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猫窟島のケット・シー  作者: 手這坂猫子
第六章 ジョバンニとカムパネルラ
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二十一、診療所

「雉居、浅倉……」

 二人とも走ってきたばかりなのか髪は乱れ、息は荒く、額の汗をしきりに袖で拭っている。しかし火照っているはずの顔はどこか青かった。

「何かあったのか」

「たっ、大変なの雪織!」

 息を整える時間さえ惜しむかのように口を開いた雉居だったが、すぐに噎せて続きが言えなくなってしまう。代わりに浅倉が深呼吸をした後、潤んだ声で叫んだ。

「五鈴が川に落ちたんだよ!」

「…………え?」

 さあっ、と雪織の全身から血の気が抜けていくような心地がした。

「午前中、クラスの六人で川の近くへ遊びに行ってたの。夜中に降った雨で川の水は増して流れも速くなってた。それで、昼顔がぬかるんだ道で足を滑らせて川に落ちたの。五鈴がすぐに飛び込んで、流されてた昼顔を川縁に寄越してくれたから、昼顔は無事だった。でも五鈴がその後沈んでしまって、大人に助けられて診療所に運ばれていったの」

「で、でも。五番目も無事、なんだよね」

 声が震えそうになるのを抑え、雪織は訊ねた。すると二人は苦虫を噛み潰したように歪んだ顔を見合わせ、雉居が静かに答えた。

「無事だってはっきり言える状態なら、私達もわざわざ知らせに回ったりしないよ。……五鈴の意識は、まだ戻ってない」

 雪織は何も言わず駆け出していた。診療所には一度も行ったことがなかったが、幸い場所は把握している。小規模ながら島民から信頼されている動物病院がすぐ隣にある、中庭つきの診療所だ。雉居と浅倉が突然駆け出した雪織に驚き、何か声をかけてきたようだったが、気に留める余裕などなかった。

 彼女の頭の中ではいつものように読んでいる『銀河鉄道の夜』に書かれた文面が浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返している。


「ジョバンニ、カムパネルラが川へはいったよ。」

「どうして、いつ。」

「ザネリがね、舟の上から烏うりのあかりを水の流れる方へ押してやろうとしたんだ。そのとき舟がゆれたもんだから水へ落っこったろう。するとカムパネルラがすぐ飛びこんだんだ。そしてザネリを舟の方へ押してよこした。ザネリはカトウにつかまった。けれどもあとカムパネルラが見えないんだ。」

「みんな探してるんだろう。」

「ああすぐみんな来た。カムパネルラのお父さんも来た。けれども見附からないんだ。ザネリはうちへ連れられてった。」


 運動が得意ではない雪織の息はすぐに苦しくなり、喉の奥が冷えて乾いた。目に汗が入ってきて沁みた。足が縺れて二回も転び、両の膝と掌を擦り剥いた。怪我を負ったのは久しぶりで、そのせいか擦り剥いた痛みも一入に感じた。それでも雪織はがむしゃらに走り続ける。

 ふと、雪織の頭の中で『銀河鉄道の夜』第三次稿に書かれている文が浮かんだ。それはジョバンニがカムパネルラのことについて考えている心情の文だった。


 ぼくはどうして、カムパネルラのやうに生まれなかったらう。カムパネルラなら、ステッドラーの色鉛筆でも何でも買へる。それにほんたうにカムパネルラはえらい。せいだって高いし、いつでもわらってゐる。一年生のころは、あんまりできなかったけれども、いまはもう一番で級長で、誰だって追ひ付きやしない。算術だって、むづかしい歩合算でも、ちょっと頭を曲げればすぐできる。絵なんかあんなにうまい。水車を写生したのなどは、をとなだってあれくらいにできやしない。ぼくがカムパネルラと友だちだったら、どんなにいゝだらう。カムパネルラは、決してひとの悪口などを云はない。そして誰だって、カムパネルラをわるくおもってゐない。


 五番目はカムパネルラのようだと雪織は転校初日から思っていた。

 優しくて、賢くて、大人っぽくて、誰からも好かれる。

 友達のためなら自分の命すら投げ出す。

 そんな少年カムパネルラ。

 しかし、だからと言って彼女は五番目にカムパネルラのような最期を望んではいない。

「はぁっ、はぁっ……」

 診療所は土地の起伏に沿って逆らわずに建てられていた。そして二十歩も離れていない場所にはサイコロのような四角い建物がある。ちょうどその動物病院から出てきた斑猫を抱える老人は、診療所の前で息を荒げる雪織に驚いた様子で目を瞠った。しかし、今の雪織にはそんな奇異の視線すら気にならなかった。

 天井と壁が一体化した洞窟のような造りのロビーに入る。空調の効いた涼しい室内で汗が引いていくのを感じた。しかし息をつく暇もなく、雪織は受付で五番目の名前を出した。教えてもらった一〇三号室の位置を記憶し、注意されない程度の早足で廊下を歩き始める。廊下の右側は診察室や入院患者用の病室の扉、左側はタイル張りの水道場、日除けのついた窓、中庭へ出る扉があった。一〇三号室は、そこにいるだけでかえって病気になりそうなほど無機質な白い個室だった。照明の下にあるベッドで、五番目が仰向けで寝かされている。その脇に三人の男子生徒が全員青い顔をして立っていた。

「雪織……膝、怪我してる」

 一人が声をかけてきたが、雪織は無視した。滝のように流れてくる汗を拭うことなく、無遠慮にベッドへ近づく。

 五番目の左腕には点滴の針が刺さって固定されていた。そこから伸びる透明な細い管を辿ると、何かわからない液体が入ったパックが点滴スタンドにぶら下がっている。口と鼻は太い管が繋がった透明なマスクで覆われていた。そのマスクが時々薄く曇るのを見ることで、ようやく彼が死んでいるのではなく生きているのだと目で理解できた。

