一、漂泊する親子
雪織の母は若い頃の放浪癖を未だに引きずっているらしく、今も一つの土地に落ち着く気配がまるでない。一人娘を道連れに転居ばかりを繰り返している。
身の回り品をトロリーバッグに詰め込み、準備ができたら素早く出発するということが彼女の家庭では恒例だった。そんな行動についていけなくなった夫が家を出ても、雪織の母がその恒例を止めることはなかった。むしろ一層顕著になってきたのではないかと最近の雪織は考えている。その夜逃げにも似た行動に何かしらの目的があるのかないのか、雪織は知るよしもなく母との漂泊に慣れていった。
「明後日の早朝、出発するから荷物をまとめておけよ。いらないと思うものは全部捨てて」
そのため、中学二年生になってまだ半月も経っていないにも関わらずそんなことをいきなり夕食中に言われても、雪織はさほど動揺しなかった。
物書きの釵雨織は自由奔放を具現化したような女で、詩やエッセイを書くこと以外にはほとんど無関心だ。娘の心情などお構いなしに気の向くまま漂泊する一方で、公務員の夫がいなくなった今でも親子が漂泊しながら食うに困らないどころかお釣りがくるほどの印税を稼いでいる。しかしその恩恵を受けている雪織にとっては、こんな根無し草の女に印税を支払う世の中の仕組みがどこか間違っているような気がしてならない。
「返事は?」
黙っている雪織に、母は皿に引っついた鰤の皮を箸でつまみ取りながら訊いた。
「……わかったよ」
「何か不満なのか? あるなら言えよ」
「不満というか、たまにはどこか一つの場所に落ち着いてみたいって思っただけ。最後に友達らしい友達ができたのは小学五年生のときだよ。長くて半年、短くて三週間でこうも転々としてたら気心の知れた友達なんてできるわけがない。母さんはともかく、誰も子供のわたしのことなんて覚えてくれないからね」
諦観を含んだ声で呟くように言うと、雪織は味噌汁を啜る。母は咀嚼していた鰤の皮を飲み込んで口を開いた。
「雪織。付き合いの長さで友人の格が決まると思ってるみたいだけど、そんなの母さんから言わせてもらえば、一緒にいる時間なんてあまり関係ないものだと思うね。もっと大切な何かがあるんじゃないのか?」
言いながら空になった自分の食器を持ち、流し台へ向かう母の背中に雪織は訊ねた。
「それって、何」
「さあねえ。……波長とかじゃない? いや、それだと友人より男の話になるな」
けらけら笑う母は娘の視点からも随分と幼い印象を受ける。元々童顔のせいか化粧をせずとも実年齢の四十二歳より十歳近くも若く見える母は笑うとさらに若く――と言うよりは子供っぽく見える。服の趣味も自分と違って派手な色や柄を好むせいだろうか、と雪織は考えた。自分は母より父に似ているのかもしれない、とも最近思い始めている。
「そう言えば、雪織は男の子と付き合いたいと思ったりはしないのか。お前くらいの年頃は男女共に恋愛したくなるんじゃない?」
「……興味はあるけど、なんか恋愛って面倒臭そうだよね」
「はは。まともに恋愛なんてしたことなさげなのに、恋に恋しないって感じで達観してるな。本の読み過ぎか? でも、面倒臭くない恋愛なんて香りのない花と同じだと思うけどね。お、我ながら大人っぽく格好いい台詞言えた」
「思わないし、わからない」
「じゃあ――ほら、早く食べ終えて荷作り開始」
「結局何も解決できてないよ」
不満げな雪織の呟きは流し台の蛇口から勢いよく出た水の音にかき消された。それから黙々と食事を終え、食器を流し台に持っていった雪織に母が言う。
「ねえ。転校生が来たら大抵色々と質問しに寄ってくる生徒が何人かいるだろう。その中の誰かいい奴を選んで友達になればいいんじゃない? 無難だけど」
