔前の噴水がある広場に訪れた。カミルとキリクが盛大な喧嘩をしたところでもあるが、普段は小さな子供達が遊んでいる場所だ。この日も子供達が仲良く遊んでいるのかと思いきや、彼らは全員地面に腰を下ろし、熱心に折り紙を作っている。

「どうだい、皆」

 カミルが声をかけると、子供達はぱっと顔を上げた。そしてすでに完成していた色とりどりの折り鶴を無数に積んだ山を誇らしげな顔で指差す。

「たくさん折ったよ」

「百羽あるかもしれないね」

「あ、待って。あとちょっとでもう一羽完成するから」

「焦らないでいいよ。ここにある折り鶴の山、持っていくね」

 子供達が折った鶴を紙袋に加え、再び歩き出したカミルの後に雪織が続く。

「あんな小さな子達も、五番目のために鶴を折ってるんだね」

「言ったはずだよ。この界隈に住んでる面子で五鈴のことを知らない奴はいない。皆、心配してるって。だからぼく達は自分にできることをやろうとしてるんだ。効果があるかどうかわからないものに頼ってるけどね」

「すごいな。ここの人達は」

 雪織が立ち止まって呟くと、カミルも足を止めて彼女を振り返った。

「わたしは今までなかなか友達ができなかったから……一人の友達が川に落ちて、昏睡状態になっただけで、ここまでつらくなるなんて思わなかった」

「………………」

「もう、毎日が全然楽しくないんだよ。それに……明日が、怖い」

「…………雪織」

「目が覚めたら今までのことが全部消えるんじゃないか、って。五番目もカミルも、他の皆も――目を覚ましたアリスの夢みたいに消えて、最初からなかったことになりそうで」

「雪織。きみは、ぼく達のことを夢や幻だと思ってるのかい」

 カミルの声は精一杯平静を装うとしていることが雪織に感じられた。親友を傷つけてしまったと後悔したが、今さら嘘をつく気にはなれない。

「自分でも、よくわからない。ただ……わかってるのは、もしわたしが五番目と友達にならなかったら、少なくとも今みたいな気分にならなかったかもしれないってことだ」

「雪織っ!」

 声を荒げたカミルに雪織は肩を震わせる。俯いていた顔を上げた途端、カミルの両手に両頬を挟まれて彼女は戸惑った。

「ぼく達は夢なんかじゃないよ」

 はっきりと断言するカミルの言葉に、雪織の瞳が揺れた。

「ぼくも五鈴もこの島にいる他の皆も、今までのきみを知らない。猫窟島に来る前の雪織がどんなふうに人と接してきたのかなんて知るわけがない。ぼくが知ってるのは、今の雪織だけ。それでも別にいいじゃないか。雪織は大人しくてちょっと素っ気ないけど、友達や親友にはすごく優しくていい人だ。だから、親友の五鈴が目を覚まさなくなってつらいのは当たり前だよ。別におかしなことなんてない」

「…………カミル」

「何?」

「ありがとう」

 雪織の小さな声は耳に届いたらしく、カミルは満面の笑みを浮かべて頷いた。そして自分が持っていた紙袋を雪織の手に持たせる。

「それじゃあ今から女たらしのところに行って、折り鶴回収してきて」

「え?」

「多分《(あめ)(いろ)()》――前にもいたあの甘味処に杏子達を連れていると思うから。ぼくは天文台に行ってくるよ。回収が終わったら《仕立屋ゴクサヰシキ》の前に来て」

 一拍の間を置いて、雪織はカミルの言いたいことを理解した。女たらしとは金貨のことで、彼とは極力と会いたくないらしい。

「うん。わかった」

 苦笑した雪織は一度カミルと別れ、甘味処《飴色屋》へ向かった。

 

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