十九、サーカス
六月と七月を跨ぐ期末試験が終了した日、帰宅した雪織はドアポストから覗く銀色の封筒に目を見開いた。手に取ってみると、封筒には以前と同様彼女の名前が記されている。差出人の名前はない。見たことのない赤い切手が貼られ、消印にはCaitSithとある。
「これって……」
雪織は気が逸る思いを堪えて自室に急ぎ、机の抽斗を開けた。そこには切手の色以外、今雪織が持っているものと変わらない封筒がある。まさかケット・シーから二度も手紙が送られたのかと思いつつ雪織は封筒を開けた。しかし中に入っていたのは手紙ではなく、一枚の色鮮やかな紙だった。
「サーカスのチケットだ」
ポップな字体で《夏季サーカス》と大きく書かれたその紙を見て、雪織は呟いた。開演の場所は時計塔の一階にある講堂で全席指定となっている。何故人気なサーカスのチケットがこうして自分のもとに送られてきたのだろうと雪織は疑問に感じたが、すぐに以前五番目が言っていたことを思い出す。
「カミルが送ってくれたのかな」
開演日時を確認して、雪織はチケットを財布の中に入れた。それから机の上に出していた封筒を全て抽斗の中に片付けて母がいる和室に向かう。
「ねえ、母さん」
母は誰かと通話中だった。突然現れた雪織に向かって左手を出し、少し待っていろと言いたげな目を向ける。すかさず雪織は口を噤んだ。
「――――ああ、頼む。まだ確定するわけじゃないけど……。そうだな、そうしてくれるか。…………わかった。じゃあ、来週に」
そこで通話を終えた母は雪織に向き直る。
「どうした」
「今電話してた相手って誰?」
「和菓子だよ。お互い相談し合ってたんだ。……それで、何かあったのか」
「日曜日の夜、八時前に出かけたいんだけどいいかな。遅くなるかもしれないけど」
「誰かと一緒に?」
「うん」
「だったらいいよ。行ってこい」
相変わらず娘が夜に出歩くことを注意しようとしない。こんな母親は世間一般からすれば間違いなく問題視されるかもしれないが、子供からすれば好都合だと雪織は思った。
日曜日の夜は満月だった。ケット・シーに到着すると、夏至祭の日と同様に人の気配が薄いことに気づく。雪織が時計塔の前に急ぐと、すでにそこでは多くの人が列を成していた。点滅を繰り返す電飾で飾られた入り口の右にはチケットのもぎりをしている人、左には何故かアイスクリームの露店らしきものが見えた。
「雪織。やっぱり来たんだな」
最後尾にいた五番目が雪織に気づき、手招きをする。雪織は彼の後ろに並ぶと財布からチケットを取り出した。五番目の手にも同じチケットが握られている。
「家のドアポストに入ってた。これ、カミルがくれたんだろう」
「本人は黙ってるんだけどな。俺のところにも届いてた」
「あれはアイスクリームを売ってるのか」
雪織が前方を指差すと五番目は嬉しそうに首を横に振った。
「売ってるんじゃない。夏のサーカスに来た客には、あそこでアイスクリームが振る舞われるようになっているんだぜ。それも好きな味を選べる。……雪織、座席番号は?」
「四十七番だよ」
「俺は四十六だ。隣に座れる」
しばらくして二人の順番になり、雪織はチケットを差し出した。赤いイブニングドレスのような服を着た女性がチケットをもぎり、向かいにある露店を手で示す。
「あちらでお好きな味のアイスクリームをお選びください」
露店にはアイスクリームの味が十種類以上書かれた板を下げてあった。そこでウェイトレスのような服装をした女性がアイスクリームをワッフルコーンの上に乗せている。顔立ちがチケットのもぎりをしていた女性と瓜二つで、彼女達は双子だろうと雪織は思った。
「クリームソーダをお願いします」
「俺はチョコミント」
「はい。かしこまりました」
水色と白色のアイスクリームと、ペパーミントグリーンとダークブラウンのアイスクリームがそれぞれアイスクリームディッシャーで素早くすくわれる。それらを乗せたワッフルコーンは、注文して間もなく雪織と五番目の手に渡された。
時計塔の講堂は予想以上に広く、舞台も大きなものだった。サーカスを開催する場所としては申し分ない。座席はすでに見物客で溢れている。雪織と五番目が席に着いてアイスクリームを味わっていると、シンバルの音を合図に舞台は暗転した。次に場内が明るくなったときには玉乗りの三人組が舞台の上にいた。
「始まったぞ」
