十四、喧嘩
猫窟島はすぐに梅雨入りして、湿気の多い日が続くようになった。それでもたまに目が覚めるほどの青空が広がり、真夏のような強い日差しが降り注ぐ。
せっかく晴れたのだから、と雪織は土曜日の午後にケット・シーを訪れた。しかし普段は石畳の道をのんびりと行き交う人々が、この日は皆どこかそわそわとした様子を見せている。どうやらある方向へ急いでいるらしい。不穏とまではいかないが、どこか落ち着きのない空気がケット・シーの住人を取り囲んでいるように思えた。
「おや、雪織じゃないか。一ヶ月ぶりってところかな」
不意に雪織の近くを通りかかった少年が足を止め、話しかけてきた。濃灰色の短髪にエメラルドグリーンの虹彩を持つ目には眼鏡をかけている。白衣を着て大人っぽい雰囲気があるものの、その年恰好は十六、七歳くらいだ。以前雪織が初めて五番目とカミルと一緒にケット・シーを巡り歩いたとき、彼は天文台で天文学者の助手として働いていた。
「天さん。こんにちは」
「今日は五鈴と一緒じゃないんだな」
「ええ。今日は一人で来ました。それにしても皆さん、どこに向かってるんですか?」
「ああ、そうだ。こうしちゃいられない」
そう思い出したように言って、天は止めていた足を再び動かし始めた。雪織は彼を見失わないようについていく。
「何かあったんですか?」
「そうだよ、あったんだ」
「それって」
「喧嘩さ!」
なんですか、と雪織が訊ねるよりも先に天は興奮気味に言った。
「しかもカミルとその兄貴が」
「え……」
その言葉に、一瞬呆気に取られる雪織。やがて天が足を止めた場所は時計塔の前にある広場だった。すでに多くの人が集まっている。彼らが遠巻きにして視線を向ける先には、黒いタンクトップの上から七分袖の白いオフショルダーを着て、碧瑠璃の半ズボンを履いたカミルがいた。そしてもう一人、カミルに似た雰囲気のある青年が向き合っている。てっきり雪織は相手がコリンだと思い込んでいたが、その青年はコリンとは別人だった。
「兄弟同士の喧嘩なんて、そうそう見られない。皆面白がってるんだよ」
「面白がる、って」
確かにどこか気分が高揚している様子の群衆を見回し、次に雪織はカミルと向かい合う喧嘩相手を見た。髪や瞳の色はケイラやコリンと同じだが、あの二人よりも冷たく鋭い印象がある。無表情の顔から推測すると年齢は二十歳前後くらい。ゆったりとしたひだが特徴的なドレープシャツはとろりとした艶を放つ黒で、半袖から露出する両腕は比較的細いが筋肉はついている。黒革のベルトで締めたアイボリーのカーゴパンツを履く両脚はすらりと長く伸びていた。身長はカミルと比べて頭一つ分以上高い。どう見ても、華奢なカミルよりも体格がいいその相手が喧嘩に有利ということは明らかだった。
「天さん、これって……遊びですよね?」
「何を言ってるんだ。二人とも本気に決まってるだろ」
そこで天は突然何かに気づいたように、はっとして雪織を見つめた。
「そうか、きみはまだ聞かされていないんだな。カミルはちょっと生い立ちが複雑で、兄弟と仲が悪いんだよ。特にあの一番上の兄――キリクは末っ子のカミルを本当に毛嫌いしてる。今の今まではお互い無関心な素振りをしていたみたいだったが」
言葉を失った雪織は再び、カミルとキリクに目を向ける。
刹那、カミルの姿が消えた。
「えっ」
驚いた雪織が瞬きをして次に目を開いたとき、音も立てず跳躍したカミルの右膝がキリクの顔面に突き刺さりそうになっていた。すかさずキリクがその膝を左腕で受け止めつつ、そのまま右足を取ってカミルを投げ飛ばした。
「カミル!」
思わず声を上げた雪織だったが、カミルはくるりと空中で回転し、着地した。彼はその体勢のまま地面を弾くように蹴ると一瞬のうちにまた距離を詰め、回し蹴りを仕掛ける。キリクは軽くあしらうように一歩下がり、紙一重でかわした直後に踏み込んだ。カミルの右肩を挟み一本背負いのように投げ飛ばそうとする。だが宙に浮いている間に身体を捻り、素早く腕を抜くことに成功したカミルはキリクの肩に片手を置き、左腕一本での逆立ち状態から相手の背中目がけて蹴りを入れようとした。しかしそれはキリクが後ろに回した右腕で防がれ、再び投げ飛ばされた。今度は受け身が取れずに地面を転がる。
