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猫窟島のケット・シー  作者: 手這坂猫子
第三章 イヌハッカ
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十三、川遊び

 日曜日の朝、雪織が家を出るとちょうど向こうから自転車で近づく五番目の姿が見えた。自転車の籠からはカネット壜が三本、顔を出してカタカタと鳴っている。

 六月を迎えるまで穏やかだった気候はこの日から突然強烈な夏日となり、島中の景色と空気を炙り始めている。五番目の服装も、襟を開いた白い半袖シャツ――海軍を意識しているのか胸元には錨が刺繍してある――と濃紺の七分丈ズボンという涼しげな印象を感じさせるものだ。彼は雪織の前で片足を地面に着け、右手を軽く上げた。

「おはよう」

「おはよう。五番目」

 五番目は後部荷台に座るよう雪織に言った。見ると大きめの後部荷台には、人を乗せる際の配慮なのかゴムの荷紐がぐるぐると巻かれている。

「二人乗りは禁止されてるよね」

「飲酒や喫煙ならともかく、自転車の二人乗りに目くじら立てるような大人はいない。少なくとも猫窟島にはな。それに走るのは坂もカーブも砂利もない道だから」

 もしここで雪織が頑なに二人乗りを拒んだとしても、きっと五番目は機嫌を悪くすることなく自転車を片付けて徒歩で案内し始めることだろう。しかし友達ならば規則違反の共犯になることも珍しくない。雪織は後部荷台に横向きで座り、持っていたバスケットを膝の上に置いた。右手は昼食が入っているバスケットを支え、左手は荷台の端をしっかりと掴む。跨った方が安定するだろうと雪織は思ったが、この日はスカラップの二枚襟が目立つ白いワンピース姿のため横向きを選んだ。

「それじゃあお客様、どちらまで?」

「運転士さんの行きたいところまで、よろしく」

 二人は一拍の間を置き、同時に笑い出した。五番目が地面に着けていた片足をペダルに戻し、同時に踏み込む。途端にそれまで感じなかった風が髪を揺らし、頬や首筋を撫でる心地に雪織は思わず声を上げたくなった。元々身体能力が高い五番目は二人乗りの運転者として経験があるらしく、自転車は安定した動きで道を進んでいく。時折歩行者や自動車を見かけるたびに雪織は後ろめたい気分になったが、相手は特に気にしていない様子で注意することも無言で迷惑そうな目を向けることもなく、そのまま通り過ぎた。

「二人乗りなんて、初めて」

「へえ。気分はどうだ?」

「最高。風が気持ちいいね」

「それはよかった」

 二人を乗せた自転車は民家の数がまばらになっているところに入った。雪織にとっては見慣れない道を進むうちに、民家の数は徐々に減っていく。やがて鬱蒼とした雑木林を背負って建つ、入母屋の小さな寺院が見えてきた。そこで五番目はスピードを落とし、寺院のすぐ手前で自転車を停めた。

「ここからは歩いて、あの林の中を通るんだ」

「どれくらいかかる?」

「五分くらいで着くはず」

 雪織は荷台から降りると胸元に下げた懐中時計を見た。五分程度ならば約束の十時に余裕で間に合う時刻を示している。

「きっとカミルはもう着いてるだろうな。あいつ、待ち時間が好きなんだ」

 言いながら五番目は籠から取り出したカネット壜と大きな風呂敷包みを手に取り、寺院の横にある道から雑木林に入っていく。雪織もバスケットを持ち直し、彼の後ろに続いた。

「雪織! 五鈴!」

 その弾んだ声が聞こえたのは、二人の前に川が現れたとほぼ同時だった。相変わらず黒で統一した半袖のブラウスシャツに半ズボン姿のカミルが川の畔に佇み、手を振っている。

「カミル。どれくらい待った?」

「三十分くらいだよ」

「ほら、言った通りだ」

「本当だね」

 雪織と五番目は笑みを零しつつカミルのすぐ手前まで来た。川沿いには半夏生、雀瓜、水引などの植物が集まり、大小様々な岩がある。その岩の一つにはカミルが持ってきたらしい、雪織のものとよく似たバスケットが置かれていた。

「もしかして、そのカネット壜に入ってるのはハーブティーかい?」

 五鈴が左手の指に引っかけている三本のカネット壜を見つめ、カミルが訊ねる。それぞれの中身は紅玉(ルビー)黄水晶(シトリン)琥珀(アンバー)を溶かしたような色の液体で、木漏れ日に当たって輝いていた。

「ああ。せっかくだから冷たくして持ってきたんだ。夏向けのローズヒップとレモングラス、それとカミルの好きなイヌハッカも」

 それを聞くなりカミルは今にも飛び上がらんばかりに嬉しそうな顔をした。しかしその衝動を堪えている様子でロングブーツと靴下を脱ぎ、彼は川の中に入っていった。水嵩はちょうど膝小僧に達している。そしてカミルは五番目の手から受け取った三本のカネット壜を川底に沈めた。