そう言って五番目は身を乗り出した。三人の男達は鮮やかな色の玉を転がしつつ、投げ輪やジャグリングを披露する。扇のように開いた靴を履いていながら、安定した動きだ。そのうち三人が舞台から退場すると、ディアボロやデビルスティックを操る少年少女が現れた。下は十歳、上は十五歳くらいだろう。だがカミルの姿は見当たらない。
「カミルは?」
思わず雪織は声に出して、五番目を見た。彼も想定していなかったことらしく、全く要領を得ないというような表情をしている。ディアボロやデビルスティックが終わるとナイフ投げ、人体切断、曲馬、綱渡りと続いたが、カミルはどれにも出てこない。そしていよいよ最終演目の空中ブランコを迎えたとき、雪織と五番目は「あっ」と驚きの声を上げた。
舞台の上に躍り出た四人の中に、カミルがいた。これまでの出演者が着ていたものと同様《仕立屋ゴクサヰシキ》で仕立てられたのだろう衣装は、肩口から袖にかけてたっぷりと薄く透ける瑠璃色のラッフルを飾りつけている。そのラッフルの縁には金の縫い取りがあり、照明にきらきらと輝いていた。キリク、ケイラ、コリンが着ている衣装も色こそ違うものの、カミルが着ているものと同じくらい華やかなものだ。
四人は天蓋から垂れた紐をするすると上っていった。支柱は三本あり、カミルはケイラの後ろに待機する。年の順にブランコを掴み、躊躇いなく身を投じた。一番小柄な彼は自らブランコを掴むことなく、常に兄や姉の手首や足首と繋がって宙を行き来した。
「すごい……」
雪織は無意識のうちに止めていた息を吐き出し、呟いた。四人とも立派な軽業師だと頭は理解している。しかしタイミングがずれたときには緊張が走った。コリンがカミルの手首をつかみ損ね、落下しかけたところをケイラが助ける。それが演技だと頭ではわかっていても、雪織の鼓動は早鐘のように打った。
次第に三方向からの動きは目まぐるしさを増し、カミル一人だけが宙に取り残される瞬間すらあった。雪織は胸の辺りを両手で掴み、身を乗り出す。そのときキリクがカミルを掴み損ねた。辛うじて服のラッフルを掴んでいる。すぐに別方向からコリンが救援に現れたが、彼もまたラッフルしか掴めなかった。カミルは落下して、同時に彼の腕からラッフルが螺旋を描いて抜けていく。
「カミル――――」
雪織も含め、見物客の誰もがそこで息を呑んだ。その瞬間色とりどりの紙吹雪や花弁が天井から座席に降り注いだ。カミルの安否を気にしていた人々も一瞬、その紙吹雪や花弁に気を取られる。すぐにまた舞台へ目を向けると、カミルが下に設置されていたトランポリンで宙返りをする瞬間が見えた。くるくると身軽な回転をした後、危なげもなく床に着地する。ラッフルはすっかり解け、衣装には袖がなくなっていた。あらかじめ、そのように作られていた衣装らしい。今までにないほどの拍手喝采が起こり、全ての演目が終了した。出演者が全員舞台に出て頭を下げると、再び拍手が湧き上がった。
「雪織。そろそろ出ようぜ」
「ああ……。うん、そうだね」
舞台の幕が閉じてしばらく経ってもぼんやりと座っていた雪織は、五番目に促されて座席から立ち上がった。辺りを見回すともうほとんどの見物客がいなくなっている。
二人が時計塔を出ると、噴水の縁に腰掛けているカミルの姿を見つけた。まだ瑠璃色の衣装で渦巻き状のロリポップを舐めている。雪織と五番目は彼の両隣に座った。
「お疲れ様。とってもすごかったよ、きみ達の空中ブランコ」
「最後の演技には息が止まりそうになったぞ」
それを聞いてカミルは口からロリポップを離すと、きゅっと唇を真一文字にした。しばらく三人の間に沈黙が流れたが、カミルは小さな声で言った。
「ありがとう」
ロリポップを握っていない左手がかすかに震えている。それに気づきながら、雪織と五番目は何も言わずにカミルをじっと見つめた。
「二人のおかげだよ。今夜ぼくがキリク達と一緒に空中ブランコを披露できたのは、雪織と五鈴のおかげだ。きみ達が奇跡を起こした。絶対に。間違いない。今でも、信じられないけど……すごく嬉しいんだ」
雪織は右手を伸ばし、カミルの頭に乗せた。すると同様にしていた五番目の左手と触れ合った。そのことに一瞬戸惑った後で笑みを零し、二人はカミルの頭を優しく撫で回す。カミルは最初わずかに身動ぎをしたが、それを拒絶することなく照れ臭そうな顔でまたロリポップに舌を這わせた。