「それがうんざりするんだよ。どこでも誰でも同じような質問を散々してくるくせに、結局はわたしの名前なんてほとんど誰も覚えてくれないんだ」
「は、何だそれ。そんなこと言われたら構ってほしいのかほっといてほしいのか、どっちなのかわからないよ」
「うん。自分でもわからないし、今自分で言ってることが矛盾してるって思った」
「別にいいだろ。子供の頃は誰だって矛盾したことを言っても責任を負わされずに済むんだから。今のモラトリアム期間を楽しめ、若者」
「…………」
食器を洗う母の手をしばらく無言で見つめていた雪織だったが、母が「何、手伝いたい?」と訊ねるとすぐさま自分の部屋へ逃げていった。
雪織は身の回り品を寄せ集め、いつも使う大きなトロリーバッグの中に慣れた手つきで押し込んだ。明日で最後になる市立中学校へ行くための荷物は別にしておく。愛用品を持つことができない生活をしているせいか持ち物への執着は薄く、鞄の中身はいつも同じ量だった。しかしそんな雪織でも唯一お気に入りと言える持ち物がある。雪織は机の上に置きっぱなしだった、宮沢賢治の童話や詩をいくつかまとめてある分厚い文庫本を手に取った。童話も詩も、宮沢賢治の作品であれば全て書籍で蒐集したいというのが本音だが、それでは嵩張るからという母の言葉には反論できない。そのため彼女は特に自分が好きな作品が載っているその一冊を大切に持っていた。
適当に開いた頁には『注文の多い料理店』の冒頭部分が書かれている。一行に目を落とすだけで、途端に二人の猟師が山奥を彷徨う世界が広がり始めた。思わずその世界の中に没頭しそうになったが、よく透る母の声が聞こえてきた。
「雪織。荷作り終わったんなら早く風呂入りなよ」
「うん」
現実に意識を引き戻された雪織は本をトロリーバッグに入れ、立ち上がった。
不意に外から騒がしい笑い声が数人分聞こえてきた。窓のカーテンを少し開けて外を見ると、このアパートの近くを女子高生らしき制服姿の集団が楽しそうにじゃれ合って歩いている。その近所迷惑な喧騒を耳にして、煩わしいと思う反面少し羨ましいと感じている自分に雪織は気づいていた。
恋人はともかく友達が欲しいな、と彼女は改めて思う。
出発日は快晴だった。
夜明け前の午前五時に起床した釵親子は一ヶ月半過ごしたアパートを出て、何度も列車を乗り換えて移動した。何のこだわりなのか、母はどれだけ遠い道のりでも新幹線や飛行機を滅多に使おうとせず、列車やバスを移動手段として好んでいる。
変わりゆく景色を窓から眺める雪織と違って、母は目を閉じて席に座っていた。眠っているのかと思いきや、突然愛用している万年筆と手帳を取り出して何かを書く。そして再び目を閉じ、しばらく経つとまた何かを書く。その繰り返し。曲がりなりにも物書きである母は、思いついた言葉の並びをすぐに書き留める癖があった。
「いい文章、書けそう?」
何気なく雪織が訊ねると、母は目を閉じたまま答えた。
「どうだろう。ここにメモした言葉はなかなかいいと思っても、完成した文が駄作になることもよくあることだからね。まだなんとも言えないな」
「そう」
「いくら母さんが立派な詩を書いて世間からそれなりの注目浴びようと、お前の敬愛する宮沢賢治の詩には勝てないんだろうね」
「生きた時代が違う人の作品を比べてはいけないんじゃないのか」
「ああ、確かにそうかもしれない。でもどうしても母さんの詩と賢治の詩をどちらか選ばないといけないとき、雪織は絶対宮沢賢治を選ぶんだろう」
母の言葉には自分を卑下している様子も娘を馬鹿にしている様子もなかった。ただ、わずかながら嫉妬の念が込められているように感じられる。
「好みの問題だよ」
言って母から視線を外すと、いつの間にか窓の外に海が見えていた。そして今自分達が乗っている列車が長い橋の上を走っていることにも気づく。橋の下は海だ。
