足早な秋
熊野古道の坂道でふと玲子は立ち止まった。
あの人とこの道を辿ったのはいつのことだっただろうか?
わかり切っている問いであった。
だがその答えが出てこない。
きのう?
一週間前?
一年前?
十年前?
私は今年でいくつになったのかしら?
答えはまったく出てくる気配もない。
記憶喪失という言葉が頭の中に浮かんだ。
私は記憶を失ってしまったんだわ。
胸の奥深いところが痛んだ。
いつのことだったかは思い出せない。
でもあの人のことは忘れていない。
顔も、厚い胸板も、優しい声も。
ああ、あの人のことは忘れていないのだわ。
それだけで私はしあわせなんだ。
木々の繁みを通ってくる光は弱い。
昼なお薄暗い山間の道である。
玲子はゆっくりと歩いていく。
いくつも設けられている王子の度に立ち寄っては般若心経をそらんじる。
そしてまた歩き出す。
あの人の家は琵琶湖のほとりにあった。
人の良さそうな奥様と三歳になる娘さんがいた。
私が我慢しきれなくなって訪れたとき、あの人は家の庭で娘さんと遊んでいた。
とても楽しそうだった。
その横で奥様がにこにこと笑っていた。
垣根の影からその情景を見たとき、私の心にわきあがった感情は何?
あれは怒りだった。
あれは哀しみだった。
憎らしくて仕方がなかった。
でもあの人を憎むなんて私にはできなかった。
奥様の買い物用の自転車の籠に腹を切り裂いた蛙を投げ入れたのは私です。
娘さんの赤い靴を川に投げ捨てたのは私です。
ごめんなさい。ごめんなさい。
でも、それはみんなあなたが悪いのよ。
あの人が悪いのです。
西の空が燃えはじめている。
やがて世界は紅に包まれる。
時間がないわ。
早くしないとあの恐ろしい夜がやってくる。
闇には狂気が潜んでいる。
あの人は最後になんて言ったっけ?
ああ、そうだった。
ごめんと言ったのよね。
でもその言葉は遅すぎたのよ。
もう少し早く言ってくれてさえいれば。
あんなものをあなたに飲ませるなんてしなかったのに。
とりかぶとの毒はすぐにきいてくるわ。
神経を毒し、あの人を静かに眠らせる。
ああ、私はあの人をこの手で殺したのね。
だから私は記憶をなくしたのだわ。
これが罰なのね。
ああ、空が紫に変わった。
もう時間がないわ。
闇が訪れるのね。
熊野古道で人をたぶらかしていた狐が撃ち殺されたのは次の日の朝早くであった。
長年またぎを勤めている熊野衆であっても、撃ち殺したきつねの目に涙が溜まっているのを見るのは、初めてのことであった。