十七、夏至祭
「ふうん。小さな島での祭りにしては、存外賑わってるな」
目の前の人混みを見て、感心した様子で呟く母に雪織は相槌を打つ。
「この夏至祭の日を狙って外から猫窟島に来る人がいるらしいからね」
六月の第三土曜日。現在の時刻は午後七時を過ぎている。猫窟島の夏至祭では、小さな神社を拠点として方々に屋台が犇めき合っていた。中でも境内に続く通りの活気ぶりは最たるもので、通りに面した普段公園として利用される広場には櫓が設えてある。地に面した下段の他に中段、上段と板床を作り上げた三階式になっている立派なものだ。広場のすぐ横には小規模ながらもお化け屋敷までが設置されている。
行き交う人々を引き止めるべく、屋台から呼び子の声が引っ切りなしに耳に届く。どこからか太鼓と笛を使った軽快な音楽が鳴り響き、それ以上に人々の笑い声や子供の泣く声が聞こえてきて、雪織はその熱気に気圧されながらも高揚感を覚えていた。
「ほら、行って来い」
どん、と母に背中を押され「えっ」と雪織はつんのめり、慌てて振り返る。浴衣と合わせた下駄――履き慣れていなくても足が痛くなりにくい、藤色で太目の鼻緒と軽い桐の台を使ったものが、からん、と音を立てた。
「母さんは?」
「いい詩やエッセイが書けるように、適当に歩き回ってるよ。雪織は自由に行って、自由に買って、帰りたくなったら一人で帰りな。鍵は持ってるだろ」
そう言うなり母は娘を放って、さっさと人混みの中へ消えていった。
どこまでもマイペースな母だと若干呆れつつ、雪織は犇めく屋台をゆっくりと見て回ることにした。屋台は所狭しと立ち並び、その内容は実に様々だ。食べ物を取り扱う店だけでもたこ焼き、林檎飴、カステラ、揚げ物、かき氷、チョコバナナなど多岐に渡る。祭りならではの食べ物が多く存在するが、値段も祭りならではの相場であるため、その場の勢いに呑まれず慎重に選ばなくてはいけない。雪織は自分に言い聞かせた。
「ねえ」
フルーツ飴を売る屋台の前で立ち止まっていたところ、不意に横から肩を叩かれた。
「あ。やっぱり雪織だ」
「雪ちゃんも浴衣借りたんだ? それ、すごく似合ってるよ」
藍色の生地に赤い金魚が泳いでいる浴衣を着た雉居と、淡い空色の生地に紫紅色の芍薬が咲いた浴衣を着て髪を結い上げている浅倉がいた。その手には綿菓子とかき氷がある。
「ありがとう。雉居と浅倉もあの呉服屋で借りたのか」
「ううん。私はもう去年から買ってたんだよ」
「借りたのは私。ところで雪織、林檎飴買うの?」
「うん。でも、どっち買おうか悩んでて」
雪織の視線は再び、普通の林檎と変わらない大きさの林檎飴と小さな林檎飴に向かう。
「それなら断然大きい方だって」
「うん。大抵は大きい方を選ぶよ」
そう言って二人はその林檎飴を一つずつ買った。
「ちょっと食べ辛いけど大きい方がお得だし、味もいいの」
「ちなみに飴と林檎を同時に味わいたいなら、家で切ってから食べるといいよ」
雪織は素直に二人の意見を聞き入れ、大きい林檎飴を一つ買った。林檎の中心を貫いている割り箸を握ると、想像していたよりも重いことがわかる。
「あっ、あそこにいるのって五鈴じゃない?」
「ほんとだ」
二人が指差す方向には、四人の男女と一緒に串焼きを買う五番目の姿があった。人混みの中でも長身の彼は目立っている。
「行ってみようよ」
「ほら、雪ちゃんも」
「え……ま、待って」
二人に急かされ、雪織は流されるようにして串焼き店の前に出た。そこにいたクラスメイト達は普通の私服を着ている者だけでなく、浴衣や甚平を着ている者もいた。五番目は濃灰色で裏勝りの甚平を着ている。彼はすぐ三人に気づき、片手を上げた。
「今年は三人、皆浴衣か。よく似合ってる」
「ありがとう。五鈴も今年は甚平なんだね」
「ああ。せっかくだし、皆で一緒に回ろうぜ」
