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猫窟島のケット・シー  作者: 手這坂猫子
第一章 猫窟島
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二、隣席の少年

 翌朝、母は雪織に猫窟島の地図を渡した。

「昨日のうちに役所で手続きは済ませてきたから。初日でいきなりだけど、一人で行ってこい。他にもこの住宅街に中学生はいると思うから、その子達についていけば大丈夫だ」

「わかった。一応確認するけど、徒歩だよね」

「ああ。ここからだと大体二十分くらいかかるらしいけど、それくらいの時間ならわざわざバスを使う必要もないだろ。バスの本数も少ないからな」

 雪織は頷き、洗面所の鏡で服装に乱れがないか確認する。やたらと畏まっているのも、無闇にだらしないのも好みではない。そんな彼女でも、第一印象が決まる転校初日は決まって髪型や服装の確認を念入りにしていた。鏡の中では若干肩にかかるくらいの黒髪を持つ少女が軽く緊張の表情を浮かべている。よく言えば清楚、悪く言えば地味と言われそうな容姿だ。白いカッターシャツに臙脂色のネクタイを締め、その上から黒のブレザーと同色のスカートという組み合わせの制服は最初に入学した中学校のもの。ボタンは全て留められ、悪目立ちする部位は見当たらない。雪織は急ぎ足で玄関に向かった。

「じゃあ行ってくるよ。母さん」

「忘れ物はない?」

「うん。大丈夫……だと思う」

 曖昧な返事をして、地図を片手に鞄を肩にかける。雪織は家を出て幸運にもすぐに見つけた登校中の中学生数人に混ざり、新たな通学路を歩き出した。

 ちらちらと視線を向けてくる生徒が何人かいることはわかる。しかし億劫であることと気恥ずかしさのせいで自分から声をかけることはできず、色から形まで全然違う制服の群れをやり過ごすことに精一杯だ。見たところ猫窟島の中学校は男子が青い詰襟、女子が白地に青のカラーやラインが目立つセーラー服を着ている。ほぼ黒装束と言っていい雪織の制服姿は、傍から見れば非常に浮いているのだろう。自然と顔が下を向く。囁きの声がひどく余所余所しく感じられ、いつの間にか道の端を歩いていた。

「わっ……」

 突然、目の前の曲がり角から何かが音もなく飛び出してきた。驚いて足を止めた雪織は一瞬黒いボールが転がってきたのかと思ったが、その正体は黒猫だった。まだ子猫なのか、身体は小さい。その黒猫はぶつかりそうだった雪織――正確には彼女の足――のことなど気にする様子もなく、そのまま近くのコンクリート塀に空いていた小さな穴に入っていき、消えてしまった。まるで洗練されたかのような途轍もない俊敏さだった。

「………………」

 あまりにも突然のことに雪織は呆気に取られる。今の黒猫に、突然遭遇した人間に対する驚きはそれほどないようだった。もしかしたらこの時間帯、この場所に学生が多く通るということを理解しているのかもしれない。

 横を談笑する女子生徒四人が追い越していき、立ち止まっていた雪織ははっと我に返る。先ほどまでの孤独感や窮屈さが何故か薄らいでいるような気がして、再び彼女は顔を上げて島の通学路を歩き始めた。

 住宅街を抜けると生徒達が歩く道の周辺は野草地となった。今までは地方でも都市の地域に住むことが多かった雪織は彼らについていきながらも、本当にこの先に学校があるのだろうかと少しばかり不安になった。しばらくして校舎が視界の先に現れると、雪織はほっと安堵した。正門に繋がった黒い柵のようなものが塀代わりなのか校舎や校庭、体育館を囲んでいる。校舎は正面玄関に趣向を凝らした三階建ての建物だった。外壁に蔓草が伝う校舎と体育館は随分と年季を感じさせる。雪織が以前通っていた中学校よりずっと小規模だが、この島の人口に含まれる中学生の割合を考えれば当然のことなのだろう。

 校舎に入った雪織は生徒のざわめきを潜り抜け、好奇の視線を向けられることはあったが結局誰からも声をかけられないまま、職員室へと辿り着いた。

「失礼します」

「あ、もう来たんだね。おはよう。きみが釵さんだろう?」

 名乗ろうとした雪織に声をかけたのは三十代前半と思しき男性教師だった。とっさに雪織は初対面の教師を観察した。清潔感のある短髪。愛想のいい顔立ちに中肉中背の体型。親しみやすい明るい声。教師としては比較的若い。恐らく生徒からの評判は低くないだろう。母の影響で放浪しながら生活をする彼女にとって、相手がどんな人物なのか最初に見極めることは、人間関係を上手くやり過ごすための癖になっていた。

