十五、カミルの家族事情
カミルは雪織の差し出した手を掴もうとしたが、その手が地面で擦れたことにより皮が剥け、血が滲んでいることに気づいた。ばつが悪そうな表情で手を引っ込め、自力で立つ。
「二人とも、ちょっとそこで待ってなさい」
不意に声をかけてきたのは、まだ広場に残っていたダイヤだった。
「今から手当てに必要なもの、持ってきてあげるわ」
言いながらダイヤは踵を返し、店のある方向へ去っていく。
「カミル。ダイヤさんが戻ってくるまでに傷口を洗わないと」
カミルは辟易するような顔になったが文句は言わず、まず最初に両手を噴水の水に浸した。そして顔や腕、足の傷口を一通り洗っていく。ほどなくしてダイヤが救急箱を手に戻ってきた。中にはピンセット、鋏、脱脂綿、絆創膏、ガーゼ、包帯、湿布、白色ワセリン、植物らしきものを詰めた壜が入っている。しかし消毒薬が見当たらない。
「ダイヤさん。消毒用の薬はないんですか?」
「ああ、それなら」
ダイヤは救急箱の中から取り出した壜を開けた。そこに詰め込まれた、どこか見覚えのある植物らしきものに雪織は目を凝らす。
「止血作用がある蓬の葉よ。市販の消毒薬は雑菌を殺すけど、その分傷口の細胞も殺してしまうからあまり使わない方がいいの」
その後雪織はダイヤから指示を受けながら、カミルの手当てをした。不機嫌そうなカミルの右頬にある擦り傷には白色ワセリンを塗って絆創膏を、左頬にある痣には小さく切った湿布を張っていく。盛大に擦り向いていた膝頭は一度水で洗った傷口からまた血が流れ始めていた。ダイヤが蓬の葉を絞った汁を垂らし、さらに新しい葉をその上にかぶせ、ちょうどいい大きさの絆創膏がないため包帯を巻く。
「はい、終わり」
「…………ありがと」
「雪織ちゃんにも礼を言いなさい。それにちゃんと顔を見て。正直あたしは雪織ちゃんがいなかったらあなたのことなんて気にせず帰っていたわよ」
そっぽを向いていたカミルは渋々雪織に向き合い、小さな声で礼を述べた。
「ありがとう」
「どういたしまして。できればもうあんな喧嘩はしないでほしいんだけど」
「それはやだ」
ぶっきらぼうなカミルの返答に雪織は嘆息した。ダイヤは壜入りの蓬や絆創膏を救急箱に片付けながら、くすくすと笑みを零す。そのまま三人は並んで噴水の縁に腰掛け、先ほどの喧騒が嘘だったかのように穏やかに行き交う人々を眺めた。
「あの人……天さんから聞いたけど、お兄さんなんだって?」
「そうだよ。あれは長男のキリク。ケイラとコリンの兄」
「四人兄弟なんだね」
以前から引っかかっていたことが、ようやく腑に落ちた心地で雪織は呟く。
あの日《仕立屋ゴクサヰシキ》にいたケイラとコリンはカミルの姉と兄だった。確かに容姿や雰囲気は似ていた。彼らとキリクの三人は末っ子のカミルと不仲であるため、陰口を危惧したカミルは自分のことを何か言わなかったかと雪織に質問したのだろう。
「どうしてあんな喧嘩するくらい仲が悪いんだ」
「父親が違うからさ」
カミルの言葉に雪織は思わず口を噤む。
「ぼく達の母親はいいところのお嬢さんで、元から決められていた男と結ばれてキリク達を産んだ。でも、あるとき周囲の手違いが発生して――そいつらが言うには事故だったらしいその手違いで、彼女はどこの馬の骨とも知らない見知らぬ男と交わってしまい、予定外の子供を孕んだ。堕胎は可能だったけれど、母体が危なくなる可能性が高いと周囲から言われて、誰にも歓迎されることなく産み落とされた。それがぼくなんだよ。……四つ子だったらしいけど、他の子は全員すぐに死んだって」
カミルが淡々と他人事のように話す内容を、雪織とダイヤは口を挟まず聞いている。
「ヘテロクロミア自体はそこまで珍しいものじゃない。だけど、ぼくの場合は実父が青い目をしていたらしいからね。その血のせいだとか言われて兄弟からは疎まれてるんだよ。そもそも母親の家は、黒髪と黄金色の目っていう血統を守っていたんだ。……せめて右目の色が同じだったら、そこまで仲が悪くなることはなかったんじゃないかな」
そこでカミルは言葉を区切り、ダイヤに声をかけた。
「ねえ、ダイヤ。その救急箱の中に眼帯ない?」
「さすがにないわよ」
小さく舌打ちをしたカミルに雪織は訊ねる。
「その右目、見えてないってわけじゃないのか」
「うん。別に視力が悪いわけじゃないけど、やっぱり好きじゃないからね」
「でも、隠すのはもったいないと思うよ。そんなに綺麗なのに」
「はっ?」
カミルは目を瞬かせて素っ頓狂な声を上げた。
「こんな青い目が、綺麗だって?」
「宝石みたいでとても綺麗だよ。左目の色に負けないくらいにね」
そんなことは初めて言われたという表情で、カミルは狼狽していた。ダイヤの堪えようとしない笑い声が雪織の隣から聞こえてくる。
「笑うなよ、ダイヤ」
「だって、雪織ちゃんがあんまり可愛いこと言うんだもの。あなたがあれだけ不安に思っていて、嫌っていたその右目を宝石みたいだなんて」
そう言われた雪織は、もしかしたら自分は相当恥ずかしいことを言ってしまったのではないかと思い、俯いた。するとダイヤが少し慌てたように両手を振る。
