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おとないの声もなく部屋の扉は大きな音を立てて開いた。
険しい顔をしてやって来たランドは、窓辺に佇むナギのもとへ近寄った。
大きな窓越しに差し込む午後の光が、少女のような彼女の痩せた体を縁取っている。
身を包む衣装はランドが贈ったものではなく、彼女がここへ来た時着ていたものだった。
ナギは王の突然の訪問に驚いた様子も見せず、ほのかな笑みさえ浮かべていた。
彼女の手から荷物を奪い取り、ランドは厳しい顔で問い詰める。
「ここから出て行くとはどういうことだ」
シエナから聞いたぞと問えば、ナギは凪いだ水面のような静かな声で答えた。
「私がここにいて、何かすべきことがありますか? 季節がひとつ過ぎるほど居りましたが、その間私がしたことと言えば、花を眺めお茶を飲むくらいの事ですよ。私がここへ居る意味があるんでしょうか」
ただ、傍には居られないと言うナギに、ランドはそうじゃないと語気を強めた。
「何をしてくれと言うつもりはない。ただここに居てほしいんだ」
いいえとナギは首を振る。
ランドの顔を見上げ、言った。
「あなたの望む限りここへ居りましょうと私は言いました。けれど、今の状況ではそれは難しいようですね。事実、季節が一めぐりする間で、あなたのお顔を見たのはさて、両手で数えられるくらいです。私の耳にも些か事情は聞こえていますが、私は籠の鳥になるつもりはありませんので」
このあたりでお暇させていただきます。
ご縁がありましたら、いつかどこかでお会いしましょう。お元気で。
荷物もそのままに、ランドの傍を通り抜けようとしたのだが、ナギは立ち止まらざるをえなかった。ランドが腕を掴み引き留めたからだ。
腕を掴む力にナギは眉をしかめる。
「離して下さい」
ランドは緑の目を眇め、ナギを見おろしていた。
「嫌だ。ここで離せば、お前は二度と俺の前に姿を現さないだろう? それくらい、これまでの付き合いでわかっているさ。お前を縛る契約はもうない以上、お前は何処へでも行ける。何処へ行くつもりなんだ? 」
「それこそ、貴方には関係のない話でしょう? 契約が無い以上私が貴方に従う謂われはありませんよね。離して下さい、腕が痛いんです」
「嫌だと言ったろう。離れると言うなら、離れられない理由を作ってやろうか?……そうだいっそ、お前を孕ませてやろうか。そうしたら此処へいる理由ができる」
ナギは信じられないと言った様子で目を見開き、ランドの顔を見上げた。 ランドの目には暗い光が浮かび、まるで知らない人のように見える。
幼い頃からを見守り続けた彼ではないように見え、ナギは離れようともがいた。
何をどこで間違えたのか、ナギにはわからない。
しかし、そんな抵抗もランドには通じず、ナギは部屋の奥、彼女が寝室として使っていた部屋に引きずって行かれた。
寝台の上に体を投げられ、跳ね起きて逃げる間もなくのしかかられる。
頭上で両手を抑えられ、体全体で覆いかぶさってこられれば、力で抵抗するすべはなかった。
間近に見える底光りするような瞳と、対照的に笑みの浮かぶ口元がなんとも言えず恐ろしかった。
「離して……っ」
言葉は途中で重なる唇の中に吸い込まれた。
離れたかと思うとすぐに重なり、息もできないほど深く口づけられる。
息苦しくて顔を背けようとしても、許されずさらに深く貪られる。
このまま流されるわけにはいかないと思うのに、次第に思考が霞んでゆき、手足に力が入らなくなる。それを見て取ってか、ランドは押さえつけていた腕を離し、ナギの衣装に手をかける。
「……その辺で、止めておきなさ、い。今なら、まだ引き返せます、よ」
咳き込みながらナギは忠告した。
熱で潤む瞳とは対照的に、何処までも冷静な彼女の口調にランドは苛立ち声を荒げた。
「引き返すつもりなぞない……っ」
力任せに彼女の衣装を引き裂いた。何度も水をくぐらせ、色褪せた地味な衣装の下から現れたのは、丸みに欠けた白い肌と、その肌の上に残る幾つもの……。
息を呑み言葉を失ったランドに、ナギは露わになった肌を隠しもせずに言った。
「だから言ったでしょう。後悔するのはあなたの方。こんな酷い傷跡が残る体を抱いたとして、楽しいとは思えませんよ」
大人になりきらぬ、少女のような肢体。
その体の……普段は衣装に隠れて見えない部分に、無数の傷跡が残されていた。消えかけ白い筋のようなものを残しているのみの部分もあるが、殊更酷いのが胸の下から下腹部まで縦に伸びる傷跡だった。
その部分は白い肌とは対照的に引き攣れ、肉が盛り上がって赤黒く変色している。
この傷を負った時、おそらく彼女は命を落としかけたはずだ。
それほど酷く、また惨い傷跡だった。
「一体、誰がこんなことを」
傷跡を睨みつけるようにして、ランドは声を絞り出した。
さて、とナギは首を傾げる。
傷を負ったのは遠い遠い昔。
思えばそれから今につながる全てが始まったのだったが、それは今告げるべきことではなかった。
