二十、銀河の夢
「――――銀河ステーション、銀河ステーション」
どこからか聞こえてくる機械を通した声。がたごとと揺さ振られる感覚。雪織はいきなり目の前がさあっと明るくなる眩しさを感じ、目を擦った。
気がつくと雪織は走る鉄道列車の中にいた。黄色い小さな電燈の並んだ車室の中は、青い天鵞絨を張った座席が見事にがら空きで、鼠色のワニスを塗った壁には、真鍮の大きなボタンが二つ光っている。
「ここは…………」
窓から外を見ると、はっきりと星が見える夜空と思しき世界が広がっていた。かと思えば白い穂を輝かせた薄が靡き、竜胆の花が咲き誇っている野原に変わる。散らばった数多の三角標が青や赤や橙の光を纏っていた。
どうやらこの列車は銀河の上を走っているようだった。星が集まってできた川の底に、長い線路が敷かれているらしい。雪織は何故かこの景色を知っているような気がしたが、実際に見たことはないという奇妙な矛盾を感じて眉を寄せた。
ふと窓の外から視線を外すと、いつの間にか向かいの席に座る五番目がいた。正面から目が合うと、彼は微笑を浮かべて片手を上げる。
「五番目。ここって、どこ?」
「幻想第四次の銀河鉄道」
「ふうん」
雪織は深く考えることなく相槌を打ったが、何かとても大切なものを忘れている気がする。それと同時に目の前の五番目に違和感を感じた。
彼はこんなに儚い印象だっただろうか、と。
雪織が知っている五番目五鈴という親友は、機知に富み、それでいて威張っているようにも無駄に謙虚にも見えない。どちらかといえば勝ち気かつ積極的な性質で物怖じしない態度だったはずだ。それなのに今の彼は、元気がないというわけではないのだが、どこか寂しげで物憂げな影をその目に宿している。
「わたしは気づいたらここにいたんだけど、五番目は? 前からここにいたのか」
「雪織が乗る少し前に。皆は随分走ったけれども、遅れたらしい」
「皆……」
「昼顔と、房や初音達。あいつらは追いつけなかったみたいだな」
「そう」
「それより雪織、あれ見えるか?」
五番目が指差した先は、窓の外だった。遥か前方に大きな十字架のような星の集まりが見えてきた。神秘的な輝きに雪織は息を呑む。
「あれは南十字星だ。英語ではサザンクロスと呼ばれる」
「聞いたことがあるよ。でも、見るのは初めてだ。それもこんなに近くで」
しばらく二人は黙って南十字星を眺めていた。
「ハルレヤ」
同時に雪織と五番目が小さく呟いた。見事重なった声に二人は驚いた顔を見合わせ、やがてどちらからともなく笑い出す。何故ハルレヤと呟いたのか、雪織は自分でもわからなかった。もしかしたら五番目もわかっていなかったのかもしれない。それでも、何故かその祈りのような言葉は自然と口から出ていた。
「わたし達はこのままどこへ行くんだろうね」
「もうすぐ、目的地に着くんじゃないかな」
「目的地って?」
彼は雪織の問いには答えず、誤魔化すように微笑んでもう一度ハルレヤと呟いた。
列車が規則的に音を立てて走っている中、突然雪織はどこからか漂う甘い香りに懐かしさを覚え、辺りを見回した。一体何の香りだろうかと考えていると、頭の中でぱちぱちと泡が弾けるように思い出す。
磨かれた赤い表皮。薄い黄色がかった白い実。歯を立てるたび聞こえる瑞々しい音。柔らかさと冷たさを感じると、口の中に広がる甘い味。
「林檎の香りがするね」
「林檎? いや――」
首を横に振ろうとした五番目の動きが、ぴたりと止まった。しばらくの間黙って、鼻をすんすんと動かして彼は言った。
「これは林檎じゃない。野ばらの香りだぜ」
「野ばら?」
「ああ。でも、ちょっと変だな。野ばらの花が咲く季節は終わったと思ってたのに、まだどこかで咲いてるのか」
そう言われても、雪織の鼻孔を擽るのは間違いなく林檎の香りだった。第一彼女は野ばらの香りがどんなものなのかがわからない。釈然としないまま窓からの景色を眺めていると、次第に林檎の香りは薄れていき、最初からそんな香りなどなかったかのように消えてしまった。雪織は不思議に思いながらも、五番目に別の話題を持ちかけた。
「五番目。本当の幸せって、なんだろうね」
「どうしたんだよ。いきなり哲学的なことを」
「ただなんとなく思ったんだ。言っておかないと、いけない気がして」
「………………」
五番目は後方へ消えていった南十字星を追うように窓の外を見ていたが、やがて考えがまとまったらしく、また雪織と視線を合わせた。
「その人にとって何が本当の幸せかなんて、誰にもわからないだろ。俺は雪織の幸せがわからないし、雪織も俺の幸せがわからない。それでいいんじゃないか。……でも」
「でも?」
「自分以外の人が自分と同じ幸せを共感できるのは、最高なことだと思う」
雪織はそれを聞くと、頷いてはっきりと肯定した。
「わたしも、そう思うよ」
そしてそっと目を閉じる。それからしばらくは二人とも無言で列車が走る音を聞きながら、心地よい振動に揺られていた。
「ねえ五番目、わたし達これからも一緒に――」
雪織は目を開き、そこに五番目がいなくなっていることに気づいた。慌てて座席から立ち上がり、辺りを見回すが無人の座席があるばかりだ。
