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猫窟島のケット・シー  作者: 手這坂猫子
第三章 イヌハッカ
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十一、風邪ひきの一日目

 翌朝、起床した雪織の顔が赤いことに気づいた母は無言で体温計を差し出した。脇に挟んだ体温計が電子音を立て、三十七度五分になっていることを知らせる。すると母は心配の言葉をかけるよりも先に「阿呆かお前」と呆れ顔で言った。

「九瀬先生に残ってた風邪が移ったみたい」

「見ればわかる。これじゃあ確実に先生が責任感じるだろうな」

「……そうだね」

「今日は休めよ」

「うん……。病院、今日中に行かないと駄目?」

 雪織の頭に、地図に記されていた島に一つだけ存在する診療所が浮かんだ。初めての病院に行くということは、転校初日と同じくらいに緊張するため好きではない。

「嫌なら別に行かなくてもいい。見たところただの風邪っぽいから安静にしてればそのうち治るだろうしね。一応昼までに風邪薬買ってくる」

 食欲はなかったが母に何も食べないのはよくないと言われ、雪織はヨーグルトだけを胃に収めて再びベッドへ戻った。起きたばかりのときはそれほど気分が悪くなかったのだが、熱があることを自覚した途端鈍い頭痛が起きてぐったりとしてくるから不思議だ。そんなことを思っていると、氷枕を手にした母が部屋に入ってきた。

「何か欲しいものある? 果物とか」

「特に何も……あ」

「何」

「アイスクリーム。バニラがいい」

「それ以外はない?」

「うん」

「じゃあ十一時になったら薬とアイスクリームを買いに行くから、大人しく寝てなよ。母さんは学校に連絡した後いつもの和室で仕事してるから」

「わかった」

 はあ、と熱っぽい息を吐いて雪織は目を閉じた。母が部屋を出ていくと、時計の秒針だけが聴覚を支配するような錯覚を感じる。神経が敏感になっているのかどうか自分ではよくわからないが、その音がやけにうるさく聞こえる。

 いつか秒針が音を立てない時計を置くようにしよう。しかしまた引っ越してしまったら意味がない。大きな時計は持ち歩くことができないし、それならいっそ腕時計だけでもいいかもしれない――と、ぼんやりとする頭で考える。結局、買い物に出かけた母が正午前に帰ってくるまでの間、雪織は一睡することなく起きていた。

「少しは寝た?」

「全然」

「食欲ある? 卵粥作ろうと思ってるんだけど」

 卵粥は娘が体調を崩したときだけに作る母の料理だった。

「多分、食べられる。けどそんなに多くは作らないで」

「わかった。あ、その前に熱計っておきな」

 言われた通り体温を計ると三十八度に上がっていて、雪織は嘆息する。明日も休むことになるのではないかと思うと軽く憂鬱になった。

 ほどなくして母が土鍋と薬を載せた盆を持ってきた。土鍋から直接食べさせるのではなく、母はわざわざ小さい器に卵粥を取り分けて雪織に渡した。いつもは見せない小さな気遣いが、病を患ったときの娘に対する母なりの甘やかしだ。

 雪織が土鍋の中身を四分の一ほど食べ残すと、母は氷枕を新しくしてカップのアイスクリームとスプーンを用意してきた。それ受け取った雪織はすぐに蓋を開けようとはせず、わずかに水滴が浮かんだカップを頬に当てる。

「冷たい」

「そんなことしてたらすぐ溶けるよ」

 母の言葉に雪織はふっと笑みを浮かべ「あめゆじゅとてちてけんじゃ」と呟いた。

「それ、確か宮沢賢治の詩にあったな」

「『永訣の朝』にね。東北の方言で『雨雪を取ってきてください』って意味。病床のトシ子が言ってたらしいよ。あめゆじゅは雨雪がさらに鈍った言葉だとか」

「雨雪って、母さんとお前みたいだな」

 そこで母は薬を飲ませるための水を忘れていることに気づき、市販の薬だけをサイドボードに置き、食器を載せた盆を持って部屋から出ていった。

 雪織はカップの蓋を取って、淡い黄色がかかった白色の中身をスプーンですくった。本来は少し硬さがあるはずのアイスクリームはやはり溶けかけて柔らかくなっている。口に運ぶと、卵粥を食べた後で熱くなっていた口内が一気に冷えるようだった。

