十二、風邪ひきの二日目
朝を迎えると昨日より喉の痛みや咳、頭痛が治まっていた。期待して体温を計ってみたところ、三十七度三分までに下がっている。
「もうこれ微熱だよね。学校行ってもいい?」
「駄目だ。九瀬先生だって二日休んでいたんだろう? ならお前も二日は休め。無理に学校行って悪化したり、他の子に感染させたら大変だからな」
「授業に遅れたくないのに」
「授業はあの親切な五番目くんに頼んで板書の写しを見させてもらえば済む話だ」
「まるでわたしが彼以外に友達いないみたいな言い方はやめてほしいんだけど」
「あ、違ったのか?」
「………………」
その日の雪織は昨日のような寝たきり状態にこそならなかったが、自室で静かに読書をしつつハーブティーを飲むことくらいしかできなかった。
学校の図書室から借りていた本をすっかり読み終えた夕方、雪織の体温は三十七度に下がった。これなら明日は登校できるだろうと安堵の息を吐く。そのとき不意に何か物音が聞こえた気がして、雪織は自分以外誰もいないはずの部屋を見回す。気のせいかと思ったとき、今度ははっきりと音が聞こえた。ガラスを素手で優しく叩く音だ。
「誰だ」
カーテンを引いて磨りガラスの窓を開け、驚いた雪織は思わず大声を上げそうになった。喉の奥から出かけた声をなんとか飲み込み、そこに立っていた相手の名前を呼ぶ。
「カミル……?」
「やあ、久しぶりだね。雪織」
悪戯っぽく微笑んだカミルの頭には学帽があり、初めて出会ったときの黒い詰襟と似た服装だった。どうやら衣替えをしたのか袖が短く、生地が薄くなっている。その右手には黒い抱鞄が握られ、昼間にも学校があったのだろうかと雪織は頭の片隅で考えた。
「どうして家がわかったんだ」
「ぼくの情報収集力を舐めないことだね」
どこか得意げな口振りで言うと、カミルはほくそ笑んだ。
「中に入ってもいいかい?」
「あ、でも……今のわたし、熱はほとんど下がったけど風邪ひいてるんだよ。わたしは別に構わないんだけど、カミルにも移ってしまうかもしれない」
「平気だよ。お邪魔します」
窓際で編み上げの黒いロングブーツを脱いだカミルは、するりと窓から侵入した。部屋中をきょろきょろと見回して、意外そうな顔で言う。
「随分と殺風景だね。ぼくはいいと思うけど、女の子の部屋らしくないな」
「漂泊生活してる身だからね。持ち物に対する執着みたいなものがあんまりないんだよ。特に綺麗好きってわけでもないけど、ごちゃごちゃしてるのは苦手」
「ふうん」
そこで雪織が床に直接座り込み、カミルにも座るように促すと彼は雪織の正面に座った。
「ところでカミル。どうしていきなりここに?」
「きみが風邪ひいたって聞いたからね。お見舞いだよ」
「ありがとう。もうほとんど回復したから、明日には学校に行けるよ」
そこで雪織はまだ少し残っていたイヌハッカのハーブティーを一杯飲み干した。
「………………」
「…………あの、どうかした?」
食い入るようにじっと見つめられ、雪織は気まずそうに訊ねる。
「あ、ごめん。……ねえ雪織。それって何を飲んでるんだい?」
「イヌハッカのハーブティーだよ」
それを聞いてカミルの目が大きく見開いた。
「カミルもこのハーブティー好きなのか? 飲みたいんだったら、あげるよ」
「えっ」
雪織が蓋のコップにハーブティーを注いで差し出すと、カミルは少し躊躇った後で受け取った。しかし湯気の向こうにある中身を見つめたまま、なかなか飲もうとしない。そのうち雪織は、もしかすると彼はイヌハッカが苦手で、自分が勝手に勘違いしてしまったのではないかと思い始めた。
「ごめん。本当はそれ嫌いだった? なら別に飲まなくても――」
「ううん、イヌハッカは大好きだよ。ただ、飲むには熱くないかなと思って」
「猫舌ってこと? もう平気だよ」
そう言われたカミルは何回か息を吹いてハーブティーを冷まし、ぺろりと長い舌を出して一舐めした。そして大丈夫だと思ったのか一口ごくりと飲み、ほうと息を吐く。
「これ、五鈴がくれたものだろう?」
「すごい。よくわかったね」
「彼のお母さん、ハーブの栽培が趣味なんだって。だから家で色んな種類のハーブティーを作ってるって聞いたよ。ぼくもいくつか飲ませてもらったことがある」
カミルはそのままごくごくとハーブティーを飲み干した。
「もう一杯、飲む?」
水筒を見つめる、どこかうっとりとしたカミルの目に苦笑して雪織が訊ねる。するとカミルは我に返ったように顔を強張らせ、慌てて首を横に振った。
「いや、もういいよ。あまり飲み過ぎたらいけないからね」
「そう?」
蓋のコップを受け取り、雪織は一度ハーブティーの水筒をサイドボードの上に戻した。改めて向かい合うと、心なしかカミルの顔はほんのりと赤く、伏し目がちで眠たそうであることがわかる。
「ああ、そうだ。お見舞いの品を持って来てるんだった」
突然思い出したように言うと、カミルは抱鞄を開けた。中から彼が取り出した透明な袋には、色とりどりの小さな八面体がいくつも詰まっている。透き通った桃色、水色、黄色、紫色、緑色のそれは一見するとカットされた宝石のようにも見えた。
「それ、何? すごく綺麗だね」
「ぼくが作った琥珀糖だよ。食べたことないかな。純度の高い砂糖と寒天を材料にして、シロップやジャムで色をつける和菓子。ぼくも五鈴も大好きなんだ」
「こんなに綺麗なお菓子があるなんて、初めて知った」
袋を受け取り、雪織は桃色の琥珀糖を摘まんだ。光を通して輝くその見た目に、本当に口に入れていいものだろうかとわずかに躊躇してしまう。しかし見つめている間にも、雪織にはカミルの視線が向いていた。味の感想を待っているのだろう。
「いただきます」
親指の先ほどの大きさしかないそれを口に入れると、たちまち砂糖の甘い味が広がった。そっと歯を立ててみると、シャリッとした歯応えの後に寒天の柔らかな感触がある。どうやら苺のシロップかジャムを使っているらしい。
「美味しいよ。ありがとう、カミル」
「いつか雪織にも作り方、教えるね。約束だよ」
カミルは嬉しそうに微笑むと、抱鞄を手に窓の方へ向かった。そのまま出ていくのかと思いきや、首だけを捻って雪織に振り返る。
「ねえ。そろそろ夏に入ったことだし、今度の日曜は五鈴も誘って川へ遊びに行こうよ」
「川?」
「そう、川。詳しい場所は五鈴に訊けば案内してくれるよ」
「連休中にクラスメイトと釣りをした川ならわかるけど」
するとカミルは少し考え込むような素振りを見せた後で、首を横に振った。
「多分、それとは違う川だよ。じゃあ雪織は五鈴に案内してもらって、朝の十時に現地集合。昼食も何かを持ち寄って一緒に食べよう」
言い終えるか言い終えないかのうちに、カミルは半開きにしていた窓から外に出る。素早くロングブーツに足を入れ、そのまま軽い足取りで雪織の視界から消えていった。いきなり現れたかと思えば、さっさと去っていく。
「まるで風みたいだ」
雪織は窓を閉め、カミルから受け取った琥珀糖をもう一つ口に入れた。
その翌日、五番目は雪織からカミルの誘いを聞くなり二つ返事で案内を引き受けた。




