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猫窟島のケット・シー  作者: 手這坂猫子
第三章 イヌハッカ
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十、見舞い

 五月下旬、一学期の中間試験が終わった。終了の鐘が鳴ると、生徒達は無意識に溜め息を吐き出す。満足げな表情の生徒はわずかで、ほとんどは苦々しい表情だ。そして教師が答案用紙を回収して解散を告げると、半分以上の生徒はそれが使命だと言わんばかりに勢いよく教室から飛び出していった。午前中で全ての試験が終了し、且つ午後の授業がないとなれば、どこの学校の生徒も一様に喜ぶ。

 クラスメイトと勉強会をした手応えを感じ、今回の試験はこれまで以上の結果が期待できそうだと思いながら雪織は提出物を取り出していた。この後は提出物を指定された場所に提出すればすぐに帰れる。問題集と筆記帳を数冊取り出した雪織は、念のため中身を確認しようと頁を捲ったところで背後から声をかけられた。

「雪織。ちょっといいか」

「何?」

 振り返った先では五番目がすでに鞄を肩にかけていた。手に持った提出物のうち、一冊の筆記帳を団扇のようにぱたぱたと動かしている。

「今日この後空いてる?」

「特に予定はないけど」

「なら二時に九瀬の家、行かないか」

 何故と訊ねようとした雪織だったが、担任の九瀬が風邪で休んでいるという報告を昨日教頭から受けたことを思い出した。

「もしかして、お見舞い?」

「ああ。それにあの先生って血統書つきの立派なウェジー、飼ってるんだぜ」

「ウェジーって?」

「ノルウェージャンフォレストキャットっていう猫のこと。それに夫婦そろって愛猫家だから、よく野良猫に餌やってるんだ。餌をやるのは大体二時過ぎ」

「つまり九瀬先生の家に行ったら猫がたくさんいるってこと?」

「そういうこと。よくここの生徒も九瀬の家に集まって猫に餌やってる。雪織も一度行ってみたらどうだ? もちろん見舞いもちゃんとする」

「行く」

「よし。決まりだな」

 すると二人の会話を聞いていた近くの女子が自分も行きたいと言った。それにつられるように、まだ教室に残っていたクラスメイトが五人、俺も私もと言い出した結果総勢八人の生徒が担任教師の家へ見舞いに行くことになった。

 雪織は五番目から九瀬の住所を教えてもらい、一度帰宅して昼食を済ませた。一時半が過ぎると最寄りの青果店で白桃を一つ購入し、地図を見ながら九瀬の家へ向かう。門の前に集まった八人の生徒は男子が三人、女子が五人。各々がここに来る前に一つずつ買ってきた果物は籐製の籠に詰め合わされ、今は五番目の手に握られている。

 門の向こうに見えるのは和菓子の家と同等な大きさを誇る一戸建てだ。五番目が率先してインターホンを押すと、機械を通して女性の声が聞こえてきた。

『はい。どなたですか?』

「突然すみません。二年一組から八名、九瀬先生のお見舞いに参りました」

『まあ、わざわざ主人のために? その声は五番目くんよね。どうもありがとう。門の鍵は開いているから、庭に入ってくれるかしら』

「はい」

 そこで声は聞こえなくなった。五番目はすぐに手慣れた様子で門を開け、正面にある玄関には向かわず、左にある広々とした庭へ進んでいく。その後ろに七人が続いた。

 きちんと手入れされた夾竹桃が立ち並ぶ庭には、すでに様々な種類の猫が十匹以上いた。全てが野良猫なのかと思いきや、首輪をつけた飼い猫も混ざっている。

「皆、いらっしゃい」

 庭に面した大きな窓が開き、九瀬が姿を現した。隣にはインターホンで五番目と応対していたと思われる、九瀬の妻らしきシニヨンにした茶髪の女性が立っている。

「先生、お身体の具合はいかがですか? あとこれ、俺達からです」

 五番目が差し出した籠の果物に、九瀬は目を細めて喜んだ。

「立派な果物の詰め合わせだな。なんだか悪い気がするけど、嬉しいよ。ありがとうな。熱はもうすっかり下がったから、このまま調子がよければ明日は学校に行けるよ。僕がいない間、ちゃんと試験に挑めたかどうかが気になるところだけど――まずは皆、そこにいる猫達に餌をやってくれ」

 九瀬夫人が八人に手渡した袋には固形のキャットフードが入っていた。それを目にした途端、甘えた鳴き声を上げて猫達が近づいてくる。雪織達はその場にしゃがみ込み、近くにいた猫にキャットフードを与え始めた。鋭い歯やざらりとする舌が掌に当たるときのわずかな痛さやくすぐったさに、雪織は口の端が緩むのを抑えられずにいた。

 不意に、それまで雪織の手からキャットフードを食べていた野良と思しき三毛猫がびくりと顔を上げた。そして離れた位置から自分に近づいてきた大きな猫を見ると、そそくさと雪織から離れていった。大きな猫は麦の穂を想わせる見事な黄金色の長毛で、雪織の手からキャットフードを我が物顔で食べ始める。

 人間と同様に猫の中でも権力を持つ存在はいるんだな、と雪織は思わず苦笑した。

「いい首輪してるね」

 その猫の首には決して安物ではなさそうな赤い首輪がついている。首の辺りを撫でつつ雪織が言うと、猫は褒められたことを理解したのか胸を張るような動きを見せた。

「ああ、そいつがウェジーだぜ」

 すでに袋の中身をほとんど猫に与えたらしい五番目が、雪織の近くに来てそう言った。

「先生の飼い猫だ」

「へえ。なんか、気品が感じられるね」

「愛猫家だけど、家で飼ってるのはその一匹だけなんだって。だから夫婦ですごく可愛がってるらしい。首輪もブランド物で、毎日違う色のものを着けさせてる。先生が持ってる釣り道具のルアーがなくなったときは、よくそいつが見つけ出してくるって自慢話も聞いたな。ちょっと齧られてるときもあるらしいけど」