「雪織。食前に計った体温は何度だった?」

 水の入ったコップを持って部屋に戻るなり、母が訊ねてきた。

「三十八度ぴったり」

「普通は食前より食後の方が体温上がるって言うけど、今つらくない?」

「あんまり。このアイスクリーム、美味しいよ」

「それはよかった。じゃあ食べ終わったらこの薬を飲んで」

「うん」

 アイスクリームを食べ終えた雪織は、毎食後にと説明書きがされた箱から薬を取り出す。包装を破り、苦みのある顆粒薬を口に入れ、間を置かず母から渡された水で流し込んだ。

「夕食ができたら起こすから。それまでに少しでも早く熱が下がるように寝てること」

「わかってるよ」

 母が出ていくと、時計の秒針が動くたびに聞こえる音以外、また辺りは静かになる。

「…………明日までに治さないと、授業に遅れそうだ」

 それだけが気がかりな雪織は呟いて横になった。午前中は眠くならなかったが、午後だからなのか食後だからなのか、そのうちうとうととし始め、眠りにつくことができた。

 雪織が自然と目覚めたとき、時刻はすでに午後五時を過ぎていた。頭の下に敷いた氷枕もすっかり温くなっている。奇妙な夢を見ていたような気がするが、目が覚めたと同時に忘れてしまった。体温計を脇に挟み、どんな夢だったかどうにかして思い出そうとしていると母が水筒らしきものを持って入ってきた。

「ああ、起きてたのか」

「今起きて熱を計ってるところだよ。……その水筒、何?」

「ちょっと前に雪織のクラスメイト、五番目って子がお見舞いに来たんだよ」

「五番目が……」

「風邪に効きますからどうぞって言って、これをくれたんだ。何かは母さんも知らないけど、普通に考えれば飲み物だろうな」

 母がサイドボードに置いた水筒は銀色の魔法瓶だった。

「随分と気が利く親切な男子と友達になったんだな。あとこれ、手紙」

「手紙?」

 訊ね返したとき、体温計が電子音を立てた。母から折り畳まれた筆記帳の切れ端を受け取ってから、体温計を取り出す。

「三十七度七分」

「昼よりはましか。もう少ししたら夕食持ってくるよ。ポトフなら食べられるだろう」

「うん」

 母が出ていった後で、雪織は手紙を開いた。


 風邪、無理せずに回復させろよ。今日から九瀬が担任に戻ったけど、雪織が風邪をひいたのは自分があのときマスクをしていなかったせいだって悔やんでる。

 水筒の中に入ってるのは俺の母さんが作ったイヌハッカのハーブティーだ。風邪に効くし、消化や安眠にも効果があるから俺もよく飲んでる。口に合うかはわからないけど、よかったら飲んでくれ。お大事に。 五番目


「イヌハッカ?」

 カモミールやジャスミンならともかく、イヌハッカというハーブは聞いたことがない。怪訝な顔つきになった雪織が水筒の蓋を開けると、ハッカの香りがする湯気が昇ってきた。

「ハッカって言うくらいだから、辛かったりするのかな」

 幼い頃にドロップを舐めて以来、その味に苦手意識を抱く雪織は眉をひそめた。しかし今まで風邪をひいたときに友達から見舞いの品をもらった経験がない彼女は、そんな理由だけでせっかく五番目が持ってきてくれたハーブティーを飲まずに捨てる気など起きなかった。何より良心が痛む。

「…………美味しい」

 一口飲んで、雪織は呟いた。風味はどことなくハッカであるが、ドロップで味わったことのあるような辛さはなく、すっきりとした癖のないその味は緑茶に近くて飲みやすい。ふわりとした甘さのある後味も悪くなかった。

 夕食と薬を持ってきた母にもハーブティーを飲ませてみたところ、娘と味の好みが合う彼女も案の定気に入ったようだった。

「へえ、飲みやすくていい味だな。なんて名前のお茶?」

「イヌハッカのハーブティーって書いてある」

「イヌハッカ……」

 その名前に聞き覚えがあったのか、母は顎に手を当て考える素振りを見せた。

「母さん、知ってる?」

「別名があるはずなんだよ、それ。イヌハッカは和名で、他のハーブ名を聞いた気がするんだけど……なんだったかな。最後にミントとかワートとかってついてたと思う。あと、そのイヌハッカをすごく好む動物がいるらしい」

「それってやっぱり犬じゃない? イヌハッカって名前がつくくらいだし」

「かもしれない」

 ハーブティーは水筒の中に半分以上残したまま、サイドボードに置いておくことにした。夕食後、さっさと入浴を済ませた雪織は普段よりもずっと早い時刻に就寝した。

 

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