「昨日役所から電話があったよ。ほら中に入って」

「はい」

 沓摺りのすぐ手前に立っていた雪織は戸を閉め、教師の傍に近づいた。

「僕は釵さんが入る二年一組担任の()()。社会科を教えてるんだ。よろしく」

「よろしくお願いします」

 軽く頭を下げて、雪織は鞄から出した書類を九瀬に提出する。揃えてある書類を提出するだけという転校手続きはここも一緒なんだな、と雪織は思った。

「教科書とかは一通り机の中に入れてあるから、心配しないで。生徒には昨日のうちに転校生が来ることを伝えておいたんだ。うちは全学年一クラスだけで人数少ないから皆喜んでたよ。登校中に声をかけられたりしなかった?」

「いえ」

「そっか。それじゃあさっそく教室に案内しよう。もうすぐホームルームの時間だ」

 雪織は九瀬の後ろを歩きながら校舎内をよく観察した。飾り気はないが、手入れはよく行き届いている。磨かれた窓からは青い空と緑の木々が見えた。

「ここが二年一組の教室」

 そう言って九瀬が足を止めたのは二階の西階段近くにある教室の前だった。雪織も足を止め、深呼吸する。その教室への第一歩は、これまでに何度も経験した緊張と大して変わらなかった。場所や人が変わるため慣れることはないが、だからといって特別緊張の度合いが跳ね上がるような学校があるわけでもない。

 三十名に欠ける生徒は皆一様にこちらを見ている。ひそひそと会話をする生徒も眠っている生徒も窓の外に目をやる生徒もいない。そこそこ真面目なクラスなのか、それともただ単に今だけ真面目な態度を装っているのか――初対面のクラスメイトを前にして、そんなことを頭の隅で考える余裕があるのは転校を繰り返している雪織だからこそだ。

「初めまして、釵雪織です。これからよろしくお願いします」

 短く素っ気ない自己紹介を終え、一礼するとクラスメイトからささやかな拍手が送られる。雪織は九瀬の指示で教室の窓際列の右隣、後ろから三番目にある空席へ腰を落ち着かせた。両隣の席も前の席も座っているのが異性であることには少しだけ残念に思った。異性が苦手なのではないが、これまでの経験から自分が比較的親しくなりやすいのは異性よりも同性の生徒だということを理解していたからだ。

「それじゃあ皆、すぐ授業始まるから準備して」

 始業を知らせるチャイムが鳴ると、九瀬がそのまま教室に残って一時間目の授業を開始した。どうやらちょうど今日の一時間目は社会科らしい。雪織は鞄から筆記用具と使いかけの筆記帳、机の中に入れられていた教材から社会科の教科書と資料集を取り出した。

 不慣れな教科書を開いて字面を目で追い、板書を筆記帳に写し、九瀬の説明を聞く。それでも、内容はなかなか頭に入ってこなかった。転校するたび進み具合や教師の教え方が違う授業に合わせようとしているのだが、それが上手くいかない。試験でクラスの平均点を上回るのは得意の現代文と古典か、運がよくて英語くらいだ。

 授業は滞りなく終わり、休憩時間を迎えた。何人もの生徒が席から立ち上がる中、雪織は誰かに話しかけようともせず、さっそく鞄から取り出した宮沢賢治の本を読み始める。もしこの態度で根暗な奴だとクラスメイトから判断されても、特に間違っていることではないからと彼女は気にしなかっただろう。

「授業の進みは前の学校と同じだった?」

 不意に雪織の左隣、窓際の席に座る生徒が声をかけてきた。こんなにもさりげなく、好奇心や物見高さもなく、気さくに異性から声をかけられたのは初めてだった。雪織はそのことに戸惑いを覚えながら、相手に応じる。

「いや、ちょっと違ってた。先生の教え方……というか板書の書き方も結構違う」

「やっぱり。何度か溜め息ついてたし、そうじゃないかと思ったよ」

 まさか授業態度を目敏く見られていたと思っていなかった雪織は彼の観察眼に驚き、同時に転校初日で印象を悪くしてしまったかと臍を噛む。

「でも九瀬の字が綺麗なのには気づいただろ。他の先生だとあそこまで綺麗に書いてくれないぜ。あ、俺は()(つが)()()(すず)。漢字はナンバーファイヴと五つの鈴って書く」

 彼はまるで付け足すように名乗った。前髪が眉にかからないよう短く切られた髪は自然と流れている。背丈はかなり高く、百八十センチに近い。三白眼を持つ顔は優等生と言うより不良少年のようだが、不思議と近寄りがたさはない。三白眼は悪相とよく言われるが、五番目の顔立ちはむしろ密かに女子から好感を得ていそうなものだ。

