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「……はい、これで今日の分の書類は終わりです。サインをここに下さい」
「やっと終わりかよ……まったく、いい加減書類仕事ばっかりだと体がなまるなあ……ほらよ」
ランドはうんざりした表情も露わに、差し出された書類にサインをし、傍に立つ細身の青年に書類を突き返す。
受け取った青年はその態度を気にもとめずサインを確かめ、文書を文箱に仕舞った。
「お疲れ様です。貴方に書類仕事が向いてないのは百も承知ですが、これも王の務めですからね、諦めてもらいますよ」
「わかってる。もう今日の分は終わりだろう? 後はよろしく」
この国の年若い王であるランドは凝り固まった背を解すように、大きく背伸びをしながら立ちあがった。
ついでにがりがりと短く揃えた金の頭を掻いた。
城の奥にある王の執務室でのこと。
年月を重ね艶を増した重厚な執務机と、どっしりとした椅子、そして深い藍色の絨毯が敷き詰められた室内。淡い象牙色の壁には、歴代国王の肖像画が飾られている。
「ええ、サインさえいただければ、後はこちらで。ところで、この後どちらに行くおつもりです? 」
青年は眼鏡の奥の瞳を細めて尋ねた。淡い金の髪、そして薄い青の目と相まって、その言葉はいっそう冷たく聞こえてきた。
これまで何度となく繰り返してきた問答に、ついこぼれそうになるため息を押し留めて、ランドは青年に向き直る。
「……それをお前に言う必要があるのか?」
「魔術師殿の所、でしょう?」
ひんやりとした声音に、ランドは青年……側近であり幼馴染でもあるレアルに、鋭い視線を向けた。
ランドの緑の目とレアルの薄青の目が交差する。
レアルはランドの強い視線にもひるまず淡々と言葉を続けた。
「彼女をこれ以上城内に留め置いて、一体どうするつもりなのです? 彼女と交わしていた契約は既に解除されました。再び契約するわけでもない“魔術師”など、ここには不要でしょうに」
魔術師自体が前時代の遺物的なものになってきているうえ、かつてのように特別な力を行使する者は稀だ。
現に今城が契約している魔術師も、主な仕事は式典や儀式の際のまじないであったり、様々な薬草から薬を作ったりなどの薬師的なものである。
彼女が持っている力がどれほどのものかはわからないが、たとえ持っているにしても再びの契約など側近としては認められるものではなかった。
もし彼女が真に力を持っているとして……ただでさえ城内に不穏な空気が流れている中、“魔術師”との契約など、新たな火種となりかねない。
まして、前国王が病で早世したためとはいえ、若い国王を戴いた国は落ち着かない。側近としては手を拱いているわけにはいかないのだ。
「彼女と契約はしない」
それなら、と言い募ろうとしたレアルの言葉をランドは遮った。
「俺は……」
その言葉はしかし、別の声と足音でかき消された。
執務室の扉がノックもなしにいきなり開いたかと思うと、中に駆けこんできた者がいたからだ。
「大変だよっ、ナギがここから出て行くって言ってるのっ。とりあえずランド呼んでくるから待っててって言ったんだけどっ」
その言葉を聞くとランドは顔色を変えて走り出した。
レアルは深くため息をついてその背を見送る。
慌てて駆け込んできたはずのシエナは、対照的な二人の反応にきょとんと首を傾げるばかりだった。
もともとナギが城内に持ち込んだものは殆どない。
身一つで“言葉”それだけを頼りに空間を駆けてきたからだ。
ここに留まる事になるなど、あの時は予想すらしていなかったから、それは当然だった。
長く空けてしまった家の事を考えると、頭が痛いナギだ。
放置する結果になった食材やら、手入れが出来なかった畑などを考えると、ぞっとしてしまう。家に帰ったはいいが、おぞましい物体と遭遇する羽目になりそうだから、だ。
片づけやら薬草の植え直しやらを考えると、本当に頭が痛いですねえとため息をつくしかない。