その言葉に誰も反論などしなかった。それどころか初めて夏至祭に訪れた雪織のため、各々が気に入っている屋台に彼女を引っ張っていく。やがて一時間が過ぎる頃には雪織の手持ちは増え、空は藍色の天鵞絨を敷きつめたようになった。屋台に取りつけられた橙色の提灯だけが辺りを照らし出す。
「結構いいだろ。ここの夏至祭」
五番目が言った。練乳のかかった苺味のかき氷を食べる手を止め、雪織は頷く。
「わたしは祭りに行ったことがほとんどなかったけど、すごくいい」
「祭りってのは大概一年に一回だけだからな」
「この一週間後には試験が迫ってるからね。今楽しんでおかないと」
「おい。それは言うなよ」
「五番目はいいじゃないか。成績高いんだから――わっ」
「どうした」
雪織の声に、五番目だけでなく先を歩いていたクラスメイトも反応した。
「今、何かよくわからないけど柔らかいものが足を擦っていった……右の踝に」
すると全員はすぐ得心したように「ああ。なるほど」と言った。
「雪織。そいつは猫だ」
「え、猫?」
止めかけた足を再び動かしながら、五番目は続ける。
「いるんだよ。大抵は野良猫だけど、飼い猫も混ざって夏至祭に参加する。皆屋台の人達に強請ったり、落ちた食べ物を狙ってるんだ。だから皆ごみを捨てないよう心がけてる。今日余所から来たばかりの人達はどうか怪しいけど」
「でも、こんな人混みの中だったら猫が怪我しない?」
「ああ……毎年一匹か二匹は尻尾踏まれたり軽く蹴られたりした猫が出てくるぜ。一番ひどかったのは余所から来た人が煙草を捨てて、それが偶然猫の背中に落ちたことだ」
「確かにあれはひどかったよな」
「うん。あの野良猫、火傷は治ったけどそれ以来夏至祭に来なくなったんだよね」
「警戒してるんだろうな」
そのうち金魚すくいを始めたクラスメイトだったが、雪織と五番目の二人は「我が家では飼えないから」と参加しなかった。次第に金魚の数を競うように白熱し出す彼らを眺めていた雪織は、五番目だけに聞こえるように訊ねた。
「五番目。ケット・シーの人達はこの祭りに来ないの?」
「いや、それなりに来てると思う。もしかしたら何人かとすれ違ったかもしれないな」
「カミルとかキリクさんも、もう来てるのかな」
すると五番目は辺りをきょろきょろと見回した。
「そう言えば、全然見てないな……。昨年も一昨年もこの時間までには来てたのに」
怪訝そうに眉をひそめる五番目を横目で窺いながら、雪織は器の底でジュースになっていたかき氷をストローで吸い切った。
「わたし、今からごみ捨てに行ってくるから皆は先に進んでて。すぐ追いつくよ。何かいらないものがあったら、ついでに捨ててこようか」
「いいの? じゃあお願いしようかな」
「ごみ捨て場は水風船の店の裏にあるけど、ちょっと遠いよ」
「ありがとな。俺ら、あといくつか店回ったら櫓のある公園行ってるから」
「わかった」
雪織は彼らから受け取ったペットボトルやプラスチック容器などを空き袋に集め、人混みの流れを横切るようにして道を外れた。境内に続く通りを外れるだけで、提灯の明かりが遠くなる。水風船売り場の裏にあるごみ捨て場まで向かった雪織は、自分のすぐ後ろに五番目が立っていることに気づいて驚いた。
「どうしたの」
「あ、ごめん。驚かせたか」
「それは別にいいけど。何か捨てに来たわけじゃないよね」
「ああ。今からケット・シーに行こうと思って」
「……それはまた、突然」
雪織は一瞬目を大きく見開いてから、ゆっくり息を吐き出すようにして言った。五番目はそんな彼女に対して口角を上げてみせる。
「もちろん、雪織が今から祭りに戻ってまだ店を回っていたいなら気にせず断ってくれ」
「何か目的があるんだろう。聞かせてよ」
「カミルがいないのはおかしい。あいつは夏至祭が好きだから必ずいるはずなんだ。それも決まって俺のところに来る」
「でも今日は来なかった」
「そう。ちょっと心配だから行ってみようかと思ってな」
相変わらず友達思いな五番目に雪織の口元は綻んだ。
「じゃあ、カミルのために何か夏至祭のお土産でも買って行こう」
「ああ」