「ここの奴らは保育所や小学校から同じ奴らばかりなんだ。ほとんどが名前で呼び合ってるけど、無理に合わせる必要も特に遠慮する必要もないから。好きなように呼んで」

「そう……わかった。じゃあ、五番目。わたしのことも自由に呼んで」

「ああ。よろしくな、雪織」

 五番目は教科の進み具合や担当教師の名前、性格、教え方などを手短に説明してくれた。そこに押しつけがましさや新入りを手伝い他人からの評価を得ようという下心などは全く感じられず、雪織も素直に感謝してそれを聞く。わずか十分の休憩時間に、この五番目という少年が男女問わずクラスメイトから信頼されている中心人物であることが理解できた。

 二時間目の現代文は担当教師が風邪で休みということで急遽自習となった。提出するべき課題が用意されていなかったため、生徒達は思い思いに教室内で自由行動を始める。教室の中心の方へ移動して長い時間クラスメイトと雑談をした後、席に戻った五番目は雪織の手元にある本を見て口を開いた。

「雪織は宮沢賢治が好きなのか」

「え? ……ああ、うん」

 今まで読書をしている姿から本が好きなのかと訊かれることはあっても、その作者にまで興味を持って話しかけてくれる生徒はいなかった。この男子生徒には驚かされることがこれからもありそうだと思いながら、雪織は頷く。

「作家の中では一番好き」

「へえ。『注文の多い料理店』とか『銀河鉄道の夜』とか有名だよな。俺が実際に読んだことあるのは教科書に載ってた『注文の多い料理店』と『よだかの星』だけど、タイトルは結構知ってる。確かその人の本って、猫がよく登場するんだっけ」

「『どんぐりと山猫』とか『猫の事務所』とかね。昔から作家は犬好きよりも猫好きの人が多いみたいなんだ。梶井基次郎とか谷崎潤一郎とか」

「じゃあ夏目漱石も?」

「実は違う。夏目漱石や宮沢賢治は代表作から猫が好きそうなイメージがあるけど、実は猫嫌いだったって話があるんだよ」

「そうだったのか。意外」

「猫をモチーフにした作品を残したからと言って猫好きとは限らないよ。作品と人間性や思想は必ず一致するわけでもないしね」

「ふうん。雪織って、なんだか大人っぽいよな」

「……そう、かな」

「ああ」

 褒められているのだろうか、それとも気取っているように見られたのだろうかと雪織は内心不安になった。彼女からしてみれば、そう言う五番目も十分に大人っぽく見える。彼は十三、四歳という年齢の持ち得る限りの機知に富み、それでいて威張っているようにも無駄に謙虚にも見えない。どちらかと言うと勝ち気で積極的な性質なのだろうが、物怖じしない態度と同時に、相手にとっての心地よい距離より先に進もうとしない。そんな洗練された人柄を感じる。

「五番目はカムパネルラみたいだ」

 ぽつりと呟いた言葉に五番目は不思議そうな顔になった。聞き取れなかったのか、意味が理解できなかったのか、彼は黙って雪織の言葉の続きを待っている。

「カムパネルラ……は、読んだことないなら知らないか。『銀河鉄道の夜』に登場する少年の名前だよ。なんとなくだけど、そう思った」

「それってどんな奴なんだ?」

「主人公ジョバンニの友達――親友と言ってもいいかもしれない。作中にそう記されてるわけじゃないけど、学校では人気者の優等生みたいな描写がある。ジョバンニと一緒に銀河鉄道に乗って旅をする主要人物が彼だよ」

 しかし、川に落ちた同級生を助けてカムパネルラは死んでしまう。それを付け加えるべきかどうしようかと悩んでいると、授業の終わりを知らせるチャイムが鳴った。

 五番目はその後も雪織にそれとなく親切な配慮をしてくれた。月並みに気の合いそうな女子生徒を集めて紹介するわけでもなければ、クラスメイトと活発に関わることを無理強いするわけでもない。始終傍にいて面倒を見るやり方ではなく、雪織が精一杯努力した後にそれでも手助けがほしいというときに必ず手を差し伸べてくれた。

「別に無理して輪の中に混ざる必要も、無駄に声を張る必要もないぜ。話がしたいとき、雪織の声を聞こうとする奴にはちゃんと聞こえてるし、そいつらは返事をしてくれるから」

 彼は母や教師とは違った今までにない助言を雪織にくれた。雪織の五番目に対する第一印象は間違っていなかったようで、そこに自己満足や見栄のためという下心がないことは、何より彼の周りに集まる生徒の表情や反応で察することができた。

 

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