「ああ、気を悪くしないで。もちろん馬鹿にしたわけじゃないのよ。雪織ちゃんはとても素直で、感受性が豊かな人なのね。カミルと仲良くやっていけてるのがわかるわ」
「もう行こうよ雪織。《ロンド》のドーナツを食べたい」
「うん。……それじゃあダイヤさん、さよなら」
「ええ、またね。二人とも」
さっさと歩き始めるカミルの後ろを追い、雪織は広場を離れて《ロンド》に向かった。ガラスの箱じみた店に入ると、ちょうどいい具合に空調が効いていた。雪織とカミルはカウンターではなく二人掛けの席に着いてウェイトレスに注文する。
「ドーナツ二つとチェリーエードを」
「ぼくはドーナツ三つとカフェ・オ・レをアイスで」
ウェイトレスが去った後、雪織はすぐ近くの席に座る紳士風の男が、運ばれてきたばかりのドーナツを指で半分に千切っている様子を見た。そして男は片方には蜂蜜を、もう片方にはオレンジのマーマレードをつけて食べ始める。
「きみがきっかけで、あの食べ方が流行ってるんだよ」
カミルの言葉に雪織は驚いた。
「本当に?」
「ああ。ちょっと節約がしたいけどドーナツを食べたいってときにはぴったりなんだ」
おもむろにカミルは半ズボンのポケットからシガレットケースを取り出した。てっきりいつも通り《春季》が入っているのだと思い込んでいた雪織だったが、蓋を開けたシガレットケースの中には《春季》の桜と一緒に小さな薊の花が並んでいる。
「それは、薊だよね」
「もちろんただの薊じゃない。花煙草の《夏季》だよ。一応買っておいたんだ」
言いながらカミルは一本の《夏季》を手に取った。棘は本物のように存在していたが、触れても痛くないらしい。彼はわずかな躊躇いの後に茎の先端を銜え、ライターで火をつけた。そして吹かすことわずか三秒ほどで口から茎を遠ざけた。軽く咳き込む口から出てきた白い煙は雪織の鼻にも届き、悪臭ではないながらもつんとした薬っぽさが香る。
「ああ、やっぱり慣れないな。……雪織も吸ってみるかい」
「試してみる」
カミルに手渡された《夏季》を銜え、雪織は淡い紫色の花弁に火をつけてもらった。慎重に吸い込んでみると、かすかに舌にぴりっとした痛みや辛味にも近い刺激を感じる。《春季》よりもあっさりとした甘い香りの中に薬品じみた香りも混ざっていた。薬湯の水蒸気じみたその煙が肺を通ると、途端に噎せてしまった。
「大丈夫?」
「う、うん。カミルの言ってた通り、なんだか刺激が強いね」
雪織は最初の一吸いで花煙草をやめると、テーブルに備え付けられていた花煙草用の皿に吸いかけのそれを置いた。カミルは若干苦々しい顔でそのままゆっくりと吸い続けていたが、ドーナツと飲み物がウェイトレスによって運ばれてくるなり《夏季》を手放し、陶器のボウルに注がれたカフェ・オ・レをごくごくと飲み始める。
「やっぱり花煙草は《春季》が一番いい。その次が《秋季》」
そう言ってカミルはドーナツを千切り、カフェ・オ・レに浸して口へ運んだ。雪織は桑の実ジャムを塗ったドーナツを食べながら、先ほど見たカミルとキリクの激しい喧嘩を思い出していた。一人っ子の雪織には兄弟姉妹と喧嘩をした経験など当然ない。ましてや父親が違うことで疎まれ、不仲になっているカミルに何か共感できるかと問われれば否だ。それども雪織は、彼らの軋轢を気がかりに感じていた。胸の中にざらざらとした砂利が詰まったような、妙な不快感も。
「ねえ、カミル」
二人ともドーナツを平らげ、飲み物も残りわずかになって雪織が言った。
「きみにとって嫌な話題に戻すようで悪いんだけど、その……キリクさん達とはこれから仲良くしようとかは思わないのか?」
声をひそめるようにして言ったその内容に、たちまちカミルの表情は曇った。
「どうして、そんなこと」
「確かにこんなことわたしが口を出すべきことじゃないって、わかってるよ。ただ、ちょっと……カミルもキリクさんも、なんだかつらそうだったから」
「あいつがつらそう? あの三兄弟の中でも一番ぼくを迫害するような奴だよ。きっとあいつはぼくが明朝いきなり車に撥ねられたとしても、鼻で笑うだけさ」
「本当にそう思ってるのか」
雪織がじっとカミルを見つめると、彼は無言でカフェ・オ・レのボウルを口につけた。
「一人っ子のわたしには、正直きみのところみたいに異父兄弟が三人もいる家庭環境なんてよくわからない。どれほど居心地が悪いかなんて想像もつかないよ。でも、四人とも母親の血が繋がってることに変わりはないだろう。それなのに父親が違うだけで仲が悪いなんて、なんだかすごく悲しいことなんじゃないかな」
沈黙しているカミルの手は、とうに中身を飲み終えたボウルを弄んでいる。黄水晶と青金石の双眸は下を向いたまま軽く伏せていた。肌に気まずい空気をひしひしと感じつつ、伝えたいことを言い切った雪織は無意識に溜め息をついた。
「それじゃあ、またね」
「うん」
その後《ロンド》を出た二人は他の店に立ち寄ることもなく、言葉少なに別れた。




