5
あれは何の話をしていた時だったか。
ふと何の気なしに尋ねたことがあった。
あなたにご兄弟は居るんですか?
いる。妹がひとり。生意気で可愛くないんだ。
あらあら、元気な妹さんなんですね。
出来るならお会いしてみたいものです。
叶うわけないと知りながら、そう呟いてみた。
すると彼は幼い顔をしかめて、唸っていた。
え、どうしたんです?
うう~ん、あいつ暗い所怖がるからなあ……引っ張ってくるのは、無理かなあ……。
あ、でも何かで釣れば来るかも、と彼は呟いていた。
私はそれに、何と答えたのだろう。
「こんにちは~今日は木の実のケーキだよっ。お茶にしようよっ」
朗らかなシエナの声が、静かな部屋に響く。
窓辺のテーブルで本を読んでいたナギは、はっと顔をあげた。
にこにこと笑いながら、シエナはいつものように植え込みをかきわけ、庭を通り抜けて窓辺へとやってきた。
彼は大抵、扉の方からではなく庭を抜けてやって来る。何故かと尋ねようと思いつつも、悪気など微塵もないような顔でにこにこ笑う彼を見ていると、まあどうでもいいかという気にさせられるのだ。
「あれ、本読んでた? 邪魔しちゃったかな」
「いいえ、大丈夫ですよ。いつも美味しいお菓子をありがとうございます。今お茶を淹れますね」
ナギは身軽く立ち上がり、茶の準備をする。
本を開いてはいたけれど、内容はちっとも頭に入らず、ページもめくられていない。
どれほどぼんやりしていたのか、シエナの気配にも気付かなかったくらいだ。
いけません、気が緩んでますねえと首を振りつつ庭の方へ目を向けると、シエナはいつものように東屋の椅子に腰かけている。
彼は王よりも頻繁にナギの元を訪れるけれど、何故か部屋の中に上がり込むことはなかった。
東屋のテーブルに皿やナイフ、茶器などを運ぶ。慣れた手つきでナギがお茶を淹れるのを見ながら、シエナは心底安心したような声で言った。
「きみがここへ残ってよかった~。出て行くって言われた時はどうしようかと思ったよ」
「何故です?私など、居ない方が皆さまにとっていいんじゃありません?」
シエナがあまりに安心した様子だったので、思わず少し意地悪な口調で尋ねてみれば、シエナはふるふると首を横に振り、大真面目に答えた。
「そんなことないよ! 本当に出ていかれてたら、ランドは寂しがるよ! きみが来てからすごく嬉しそうだし……そりゃまあ、仕事でなかなか会いに来れないみたいだけどっ、でも」
ランドがここにあまり来ない事を知っているシエナは、庇うように言い募る。
「いえ、そうあの人庇わなくてもいいですよ。まあ……すぐに出て行くつもりではありませんけど、ね」
このままずっと居るつもりでも、ありません。
ひそりと心の中で呟きながら、けれどそれを目の前の青年に告げる気はなかった。
叱られた子犬のように悄然としている青年には。
この青年も王の側近の一人だと言う。
先日ここを訪れたあの青年とは、同じ側近でも随分雰囲気が違うものだと思うが、色んな人間が王の傍にいてくれることが、ナギを安心させた。
長いこと誰からも忘れられていたナギとの“通信手段”。
大きな鏡は、がらくたのように暗い部屋へ押し込められ。
単調に更新されるだけの“契約”。
それは……かつての王と交わした契約が、時の流れの中で、今や価値のないものとみなされたのだと知らしめるもので……哀しくは思ったがそれも仕方がないと諦めていた。
過ぎる時間の前では、何もかも変わってゆく。
そんなふうに諦めていたから、何十年ぶりかになる鏡を通しての会話は、とても嬉しく、楽しかったのだけど。
あの子には時の淀んだ、暗い所じゃなくて、明るい光の中に居てほしいから。
古い時代の遺物そのものの自分のことなど、放っておいてほしいのに。