胸を過る遠い面影が、今の王と重なる気もしたが、瞬き一つでもの思いを振り払い、ナギは答えた。
「もう昔の事です。誰と答えても当の相手は土に還っていますよ……まあ、治安のよくない頃でしてね、性質の悪いごろつきに捕まって、殺されかけたんですよ。ほんの子どもの頃にね。ろくな抵抗も出来なくて」
刃物で切られた痛みも、身を裂かれるような激痛も今では遠くなっている。しかしあの時感じた恐怖だけは……こびりついて取れない染みのように残っているのだ。それが厭わしくてならなかった。
ランドはそっと膨らみの小さな胸の下、浮いた肋の辺りから、臍の辺りまでを走る傷跡を撫でた。
肌を辿る感触に、ナギが体を震わせる。
傷跡は滑らかな肌とは違い、変色し肉が盛り上がってしまっている。
ナギが少女のような外見とは異なり、長い時を生きているのは……それこそ、他でもないランド自身がよく知っている。
自分が幼い時から、初めて会った時から、ナギはずっと姿が変わらない。
何代か前の王から引き継がれたいくつかの“契約”。
更新のたび、その相手方も代替わりをしているだろうと当然のように他の者は考えているだろうが、ナギだけは“契約”を交わした相手方本人だった。
それを知る立場にあるのは、本来は“契約”により守護される王や、王位を継ぐ者のみ。しかしランドは前国王からその事を知らされず、偶然の出会いがなければ今も知らないままだっただろう。
何も知らず、今も彼女から守護されていたかもしれない。
“契約”ですし、十分な対価はいただいてますからと、彼女は気にしたふうもなく笑っていたが、それを本心と思うランドではなかった。
もし……彼女に会えた偶然がなかったら。それを思うと背筋が凍りつく気がした。
ランドはふるりと頭を振り、嫌な思いを振り払う。長い時を経てもこれほどまでに酷い傷が残るのなら……この傷を負った時、ナギは命を落としても不思議ではなかったのだろう。
それを思うと腹の底が煮えるようだった。術があるなら過去に現れ、彼女がこのような傷を負わないようにしてやりたかった。
唇を噛みしめていると、ランドは見おろす彼女の体が、かたかたと震えているのに気がついた。
そういえば触れる体がやけに冷たい上に、顔色もすっかり青ざめてしまっている。
「どうしたんだ」
ナギは答えることなく、目線を逸らしたまま自由にならない手足を動かしている。
拒絶されているようでランドは胸の奥が痛くなったが、冷静になるにつれ言いようのない罪悪感がこみあげてきた。彼女の意思を無視したばかりか、意に染まない事を強いるところだったのだ。
慌てて拘束していた腕を離し、彼女の上から体を退ける。すると彼女は震えるような息を吐き出したあと、細い両の腕で己の体を抱きしめるようにして、ランドに背を向ける形で丸くなった。
くぐもり、震える声で告げられた言葉に、ランドは息を呑んだ。
「親しい方になら触れるのも……時には触れられるのも平気になったんですけどね。突然触れられると体が勝手に強張って、冷たくなるんです。こればっかりは自分でもどうにもなりません」
それは、もしかして、とランドは言葉を絞り出す。
最悪の想像が脳裏をよぎる。
ナギはいっそ淡々と言葉を紡いだ。
「そのごろつきというのは本当に性質の悪い奴で。女と見ればさらい犯していたそうですよ。私などその時、本当に痩せた子どもでしたのにね」
彼女は背を向けたまま話している。
低く笑いながら、己の身を切り刻むように残酷な事を告げる彼女の顔を、ランドは正面から見ることが出来ただろうか。
強張り、小さく震える体が少しでも温まるよう、ランドは細い体を毛布で包む。
少し躊躇ったあと、背中からそっと抱き寄せた。自分にさえ触れられるのが嫌になっていても、仕方ないと思いながら。
抵抗されるかと思ったが、彼女は大人しくランドの腕の中におさまった。
「酷い事をした……悪かった。ただ、そばに居てほしかったんだ。ずっと好きだったから」
「……貴方も物好きですね。知っているでしょう? 私は貴方よりずっと年上ですよ。貴方が破棄した契約、それをかつての王と結んだ当の本人です」
「勿論知ってるさ。残されていた王の日記を読んだ。鏡を通して話していたときからずっと好きだった。いつか鏡越しじゃなく、じかに触ってみたいと思った。だから契約を更新したくなかったんだ」
あれがある限り、お前は俺の傍に来られない。
王を守護すると同時に王に害を為さないため、住む場所から出られない……そんな契約だったからとランドは続けた。
「本当に物好きですね……私も貴方の事は好きなんだと思いますよ。貴方と同じ意味かどうかは、自分でもわかりませんが。でも、貴方に抱きしめられるのは安心します。こんな面白みのない体でよければ、どうぞお好きにと言いたいんですが、ね」
そんなふうに言うなとランドはきつく窘めて、いまだ震えの止まらない体を抱きしめる。
ナギはごめんなさいねと言った。
「だから、私を傍においても、貴方にとって益にはならないんですよ」と。