がりがりがり、とカミルの服がざらついた地面を擦る音がした。群衆がどよめく。キリクは仮面のような無表情のまま、まだ地面から立ち上がっていないカミルに近づくと腹部に蹴りを入れた。息を詰まらせ咳き込むカミルの胸倉を掴んで持ち上げると、地面から足を浮かせた彼の表情が歪む。
「カミル――」
「駄目よ」
思わず広場の中心へ飛び出そうとした雪織だったが、いつの間にか後ろに立っていた《風信子堂》のダイヤに肩を掴まれる。
「ダイヤさん……。あのままだと、カミルが危ないですよ……!」
周囲の人間は天を含め、先ほどよりもかなり色めき立っている。誰もが歓声を上げるばかりで、飛び出して二人の喧嘩を止めようとする者は一人としていない。
「ここがこの界隈では普通なのよ。雪織ちゃんには受け入れがたいかもしれないけど」
ダイヤはそこで少しだけ苦笑した。
「ここだと喧嘩の強さで全てが決まることもよくあるの。男は特にね」
「でも、カミルがひどい怪我を」
「先に喧嘩を仕掛けたのはカミルよ」
肩に置いた手の力を強め、きっぱりと言ったダイヤに雪織は絶句する。確かにカミルはやや強気な性分で、初めて出会ったときも雪織に喧嘩を仕掛けようとした。しかしキリクのような体格からして明らかに相性がよくない相手に、彼から喧嘩を仕掛けたということに雪織は耳を疑った。カミルはそこまで無鉄砲な考えを持つようには見えないが、現状を見る限り勝算があるようにも思えない。そもそもカミルは右目が見えない分、圧倒的に不利だ。
「それに今あの喧嘩を止めたら、キリクはともかくカミルにとっては恥になるわ」
「そんな」
そのとき、突然わあと大きな歓声が上がった。とっさに振り返った雪織の視界に、地面にうつ伏せたカミルが飛び込んでくる。キリクは億劫そうに口を開いた。
「お前は馬鹿か、カミル。今まで俺達に喧嘩で勝ったことなんてなかっただろう。それなのに今さらこんなことをして、お前は自ら醜態を晒して喜ぶような奴だったのか」
カミルは顔を地面に伏せているままで、何も言わない。もしかしたら気を失っているのでは、と雪織は焦燥感に駆られる。
「劣等種は劣等種だ。お前は俺にも、ケイラにもコリンにも勝てない。今までも、これからもだ。それがわかったら二度とこんな真似をするな」
ついさっきまで興奮していた群衆はすでに決着がついた喧嘩に興味をなくしたようで、散り散りに去っていく。集まっていた人間の半数以上がいなくなった頃、ようやくダイヤの手が肩から離れると雪織は弾かれたように飛び出した。
「ああ、あんたか」
キリクの目が、二人のもとに駆け寄った雪織を映した。初対面であるはずの彼に、まるで顔見知りのように声をかけられた雪織は戸惑う。しかしキリクはそれ以上何も言わず、最後にカミルを一瞥すると風のように去っていった。
「カミル、大丈夫か」
すぐさま雪織がカミルの肩を掴んで揺さ振ると、彼の指がぴくりと動いた。雪織が揺さ振る手を止めると、カミルは両手で地面を突き、膝を折り曲げた四つん這いに近い体勢で顔を上げた。喧嘩中に外れたらしい眼帯がはらりと落ちる。
「え……っ」
思わず雪織は息を呑んで、カミルの顔面を凝視した。赤紫色の痣よりも、血が滲む擦り傷よりも、初めて見た彼の右目に雪織は驚いた。
冴え渡るような青色の虹彩を持つその右目に。
「…………その、目」
雪織の驚きを隠せない表情にカミルは力なく笑った。
「隠してたけど、ぼくは劣性遺伝のヘテロクロミアなんだ。生まれたときからずっと、こう。この目の組み合わせが外見上ぼくと兄貴達とのはっきりとした違いになっている。父親が違うから、こんな色に生まれたんだって言われたよ。馬鹿みたいだろ」
早口で言い切って再び眼帯を手に取るが、耳にかけるゴムが切れて使えなくなっていることに気づき舌打ちをする。雪織はカミルの気を悪くさせないようにと右目から自分の意識を逸らそうとしたが、どうしてもその左右色違いの虹彩を見つめてしまう。
「とりあえず、傷の手当てができるところに行こう」
するとカミルはとても嫌そうな顔をした。それは幼い子供が怪我をしたとき、沁みるからと言って消毒を嫌がる様子に似ている。
「別に必要ないよ。唾でもつけとけばすぐ治るんだから」
「行くよ」
雪織がはっきりと言うと、彼は観念したようだった。
「…………うん」