「カミル、何を」

 驚いた雪織が声をかけると、カミルは両手を水の中で動かしながら答えた。

「ハーブティーを川の水に浸けておくんだよ。いくら日陰でも放置していたら温くなってしまうかもしれないだろ。川に沈めて、こうして石で固定すれば流されたりしないから」

 ほどなくしてカネット壜を全て固定し終えたらしいカミルは上体を起こす――と、同時に雪織と五番目に向かって両手の雫を散らした。まともに雫を顔面に浴びることになった二人をくすくすと笑いながら、カミルはそのまま川上へと歩いていく。

「雪織も行こうぜ。さっきのお返しをしないと」

 五番目は素早くズボンを膝までたくし上げ、マラソンシューズと靴下を脱ぎ捨てると川に入った。すかさずカミルを追いかけていく。雪織はその光景に口元を綻ばせ、スニーカーと靴下を脱いだ足で川の水に触れた。真水は冷たくて気持ちがいい。近くの岩に両手をかけて慎重に足を沈めると、足の裏に丸い石が敷かれた川底の感触が広がる。

「雪織、助けて」

「えっ」

 足元に視線を落としながら少しずつ歩いていた雪織のもとに、ざぶざぶと音を立ててカミルが戻ってきた。顔を上げた瞬間、彼は雪織の背後にひらりと隠れる。もう一度川上の方を見ると、五番目が黒い拳銃を模った水鉄砲を構えてこちらに向かっていた。

「あんな飛び道具をぼくに使うつもりだ。しかも顔面を狙ってるんだよ」

「でも、カミルだって私達に不意打ちで水をかけてきたよね。顔に」

 そう言い終えると同時に、雪織はワンピースのポケットに入れた右手を取り出す。青い拳銃を模った水鉄砲を握っていた。中はついさっき溜めたばかりの真水で満ちている。自分に向いた銃口にカミルがぎょっと目を見開き、雪織は間髪入れず人差し指で発射した。

「うわっ」

 顔面を水浸しにされたカミルが両手で顔を覆ったとき、悠然と追いついた五番目も水鉄砲を発射する。顔を拭ったかと思いきや再び水浸しとなり、カミルは慌てて川の中からすぐ近くの岩に跳躍し、二人から距離を取った。

「狡いよ二人とも。多勢に無勢だなんて」

「二対一で何言ってるんだ」

「まさか雪織までそんなもの持ってるなんて予想外だ……」

「この川に来るまでに五番目が貸してくれたんだよ」

「拗ねるなよ。ほら、お前の分もあるから」

 宥めるように言って、五番目は風呂敷包みの中から赤い拳銃を模った水鉄砲を取り出し、川の水を入れてからカミルに向かって放り投げた。カミルはすぐに機嫌を直したようで、ぱっと笑顔になると飛んできた水鉄砲を片手で掴む。

「じゃあ、今から射的をしよう。木の実とか小石とかを岩に置いて狙い撃つんだ」

 その後は雪織が正午になったことを告げるまで、三人とも水鉄砲の射的を楽しんだ。

「そろそろ昼食にしようか」

 五番目が言って、ハーブティーの入ったカネット壜を川底から取り出した。真水のおかげで持ってきたときよりもよく冷えている。

「カミルは」

「イヌハッカ。イヌハッカのハーブティーがいい」

「言うと思った。雪織はどれを最初に?」

「じゃあ、レモングラス」

「だったら俺はローズヒップにするか」

 昼食と一緒に用意していた紙製のコップに注いで、五番目は二人にハーブティーを振る舞った。雪織が最初に飲んだレモングラスは名前の通り檸檬と草のいい香りだが、思っていたほど強くない酸味がちょうどいい。一杯のハーブティーを飲んだ後で、三人は持ち寄ったサンドイッチや果物を食べ始める。静かな雑木林の中で風が吹くたび、平らで大きな岩の上に座る三人の頭上では葉擦れの音が聞こえた。

「雪織って、ちょっと変わってるよね」

 先ほどからしきりにイヌハッカのハーブティーばかりを飲むカミルが不意に呟いた。突然の言葉に雪織は戸惑う。幼い頃から「大人しい」「真面目そう」とはよく言われてきたが「変わってる」と言われたことはあまりなかった。

「そう、かな」

「うん」

 以前イヌハッカのハーブティーを飲ませたときと同様、カミルはどこかとろんとした目つきで頷いた。雪織は五番目を見たが、彼は特に肯定や否定の態度を見せず、カミルのバスケットに入っていた李に皮ごと齧りついている。