 雪織は夢の中で会った五番目の姿を思い出す。銀河鉄道に乗っていた五番目は、かすかに髪が湿っているようで、肌が妙に青白く、どことなく物憂げな翳りを目に宿し、儚い存在に見えた。今、自分の前で目を閉じている五番目と夢の中にいた彼が重なる。

「そいつ、すごい大量に水飲んでたらしくて……。あと少しでも救助が遅れてたら本当に危なかったって、先生が言ってた」

 沈黙する雪織の背中に、先ほど声をかけてきた少年とは別の一人が話しかける。

「でも今は意識が戻ってないだけで、一応呼吸もできてるから……このまま調子を見るために入院するみたいなんだ。脳の損傷とかはない、らしい」

「川の近くで遊んでたって聞いたけど、誰が言い出したの?」

 自分の口から出た低く冷たい沈んだ声に、雪織は少なからず驚いた。

「俺が五鈴を誘って、それで……」

 それまで唇を噛みしめて黙っていた一人が、重々しく口を開いた。その表情は今にも泣きそうに歪んでいる。

「そう」

 きみは悪くないんだからそんな顔をしないで。そう言おうとしたが、思い止まる。

「そう言えば、回向は?」

 雪織が訊ねると、三人の顔色が少しだけ変わった。

「あ、ああ。五鈴のおかげで、昼顔は軽く水を飲んだ程度で済んだんだ。あいつ、自分のせいだって責任感じてるみたいで……今は中庭にいると思う」

「わかった。それじゃあね」

「えっ、もう行くのか?」

 彼らはそろって意外そうな表情になる。雪織は静かに扉を開けながら、小さく呟いた。

「わたしが傍にいることで五番目の意識が戻るなら、もちろんここに居座るよ。でも、そういうわけじゃない。……ごめん。今のわたし、無神経だね」

 雪織は三人の顔を見ないようにして、一〇三号室を出た。廊下を歩いているとすぐ手前にあった中庭に通じる扉が音を立てて開いた。

「あっ」

「…………」

 姿を現したのは回向だった。思わず足を止める。ずっと泣き続けていたのかと思うほど目は充血して潤み、顔色は血管の中身が消えてしまったかのように蒼白だ。いつも留めているヘアピンを失った長い髪はしんなりと湿っているように見える。

 回向は硬く結んでいた唇を震わせながら開いたが、結局声を出す前に雪織の横を走り去っていった。一〇三号室の扉が開き、そして荒々しく閉まる音がした。

 雪織はしばらくその場に立ち尽くしていた。やがて次々と訪れたクラスメイト達が声をかけてきても、まるで聞こえていないかのように無反応だった。そんな彼女を見て心配するクラスメイトも何人かいたが、それでも雪織は何の言葉も返さなかった。通りかかった若い看護師が、彼女の膝から流れる血を見て「手当てしないと、化膿してしまうわ」と優しく囁いてきたときにようやく反応を示した。

「これでよし。……お友達のこと、あまり気に病まないようにね」

「はい。ありがとう、ございました」

 絆創膏で両の膝と掌を固められ、雪織はその看護師に礼を言って診療所を出た。一体どのような道のりで来たのかわからず、うろうろと何度も迷いかけ、ようやく帰宅したときにはすでに日が落ちていた。診療所へ向かうときは真っ直ぐ辿り着けたはずなのに何故だろうと頭の片隅で考えたが、すぐにやめる。頭がひどく痛いことに気づいたからだ。

「ただいま」

 居間に入ると、エプロンをつけた母がいつもと変わらない様子で振り返った。ティーカップや薬缶はもうテーブルの上から姿を消していた。

「おかえり。……どうしたんだ、その膝」

「転んだんだよ」

「そっか。もう夕飯できてるけど」

「うん。食べる」

 放任的で干渉してこない母は雪織にとって相変わらずありがたい存在だった。もしかしたらあの後、雉居と浅倉が五番目のことを母にも伝えた可能性はある。だがそれを確認する必要はないと思った雪織は、母には何も言わないままいつものように夕食を終えた。普段と変わらない食事の量を平らげた自分が、少しだけ嫌になった。

 湯船に浸かると、全身の肉と骨がばらばらになるような錯覚を感じて、雪織はさっさと髪と身体を洗うと風呂からあがった。自分は回向や他のクラスメイトより落ち着いているはずだと思っていたが、気づけば心臓がうるさく早鐘を打っている。今さらながら夕食を吐いてしまいそうだった。どうにか落ち着こうとして、宮沢賢治の本を読み始める。

『猫の事務所』を途中まで読んだところで、雪織は本を閉じてしまった。内容がなかなか頭に入らず、頭の中に浮ぶのは青白い五番目の顔だ。

「あんな夢を見たからだよ」

 誰かに弁明するかのように、雪織は呟いた。

 自分と五番目が銀河鉄道に乗る夢を見ていなければ。

 同級生のザネリを助けて川に入ったカムパネルラが死ぬ話を知らなければ。

 それなら、少なくとも自分はこんな風にならなかったかもしれない。

 自分じゃない誰かが川に落ちただけで、自分じゃない誰か一人と喋ることも笑い合うこともできなくなっただけでここまで心をかき乱されるとは、猫窟島に訪れる前までの雪織には考えられないことだった。

 このまま起きている限り、脳の許容量を超えてしまうほどに考え事をしてしまいそうな気がした雪織は、急いで部屋の明かりを消して無理矢理眠りについた。

 

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