「う~ん、でもほんとなんだよ? 俺がきみの住んでいた村に行く前なんか、すっごく神経尖らせてたもの。あ、でもさ、なんで俺を使いに出したのか、いまだにわからないんだけどね。だってきみの住んでた所遠すぎるよ! 俺、何度遭難するかと思ったことか! もう一度行けって言われても無理! 」
まあ確かにとナギも頷く。
あの時は酷い様子でいらっしゃいましたものねえと。
荒事には向かない様子のシエナであるから、時として盗賊も出るような辺境への旅は辛かったはずだ。
長旅に出すにはまるで不向きな青年を何故王は使いに出したのか、今でもわからない。
「……あの子が何を考えているかなんて、私にはわかりませんしねえ……」
思わず呟くと、シエナは困ったように眉を寄せる。
気にしないでくださいな、ただのひとりごとですとナギが答えた時、扉を叩く音が聞こえた。
あら、今日はお客様の多い日ですねとナギは首を傾げ、部屋の方を向きどうぞと声を張り上げる。
すると扉の向こうから、陽気な声とともに、豪奢な金の巻き毛に新緑の目を持った、紅いドレス姿も艶やかな女性が現れたのだった。
「ふふふ、お兄様ったら、こんなところに可愛い子隠しちゃって。ほんと隅に置けないわねっ。ね、私とも仲良くしてくれると嬉しいわ」
よろしくねと微笑む女性に、ナギはどう反応していいやら困り果てたのだった。
初めてお会いするわね、王の妹のクローネよ。
突然現れた女性はすたすたと東屋までやって来ると、にこやかに笑って名乗った。小柄なナギとは異なり、すらりと背の高い女性だ。
彼女は、こちらいいかしらとナギの向かいの席を示す。
ええ、どうぞとナギが答えると、ちょっとお邪魔するわねと言って腰かけた。
「姫さま、いつ帰ってきたの? 」
シエナは身軽く立ちあがると、クローネと名乗った王妹のためにお茶を淹れ、差し出した。
シエナはお茶を淹れるのが上手で、ナギも時々淹れてもらう。顔を出すたびにお菓子をもらうので、そのお礼がてらナギが淹れる事の方が多かったけれど。
訪れた女性が王妹とわかり、ナギは室内で話を聞こうとしたのだが、外の方が気持ちよさそうだわと彼女が言うので、東屋で話をする事になったのだ。
シエナはクローネにお茶とお菓子を差し出すと、テーブルの端に着いた。
言葉づかいや態度が、王妹に対するものにしては気安すぎるようにナギは思う。
そういえば、王に対してもこんな感じでしたねえと思い返した。
クローネは青年の言葉遣いや態度について、まるで気にしてないようだった。おそらくこれがいつものことなのだろう。
お茶のいい香りが漂う中、クローネは答えた。
「ついさっきよ。今日帰って来るってお兄様には知らせてあったのに、出迎えもないんだもの。ま、お忙しいでしょうから、仕方ないわね」
あなたの淹れるお茶飲むのも久しぶりねと笑う王妹。
首を傾げたナギに気付いてか、クローネは言った。
「私、隣国へ留学していたのよ。三年ほどね。で、帰国してみればお兄様が可愛い子囲ってるっていうじゃない。これは是非顔を拝まねば、と思ったわけ」
可愛い子だの、囲っているだの、すぐに頷けない単語が出てきた気がするが、とりあえず黙って話の先を聞くことにした。
「……誰に聞いたの、ナギの事。あんまり、表向きには知られてないはずなんだけど~」
「口うるさい人たちには聞いてないわよ。レアルに聞いたのよ」
クローネは王の側近の名前をあげる。
あら、とナギは不思議に思った。彼は自分がここへ留まる事をよく思っていない。その彼が王妹にわざわざ告げるとは意外だった。
「それは……わざわざお越しいただき、ありがとうございます」
彼女にとって拝んでも楽しい顔ではないだろうが、ここは一応頭を下げねばならないだろうとナギは礼を言う。
クローネは目を細め、じいっとナギを見ていた。