「実を言うと、ぼくは女の子が少し苦手なんだけど」

「嘘」

「嘘じゃないよ。うるさい声上げるし、すぐ追いかけてくるし、いきなり抱きしめてくるし、厚かましい子なんてキスまでしてくるじゃないか」

 そんなに激しいスキンシップをする少女がこの島にいたのかと雪織は目を瞬く。

「でも雪織はそんなことしない」

「当たり前じゃないか」

「だから変わってるなって思ったんだ」

「全然変わってないよ」

 雪織が溜め息交じりにそう返すと、だしぬけにカミルは声を上げて笑い出した。

「やたら愛想を振り撒くことをしなければ無視もしない。誘ったら応じるけど、構い倒すことだってしない。そんな下手に干渉せず、距離を保ってくれる人がぼくは好きだよ」

「それは、五番目のことじゃないのか?」

「雪織と五鈴は別の人間だろう」

 さっきまで上機嫌だったカミルの顔が、突然むっとした表情を作った。かと思えばくすくすと笑みを零す。今のカミルは川で遊んでいたとき違って、まるで行動が読めない。

「確かにわたしと五番目は別人だよ。わたしは五番目のようにはなかなかなれないと思う。勉強も運動もできることはもちろんだけど、あんなふうに皆から好かれるような人柄が本当にすごく羨ましくて――」

「簡単に人を羨ましがるのはよくないよ、雪織」

 カミルは雪織の言葉を遮り、神妙な表情をずいと彼女に近づけた。黄金色の隻眼を通して自分の顔を見つめることになり、雪織は思わずたじろぐ。

「五鈴にだって、つらいことやできないことはいくらでもあるよ。きみにもいいことやできることはたくさんあるんだ。自分を他の人と比べる必要なんてないんだから、そんなふうに思わなくていい。ぼくは五鈴が好きだけど、同じくらい雪織も好きだよ」

「俺だってカミルと雪織、どっちも同じくらい好きだぜ」

 手に伝う李の果汁を舐めていた五番目が、まるで当たり前のように言う。そのことに雪織は一瞬目を見開いた後で、軽く視線を彷徨わせる。

「本当に?」

「本当に決まってるじゃないか。ぼくと五鈴の言うことが信じられないのかい」

「ううん、信じる。信じるよ。でも、ごめんね」

 目を伏せて謝る雪織に、五番目とカミルは怪訝そうに顔を見合わせた。

「わたしは今まで、二人にそう思ってもらえてるなんて考えてなかった。今年からこの島にやって来たわたしは、どうやっても五番目とカミルの仲に入り切れないって思ってたから。……どうしてかな。今までのわたしだったらそんなこと気にしなかったのに、猫窟島に来てからは何か違うんだよ。五番目とカミルの仲が羨ましくて、些細なことで疎外されてる気分になって、それがすごく気になってしまう。気にする自分が、嫌だった」

 そこで深く嘆息して、雪織は自分の髪をくしゃりと掴んだ。

「どうせなら、わたしも五番目やカミルと同じ男に生まれてくればよかったのに。そうすればもっときみ達と近い距離にいられたかもしれない」

 それを聞いたカミルは心底不思議そうに小首を傾げる。

「雪織は男になりたいの? 男として、ぼく達と友達になりたいって思ってるのかい。……ぼくは思わないよ。雪織が男だったらいいなんて」

 カミルが同意を求めるように視線を投げると、五番目も首肯して言う。

「男になったら絶対に今の雪織と違ってしまうだろ。俺も、雪織が男になるのはあんまりいいと思わないぜ。今のまま、女のままがいい。性別の違いなんか俺達には関係ないんだからな」

「…………っ、あ――」

 彼らの言葉を聞いて、雪織はじわじわと手足が痺れるような感覚に襲われた。ケット・シー行きの乗車券が入った封筒が届き、同封されていた手紙を読んだときと似ている。血液が激しく、全身の狭い血管をもどかしそうに押し広げながら流れていく。歓喜とでも表現すればいいのか、自分の身体に広がる感情に雪織の口からは笑いが零れた。

「ありがとう」

 小さく震えた言葉は、それでも二人の少年に聞こえていたらしく彼らは顔を綻ばせた。

「ぼくと五鈴と雪織って、きっと世界一の親友だよね」

 カミルが言うと雪織は五番目と視線を交わし合い、同時に頷く。

「ああ。そうだな」

「これからもずっと?」

 そう訊ねた雪織にすぐ返事をすることなく、カミルは空になったコップにもう一度イヌハッカのハーブティーを溢れる手前までなみなみと注いだ。そのまま自分のハーブティーを三等分するように、雪織と五番目のコップに分ける。二人の手にそれぞれのコップを持たせると、蕩けるような笑みを浮かべてみせた。

「もちろん。ぼく達は、これからもずっと親友なんだ」


 

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