が、今それを考えていても仕方ないので、取りあえずは戻る事を考えようかとナギは部屋の中を片づけながら一人呟いている。
「ううん、ここから家まで一気に“跳ぶ”わけにはいかないでしょうねえ……ここに働いている防御用の魔法と反発しそうですし。私自身がかけたものですけど、契約に基づいたものだから、反発するでしょうねえ……少し離れた所まで行ってから、“跳ぶ”ことにしましょうか」
家に帰るための魔法だから、契約なしでも力は使えるでしょう。
ナギは、基本的には契約なしには魔法を使わない。
どんな小さな魔法であっても、だ。
自分ひとりの暮らしには、魔法を必要とする事は殆どないからであるし、ある時からそう決めていることでもあった。
さて、とナギは一時暮らした部屋の中を見回した。派手さはなく落ち着いた室内。自分一人で使うには広すぎると感じる部屋だ。
あの頃もそう感じたけれど、今もまた同じことを感じている。
いつまでたっても自分は変わらないんですねと可笑しいような呆れるような思いがふつりと浮かびあがり、すぐに沈んでいった。
仮住まいの部屋にはたくさんの綺麗な衣裳や宝石、または本が持ち込まれていた。
それらはすべて王がナギに寄こしたものだったが、贈り物を嬉しいと思うよりも戸惑う気持ちの方が大きかった。
だから……そのうちのどれひとつとしてナギは持ち出そうとは思わなかった。
ここに居て欲しいと王は言った。贈り物の数々は、ナギを喜ばせるためのものだったかもしれないが、それなら物を贈るより先にすることがあるだろうにと、ため息をつきたくなる。
ここへ来た時の衣装に着替え、使った道具類を元に片づけると、ナギはもう一度部屋を見回し、そのまま視線を中庭へと投げる。
光が降り注ぐ庭には、花が咲いていた。
今も、あの頃と変わらずに。知らず、口元に笑みが浮かぶ。
「……この庭がまだ残っているとは思いませんでしたね。とっくに潰されているとばかり。花の種類は変わっていますが……あの頃植えた花の子孫が、いくらかでも残っていたら嬉しいんですが……この庭を見られただけでも何よりでした」
過ぎゆく時間は、容赦なくあらゆるものを変化させる。
そして時として何かが“在った事”さえ知られなくなることも、ある。
それが“時”というものだと知りながら、ナギは少しさびしいと思っていた。
この庭は……かつてここに自分が居た時、今はもう懐かしい人から贈られたものだった。
ここを仮住まいの部屋として使ってくれと言われた時には、心底驚いた。 この部屋が、この庭が残されているとは思わなかった。
元々、誰のために作られた部屋や庭であるか、今の王は知らないはずなのに。
あの頃……かつての王は彼女のために静かな部屋を、と用意してくれ、この度の王は彼女が煩わされないようにと人目を気にせず過ごせる場所を用意してくれた。
その心づかいは有難いのだけど。
むかしも今も、守られるばかりの籠の鳥になりたいわけじゃないのに。
どうしてそれを分かっては下さらないないのか。
囲い込まれても、息苦しさを覚えるばかりだ。
風に揺れる花々の色に誘われるごとく、一つ花を摘んで行こうかと歩きかけ、けれど思いとどまる。
身一つでここに来たのだから、ここから何も持ち出すまい。
持っていくのは思い出だけで十分ではないかと。
王はナギがここへ留まる事を望み、ナギはそれに応えた。
その時はそれでいいと思っていた。
しかし契約や約束無しに、これ以上留まり続ける事は難しいと思われた。
仕方ないことですね、とナギは寂しく思ったが、どうしようも出来ないことだった。
「さて、行くとしますか」
小さな包み一つを手に、ナギは歩き出そうとしてふと耳を澄ませる。
こちらに近づいてくる足音があったのだ。
乱れた荒々しい足音だが、誰のものか彼女にはわかる。
シエナが部屋を飛び出して行ってから、いくらも時間は経っていないというのに。
あらあら何をそんなに慌てているんでしょうねえとナギはゆるりと微笑んだ。