あまりに見つめられるので、居心地が悪くなったくらいだ。
「あの……?」
思わず窺うようにナギが声をあげると、クローネはにこりと笑った。
「ああ、ごめんなさいね。何だか感慨深くってね」
何の感慨ですかと聞いても、王妹は笑うばかりで応えてはくれなかった。
「……あの人には妹さんがいたんですよ、ね」
そうでした、そうでした……。
王妹も青年もいなくなった部屋で、ナギは呟いた。
しばらくの間、三人でお茶を飲み他愛ない話をしていると、部屋の扉を叩く音と、年配の侍女の声がした。
姫さま、そろそろお時間です、お戻り下さい、と。
クローネは、あらつまんないわ。お兄様に一応挨拶しなきゃいけないのよ。また遊びにくるわねと言い置いて、シエナとともに部屋を出て行った。
日が傾き、橙色に染まり始めた庭を眺めながら、ナギは物憂く呟く。
「そう言えば随分前にお聞きしましたっけ。でも、やはり一度もお会いする事がないままでしたね。どこかあの方に似ている気もしますね……やはり、血筋でしょうか」
日の光が似合う、鮮やかな夏の花のような王妹は、ナギが直視するにはいささか眩しすぎる。
こうして薄暗い室内から、目を眇めて眺めやるのが精々だ。茶器を片づけながら、ため息をつく。
もともと住んでいた家は訪れる者も少なく、静かな暮らしをしていた。
静けさには慣れているはずだった。
けれど、人の去った後の静けさを耐えがたく思うのは何故なんだろう。
いけない、いけない。
本当に長くここに居すぎましたね。
ナギは苦笑する。本当に早く立ち去らなければ、と。
「お兄様も隅におけませんわね。あんな可愛い子連れ込むなんて」
「……お前は帰国の挨拶もすっとばしてソレか。そのうすら笑いもやめろ気持ち悪い」
「あら、それは失礼を。……お兄様、留学先より帰国いたしました。我儘を聞いていただき、ありがとうございました」
ドレスの裾を摘み、優雅に挨拶をする妹を、ランドは疑わしげに見つめる。
「あら、そのお顔は何ですの」
「……お前がそう素直だと気持ち悪いな。まあともあれ、長の留学ご苦労だった。留学の成果については後日聞くことにして……何でお前、あいつの所に行ったんだ。というか、誰が教えた? 」
彼が、とクローネは手のひらでレアルを示す。
レアルは眼鏡を指で押し上げながら、涼しい顔で答えた。
「思いきりまかり間違えば、姫さまの義姉上になられる方ですからね。お教えするのが筋かと」
ああそうと不機嫌な顔も露わに吐き捨てるランドに構わず、クローネはあら、とにっこりと笑う。
「私、お義姉様って呼ぶのなら、あのひとがいいわ。だってとっても可愛らしいんですもの」
クローネの発言にレアルは頭痛を堪える仕草をし、ランドは大きな笑い声をあげた。
「そうか、あいつを気に入ったのか。なら仲良くしてやってくれ。俺はなかなか会いに行けないしな」
退屈してるだろうから、気晴らしに付き合ってやってくれと言うと、クローネは勿論よと大きく頷いて請け合った。
「色々着飾って貰うのも楽しみだし、髪も伸ばしたらもっと可愛いと思うのよね! いじりがいがありそうなのよ」
「そのあたりはお前に任せるから、好きにしてくれ」
あれは衣装をやっても嬉しそうじゃないし、いつも地味な格好しかしないんだ。別に悪いってわけじゃないが、もう少し何とかしてやりたいんだ、だの、あら、お兄様の事だから派手派手しい衣装贈ったんでしょう?私に任せてよ、とびきり可愛くしてあげるから!
何やら楽しそうな王と王妹の傍で、一人側近だけが大きなため息をついていた。
そしてひとしきりしゃべると、クローネはにっこり笑って言ったのだ。
「私はあの人をお義姉様って呼ぶ事に賛成よ。だからお兄様、あの人に逃げられないようにして下さいね?」