 会話している最中も五番目は次々と寄ってくる猫にキャットフードを与え続け、雪織が半分減らしたところで彼はもう袋を空にした。追加を頼むため五番目が九瀬夫人のいるところへ向かうと、ノルウェージャンフォレストキャットも雪織から離れていった。

「ねえ」

 突然声をかけられ、雪織は右を向く。一緒に来ていたクラスメイトの一人、回向がいつの間にかすぐ隣にいた。雪織は彼女の方から声をかけてきたことに内心驚いたが、それを表情には出さず「何?」と返した。

「釵さんは猫好きなの?」

「うん」

「だからそんなに幸せそうな顔してるんだね」

 回向は微笑むことなくそう言って、近づいてきた白猫にキャットフードを与える。

「回向も?」

「何が?」

「猫好きなんじゃないのか」

「そりゃあ好きか嫌いかで言うなら好き。でも、それくらいだよ。釵さんほどじゃないと思う。どちらかと言うなら、あたしは犬派だもの」

「それならなんでわざわざここに? ……他の皆はすごい猫好きみたいだけど」

 自分や五番目を含め、回向以外のクラスメイトは全員幸せそうな顔で猫にキャットフードを与え、撫でたり抱いたりしていることを確認して雪織は訊ねた。訊ねた直後に、もしかしたら彼女は担任の九瀬に何か恩でもあるのだろうかと深く考える。

「そういう気分だったんだよ。ただ今日は猫に餌をあげたくなっただけ」

 雪織の深い思考を裏切るように、白猫の背中を撫でながら回向はあっさりと答えた。

「………………」

「何?」

「なんでもないよ。わたし、ちょっと九瀬先生と話してくるね」

 雪織はキャットフードを強請る猫の円らな瞳を見ないようにして、立ち上がった。

 先ほどの回向との会話で、雪織は確信したことがある。

 回向は五番目が好きだ。それも、異性として。

 ほぼ間違いないだろうと雪織が思うのは、普段から人数の少ないクラスメイトの行動を暇さえあれば観察していたからだ。五番目に好意を抱く生徒は二年一組のクラスにはもちろん、一年生にも三年生にも多く存在している。そして普段からよく五番目に声をかけたり遊びに誘ったりしている女子を見ていれば、友愛なのではなく性愛の対象として五番目に接している人物が誰か雪織にはわかる。その中には回向も入っていた。

 一日にする会話の数は人並み、日によれば雪織より少ないこともあるが、それでも回向は五番目と会話しているとき本当に楽しそうに見える。何もしていないとき、彼女は五番目が自分以外の人間と話している光景をそれとなく眺めていた。特別猫好きでもない回向がわざわざ九瀬の家に来たのは、ただ単純に五番目の傍にいたいと思ったからだろう。それがわかった今、だからと言って雪織は何らかの行動を起こす気はさらさらない。周りに吹聴してからかうような子供っぽさも、ライバルが多いだろうその恋を手伝ってあげるようなお節介さも、彼女は持ち合わせていなかった。

 雪織は窓際に腰掛けて生徒や猫を眺めていた九瀬の前に立ち、会釈する。いつの間にか、さっきのノルウェージャンフォレストキャットが彼の腕に抱かれていた。

「そう言えば、釵さんがうちに来るのは初めてだよね」

「はい。五番目に誘われて来ました」

「新しい環境にはすっかり慣れたみたいだね。どうかな、猫窟島の生活は。ゲームセンターもカラオケボックスも碌にない田舎でがっかりしたかもしれないけど」

「そんなことありません。静かで長閑で、すごくいいところだと思います」

「そう言ってもらえて、島民としては嬉しい限りだね。ここ、座る?」

「お邪魔します」

 雪織は九瀬のすぐ横に腰を下ろす。

「さっきから見てたんだけど、釵さんも猫好きみたいだね」

「ええ。飼ってはいませんが」

「いつか飼おうとは?」

「そうですね……。独立して、ちゃんと自分の生活が安定したら飼いたいと思います」

「しっかりしてるなあ」

 そう言って微笑んだ後で、九瀬はあることを思い出したように口を開いた。

「あっ、そうそう。実は転校初日から訊こうと思ってて、聞きそびれてたんだけど」

「はい?」

「釵さんのお母さん――釵雨織さんって、詩やエッセイを書いてる?」

 それは、雪織の名前を知った人間がたまにする質問だった。元々本名で物書きをしている当人が「別に隠す必要はない」と言うため、雪織は母に関する質問には正直に答えていた。サインが欲しいと言われてそれを引き受けることもある。

「ええ、その釵雨織で合ってます。エッセイはともかく詩は灰汁が強いものを多く書いてるので、結構好き嫌いが分かれるって評価をされてるみたいですけどね」

「でも人気あるよね。僕も雨織先生の書く詩はよく読んでるんだけど、素敵だと思う」

「ありがとうございます。母に伝えておきますね。……ただ、わたしは母より宮沢賢治の詩が好きです。母の書く詩は宮沢賢治よりも、シャルル・ボードレールやアルチュール・ランボーって感じですから。さすがに彼らよりえぐくはありませんが」

「釵さんは根っからの文系なんだね」

 そんなとりとめのない会話をしながら、雪織は足元に寄ってくる猫にキャットフードを与えた。その後、三時になって九瀬夫人から緑茶と苺大福を振る舞われた生徒は挨拶を済ませると散り散りに帰っていった。

 

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