十六、二人の心配
「失敗したかな」
バスの中で揺られながら、雪織は小さく呟いた。猫窟島に訪れる前の彼女は他人に対して関心をほとんど持たず、自分自身が関心を持たれることもなかった。当然他人の兄弟関係に口を出したり、これほど頭を悩ませたりしたこともない。
どうすればカミルと彼の兄弟が仲良くなれるのだろうかと考えてはみるものの、今までそのようなことを一度も考えたことがないためか、いい案が全く浮かんでこない。そうしているうちにバスが停まり、雪織はいつも通り運転手に礼を言って降りた。
「雪織」
家に向かっている最中後ろから聞き覚えのある声がかかり、すぐに雪織は振り返った。自転車に乗った五番目がブレーキを効かせ、彼女のすぐ隣で停止する。
「ケット・シーからの帰り?」
「うん。そう」
「…………それにしては似つかわしくない顔してるけど、何かあったのか」
「どんな顔に見える?」
「なんか、難しそうなこと考えてるって感じの顔だな」
雪織はやや逡巡していたが、自分より早くからカミルと親しい五番目に質問した。
「五番目はカミルと彼の兄弟について、知ってるんだよね」
すると五番目は一瞬目を見開き、苦笑に近い表情を浮かべた。
「ああ。あいつの兄弟には全員会ってるし、生い立ちのことも聞いた」
「実は今日、広場のところでカミルがキリクさんと喧嘩したんだ。怪我するくらい、激しい喧嘩で……ちょっと怖いと思うくらい」
それを聞くと五番目はわずかに眉を寄せた。
「でも、止められなかったんだろ。あそこの住人はほとんどが喧嘩を面白がる性質だ。それに、無理に止めたら逆にカミルの機嫌を損ねる」
「似たようなことをダイヤさんに言われたよ」
「雪織はあいつらの仲が放っておけないんだろ」
心を見透かしたかのような五番目の言葉に、雪織は目を瞬かせた。
「どうしてわかったの」
「だって、俺も長い間全く同じこと考えてたんだから」
そう言って五番目は笑った。雪織は自分と同じ考えを持つ相手がいたということに心から安堵し、つられたように笑みを浮かべる。
「わたしはカミルとキリクが何故喧嘩したのか、よくわからない。どうして父親が違うだけで、あんな喧嘩をするくらい仲が悪くなるのかな。家の事情がそんなに厳しいものなのかもしれないけど、それでもやっぱり個人の考えは別だと思う」
「俺もキリク達がカミル本人を本気で嫌ってるとは思えない。カミルも自分が疎まれてるからって反発してるみたいなものだろ。きっとあいつらがいがみ合う理由なんて、あるようで実のところはないんじゃないか。……けど、本人達はそう簡単に割り切って考えることができないんだ。世の中が善悪で分けられるほど単純じゃないように、カミル達の心だって俺達が考えるよりずっと複雑だろうな」
天を仰いだ五番目に雪織は頷く。
「わたしは、カミルのことがちょっと羨ましいのに」
「何が?」
「兄さんや姉さんがいること。たとえ父親が違っていて、目の色が片方違っていても、かけがえのない家族だろう。わたしが一人っ子だからそう思うだけかもしれないけどね」
「わかる。俺も一人っ子だから、兄弟に憧れるよ」
そこでふと何かを思い出したかのように五番目は雪織に訊ねた。
「そう言えば雪織、ケット・シーのサーカスには行くつもりなのか。開催されるのは七月の第一日曜日、午後八時からだぜ」
「チケットを買うのは難しいって聞いてたから、どうしようか悩んでる」
「チケットならカミルが用意してくれるぜ。あいつもサーカスに出るからな」
雪織は以前コリンから聞いた話を思い出す。彼は《仕立屋ゴクサヰシキ》で仕立てた衣装を着て、演目の花形である空中ブランコを披露するんだと誇らしげに語っていた。
「もしかして、カミルも空中ブランコに?」
「本人はずっと前からそれを希望してるんだけどな」
そう言って五番目の顔は苦々しいものに変わる。
「空中ブランコは一番最後の演目。大本命の花形だ。それを披露するのはケット・シーでも名うての軽業師――キリク、ケイラ、コリンの三人だけ。カミルはデビルスティックとかディアボロとか、そういう前座的なものばかりでしかサーカスに出れないからってサーカスの日が近づくたびに嘆いてる。自分だって空中ブランコができるくらいの身体能力はあるのに、キリク達が嫌がらせのつもりで披露させてくれないって言ってたぜ」
それはもしかすると、空中ブランコという演目は披露する際に大きな危険が伴うからなのではないだろうかと雪織は思った。末っ子のカミルを危ない目に遭わせないため、という兄や姉の気持ちが歪んで伝わっている可能性はある。
「でも、カミルが披露するデビルスティックやディアボロもすごく面白いんだ。よかったら、一緒に見に行かないか?」
「うん。ただ、それより前に夏至祭があるね。その後に期末試験、サーカスか……」
「こうもイベントに挟まれてる期末試験なんて、そうそうないんじゃないか」
「初めてだよ」
笑いながらそう返し、雪織は五番目と別れて帰宅した。一週間ほど前に母が和菓子から入手したらしい夏至祭のチラシを手に取り、その開催時刻を確認する。猫窟島の六月の第三土曜日の夜と第三日曜日に夏至を祝う夏至祭が開催される。観光名所のようなものもなく、ただぽつんと存在するだけに見える猫窟島だが、この時期は夏至祭の日を狙って島の外から訪れる人がいるのだと、クラスメイト達は言っていた。
「…………カミルも来るのかな」
「雪織、帰ってたのか」
ぽつりと呟いた雪織は、突然居間に入ってきた母に驚いた。手に原稿が握られていることから、現在作成中だった詩が書き終わったところなのだろう。
「ああ。夏至祭に行きたいのか」
「せっかくだからね」
「お前は今まで祭りに行ったことがほとんどなかったからな。……そう言えば、確か商店街に呉服屋があったな。そこで浴衣でも借りてみるか」
「母さんが?」
「馬鹿。雪織のに決まってるだろ」
母の勢いに押されるようにして、雪織は翌日に呉服屋を訪れた。そこには同じ目的らしいクラスメイトの少女が数人いて若干の気恥ずかしさを感じたが、母は店員から話を聞きながら所狭しと並んだ浴衣に次々と手を出していく。派手な色と柄を勧めてくる母に辟易しながら、雪織は周囲の少女が主に花の模様を選んでいることに気づいた。しかし一口に花の模様と言っても、浴衣に描かれる花は季節問わず様々だ。
「娘さんは落ち着いた色合いが好まれるようですね。こちらは、どうでしょうか」
母よりも年上の女性である年配の店員がそう言い、用意してきた浴衣を見て雪織はほうと息を吐いた。黒地の浴衣には淑やかな藤の花と涼しさを醸し出す雪輪の柄があしらわれ、合わせる帯は薄い灰色だ。それを見て「綺麗だけど、ちょっと地味じゃないのか」と口を出す母を無視して、雪織は試しの着付けをしてもらった。すぐ隣では牡丹の花をあしらった紺色の浴衣を着付けてもらっている少女がいて、目が合った二人は自然と微笑む。
「浴衣が落ち着いていますからね。その分可愛らしい結び方にしましょう」
花文庫に結ばれた帯を鏡に映し、雪織の心は決まった。
「これがいい。素敵だ」
自分好みの浴衣を着せられなかったためか、それとも一着の服で喜ぶ娘の姿に内心戸惑っているのか、母は苦笑しつつも頷いた。