今回は島に行くんだな、と行き先の情報を一切教えられていない雪織は予想した。都会より静かな田舎を好む彼女は自然と口元に弧を描いていた。そのうち規則正しく心地いい電車の振動に眠気を誘われ、彼女の目蓋は段々と重くなっていった。
「起きろ」
肩を叩かれ、はっと雪織の意識が浮上する。どうやら転寝をしていたらしい。
「次で降りる」
若干霞む目の前では母が降りる支度を始めているところだった。
「この島の名前は?」
「アヴァロン島」
「社会苦手だからって馬鹿にしてる?」
「お前は国語と英語以外どれも苦手だろ。猫窟島だ」
「え、何」
「びょ、う、く、つ、と、う。この島の名前。猫の窟の島って書く」
「へえ。いい名前」
列車が停車して二人は降りた。きょろきょろと辺りを見回し、雪織が呟く。
「静かなところだね」
駅舎はあるが改札は見事に無人だった。列車が去った後は風に吹かれた木の葉が擦り合う音や、名前も知らない鳥の囀りが聞こえるばかりだ。駅舎のすぐ後ろには大きな山が聳えている。深呼吸すると若々しさを感じる新緑の匂いが鼻を通った。
「次はバスに乗るんだ。……ほら、あのバス停」
母が指差したのは駅舎を出て十メートルも離れていない場所に立つバス停だった。どこにでもあるポールタイプの標識柱には『猫窟駅前』と書いてある。日差しや雨から守ってくれる屋根は存在せず、古びたベンチも錆だらけで簡単には誰も座らないだろう。
しばらく待っていると、時刻表に記されている通りにバスがやってきた。釵親子を含め、たった六人だけの客を乗せたバスは野菜畑や川の近くを進んでいく。すれ違う車や人はまばらで、改めてこの島が都会の喧騒から遠くかけ離れた田舎であることがわかった。やがて母に促され、降りた場所は閑静な住宅街だった。
「今回はアパートやマンションみたいな集合住宅じゃなくて一戸建てだ」
その言葉に雪織は思わず耳を疑った。
「いつの間に?」
「和菓子から借りた――って覚えてないか。学生時代、二学年下の後輩だった知り合いが住んでるんだよ、ここ。一応雪織も何度か会ったことあるんだけど」
「…………覚えてない」
「だろうな。で、彼女に今度猫窟島に住むって話をしていい物件探すのを頼んだときに、そいつが借家を持ってるって言ってきたからね。昔のよしみで安く借りることができた」
「それで、一戸建て」
「そう。今日は一日留守にしてるって言ってたから、明日雪織が学校から帰ったら挨拶しに行くよ。向こうはちびだったお前を覚えてるはず」
ほどなくして釵親子は借家に着いた。女二人だけが住む場所に小さな庭がついた一戸建ての2LDKとはやや贅沢なのではないかと雪織は思ったが、当然不満は全くない。雪織の部屋は以前借りていたアパートの部屋よりも広々とした洋室になった。母が和室を気に入り、そこを自分の部屋にすると言って譲らなかったからだ。
「畳好き。こんなにいい畳の匂い久しぶり。この和室はきっと物書きのために作られたに違いない。つまり、ここは母さんの部屋だから。はい決定。雪織は向こうの洋室を使え」
畳の上に転がるなり母はそう捲し立てた。交渉の余地がない様子はまるで我が儘な子供だと内心呆れる。それでもどちらかと言えば親に対して聞き分けがよく、従順な娘に育っている雪織は無言で洋室に向かった。
「本当に広い」
綺麗に磨かれたフローリングの床に足を踏み入れ、その広さを実感する。雪織も母も、荷物は持ち運びの限界まで詰め込んだトロリーバッグだけで他には何もない。室内にはすでに最低限の家具――シングルベッド、箪笥、ハンガーラック、学生向けの机と椅子――が置いてあったが、雪織の持ち物に無駄な荷物がないためか余計に広く感じた。
ひとまず雪織はトロリーバッグを開き、明日から余所者の象徴となるだろう制服をハンガーラックに吊るしておいた。