急に、今までに感じたことがないほどの強い孤独感と焦燥感が胸の中でとぐろを巻いた。まるでこの世界に自分一人だけが取り残されてしまったかのような不安感がたちまち身体中に浸透し、得体の知れない胸の痛みと息苦しさが雪織を襲った。
「五番目! どこ!?」
叫んだ声は虚しく反響するだけで、それに返される声はない。
涙が零れそうになるのを堪えながら何度も五番目の名前を呼んだ雪織は、それまで閉まっていた窓を押し開けた。そこから外へと身を乗り出す。
「――――五番目っ!」
喉の奥から潤んだ声が迸ったそのとき、雪織は辺りが一斉に暗くなったのを感じた。やがて再び眩しさを感じ、見慣れた洋室の天井が目に飛び込んできた。上体を起こしたそこがベッドの上だと気づき、今まで自分の見ていたものが夢であったことを知る。
「……『銀河鉄道の夜』みたいな夢だったな」
真冬に散った木の葉を擦り合わせるような乾いた声が出て、まさか夢の中で叫んだせいだろうかと苦笑する。額の汗を拭うと部屋を出て、居間に向かった。母がイヌハッカのハーブティーを沸かしているところだった。五番目が見舞いの品として持ってきたことをきっかけに、現在の釵親子はイヌハッカの茶を普段から愛飲するようになっていた。
「それ、わたしも飲みたい」
「熱いままでいいのか」
「うん」
「ならカップ二つ用意して」
雪織は言われた通り食器棚からティーカップを二つ取り出し、母に渡す。薬缶からティーカップへと注がれるくすんだ蜂蜜色の液体を見つめていると、母が言った。
「この前、イヌハッカのこと調べたんだよ。母さんがうろ覚えだった別名もわかった。ブルーキャットミントとキャットワープ。キャットニップって呼ばれることも多いみたい」
「イヌハッカなのに?」
「犬が好むからじゃなく、ハッカに似ているけれどハッカより質が劣るからイヌハッカと呼ばれるらしい。日本では質の劣るものに犬をつけるんだって」
母からティーカップを受け取った雪織は、軽く息を吹きかけて冷ました。一口飲むだけで乾いた喉が温かく潤されていくのを感じる。
「ああそれから、イヌハッカは猫が好むんだって。木天蓼みたいな効果があるみたい」
「…………ねえ。母さん」
ティーカップの中身からゆらゆらと昇る湯気を見つめていると、催眠術にかけられたかのように、頭で考えるより先に自然と言葉が雪織の唇を割って出た。
「もしわたしが、猫を飼いたいって言ったらどうする?」
言い終えた直後はっとなる。何故自分がいきなりそんな質問をしたのか、雪織はわからなかった。イヌハッカは猫が好むという情報を聞いたからかもしれない。
今までにも、宮沢賢治の作品に夢中になった頃から猫を飼いたいと母に言うことは何度かあった。ちゃんと自分で世話をするから――そんなどこの家庭でもペットを欲しがる子供ならば必ず言うだろう常套句を述べて。
しかし雪織は、そのたびに母から同じことを言われていた。
「お前が猫を飼うことなんてできない。ペットはぬいぐるみみたいに遊びたいときだけ抱きしめて、撫でて、可愛がって……それで飽きたらベッドの上に放り投げていいものじゃない。雪織、わかってるのか? 猫は生きてるんだ。怪我もするし病気にもなる。それに雪織が飼った猫は必ずお前より早く死ぬ。飼い主は餌をやり、躾をして、可愛がり、体調管理をするだけでは駄目。その最期を看取らなければいけないんだ。そんな大変なことを、放浪し続ける母さんについていきながら生きる今のお前ができるのか?」
もちろん理解していた。しっかり理解しているつもりで、それでも飼いたいと思って頼んだ。しかしいざ母に面と向かってそのことを言われると、どうしても猫を飼いたいという気持ちが弱まって、結局諦めてしまった過去を覚えている。
雪織はティーカップから唇を離した母を見つめ、返事を待った。
「なんか、久しぶりだな」
ふっと微笑んで母は続ける。
「お前は今も本気で猫を飼いたいのか?」
「うん。まあ、ね」
「そうか」
母が頷いた後、二人の間には沈黙が訪れる。このまま黙っていては今の話を全てなかったことにされてしまいそうに感じた雪織は、口を開いた。
「わたしはもう、大人だよ」
「いや子供だ。中学生くらいになると真偽を確かめずただひたすら情報を溜め込み、それだけで大人よりも偉くなったと思い上がる子供が増えてるらしいけどね」
「でも、猫の世話はできるし、猫が死んだときだって大騒ぎしない程度には大人だよ」
それを聞いて、母は一度ゆっくりと瞬きした後で優しげな微笑を浮かべた。普段一緒に過ごしている娘の雪織ですら、なかなか見ることができない表情だ。
「雪織。母さんは――」
突然、インターホンが鳴った。一度余韻を残して消えた後、連続で三回鳴り響く。
「なんだ。うるさいな」
「わたしが出るよ」
ティーカップに残っていたハーブティーを一息に飲み干し、雪織は急ぎ足で居間を出て玄関に向かった。扉を開けた先に立っていたのは、顔を知っているとはいえ今まで家に案内したことのない二人の少女だった。




