七章 夢と現実
目を開けた先は質素な部屋だった。家具はベッドと収納棚一つ、クローゼットのみ。
(ここは何処だ?)
全く見覚えが無い光景だ。ふと視界の端を横切る物を見つけ、その方向に頭を振る。
「ん?」
潤んだ黒目が大きな子供だ。年齢は三歳から五歳ぐらいか?長めの黒髪にフリルが付きまくった薄ピンクのパジャマを着ている。
(誰だ……?何処かで見た事あるような顔だが……)
一見性別の分からない男子は俺をじぃーっ、と見つめてくる。胸に刺繍されたデフォルメのクマは右手に熟れた林檎を持ち、こちらへニカーッと口を開いていた。
「お、おい。そんなジロジロ見るなよ」
俺が上体を起こすと、子供はベッドシーツに両手を無造作に置く。
「坊主、ママは?」
意味が分からないのか(本当に小さな)小首を傾げた。あれ、この仕草、前に誰かが……。
部屋を見回すと、斜め前に閉まったドアが一つ。どうやら出入口はあそこだけのようだ。
「じゃあパパは?」
今度は反対側に首を傾ける。矢張り何処かで……「っ!」心臓が、裂けそうな程痛む……駄目だ、少なくとも今は思い出せない。
患部を押さえようと腕を上げかけて、肘の内側に刺さった点滴に気付いた。
(ん?……何の薬だ、読めない)
張られたラベルに印刷されているのは、今まで全く見た事の無い文字だった。強いて言うなら古代語に似てない事もないが、判読は全く出来ない。
ギッ……スプリングが微かに軋んだ。隣を見ると、子供が両手を踏ん張ってベッドをよじ登ってこようとしていた。母親の教育の賜物か、下には脱いだ靴がきちんと揃えて置いてある。
「わっ!?」
不意に力が抜け、小さな身体がシーツを滑り落ちかけた。慌てて両手で脇腹の辺りを掴み、そのまま上まで引き上げる。
「ほい。どうぞ」
子供はぺこり、と頭を下げ、柔らかな天使の微笑を浮かべた。
(何だ、この子供……っ!また)この苦痛は何なんだ?
今度はこっちがつい見過ぎてしまったらしい。少し恥ずかしそうにもじもじされた。
「ああ、ごめん」
反射的に謝る。子供は小首を傾げ、しばらくしてまた微笑んだ。無邪気で、何処か儚い月のような……思い出した途端、一際強い痛みが襲った。空いた片手でどうにか押さえ付けて耐える。
「ん……」
愛する奇跡使いの面影を映す子供は、少女のような高い声を出した。そうしてからもぞもぞと俺の隣に潜り込む。
「そうだな。もう一眠りするか」
点滴が落ち切っていないし、何よりこの奇妙な心臓があらゆる動作を禁止していた。入り直し、せめて現実では喪われた愛し仔を抱く。
(まーくん……どうして死んでしまったんだ……?)
リアルの己の死も知らず、幼子は早くも眠ったようだ。安らかな寝息を聞きながら、何時しか俺も深い眠りへ落ちていった。
―――おい、大丈夫か?
誰だ?聞き覚えのある声だが、すぐには顔が浮かんでこない。
「おい、起きろウィルベルク!!」
突然耳元でがなり立てられ、堪らず瞼を開いた。勿論傍らに小さな誠はおらず、点滴の代わりに繋がれているのは自殺防止用の手錠だ。あれから何日食ってなかったっけ?水分は時々爺が水差しで含ませてくれるが、手首だけ見ても随分痩せたな。
「フン」
何故寛ぎのの自宅に対極の第七対策委員が?鬱を緩和させたい一心で爺が上げたのだろうか?
「下の聖樹が酷い有様だと言っていたが、まさかここまでとは。全く、大の男が情けない」
「悪かったな」
ドアの隙間から執事が覗いているのがチラッと見えた。何かあったら飛び込んでくるつもりだろう。非力な樹木の精のくせに。
「俺を嘲笑いに来たのか?用が無いならさっさと帰って親の仇を捜せよ」暇人が。
「随分な応対だな。まるで礼儀がなってない。ま、こちらも見舞いで何も持参せず来た身。人の事は言えんか」
手錠がカチャ、と鳴る。寝ている間に動かしたのか数箇所擦り傷があった。痛みを消した奇跡使いはとうに彼岸へ逝ってしまったと言うのに、だ。
「今のお前を小晶達が見たら何と言うか」
「止めてくれっ!!」
脱水で乾いた目を涙が覆う。そのまま止め処無く溢れ出す液体を、自由にならない肘で隠した。
「分かってる、分かってるさ……だが俺に、今更一体どうしろって言うんだ!?」
政府専用船で“碧の星”へ急ぎ戻った俺は、近隣の村の住人や警察、政府員達と焼け落ちた瓦礫を何時間も捜索した。―――しかし、遂に兄弟は見つからなかった。何日経とうとも、一度出来た心の空白は大き過ぎる。どう足掻いても決して埋められはしない。
「好きだった!初めて心の底から愛したんだ!なのに―――忌々しい魔女が、蟻を踏み潰すように二人を殺しやがったんだよ!!」全身に溜まった絶望を吐き出すように叫ぶ。
もっとこの気持ちに早く気付いていたなら……抱き締めた感触は覚えていても、まだ唇に触れてさえいない。仮令中性に近くても一応男同士だ。相思相愛なんて甘ったるい幻想は望まない。ただ彼が毎日微笑み、その傍らに小生意気な坊やがいれば、それだけで満足だったのに……。
けれど、もう全ては仮定。二人は何処にもいない。これが現実だ。
「―――腑抜けが。仇を討とうとは思わないのか?」
「無理だろ……相手は街ごと軽々焼くんだぞ?例え政府員全員が刺し違えても倒せないに決まってる。はは……臆病者だな、俺は」乾いた笑い。「いや、ただ虚しいだけだな。奴を殺したところで、もう」大好きな兄弟は帰って来ない。俺は―――孤独のままだ。
「小晶は勇敢だった」
無意識に頬がピクッ、と震えた。
「奴は躊躇わなかった。生存者を助けるため自ら炎に身を投じ」「馬鹿だよあいつは!!」思わず激昂してしまう。
奴が顔を顰めるのも構わず、俺は言葉を続ける。
「どうせ人間の寿命なんて六、七十年が精々だ。そんな連中を生き延びさせたって、どうせすぐ死んじまう。何もしなきゃ、まーくんは何百年でも生きていられたんだ。しょっちゅう輸血が必要で、種族を隠さないといけなくても……なのに」馬鹿だ、どうしようもない大馬鹿者だ。
「小晶は死んでなどいない!!」
不死族の天敵、第七対策委員とは思えない叫びに一瞬「は?」となる。「何を根拠に」
「今更分かったのだ。奴は一度も嘘を吐かなかった。そんな人間が、逮捕も恐れず自分は第七だと言った。盲目で阿呆な私が幾ら信じずとも、な……」
成程。ただの精神障害者では駄目。不死でなければ灰になっている。それがこいつのガチガチに固い頭でどうにか捻り出した『希望』か。
「―――死んでいるさ」
「何?」
「仮に生きているとして、何故連絡してこない?この宇宙で知り合いは俺達ぐらいのもんだ」
「奴に監禁されているのかもしれん」
「考えにくいな。“魔女”は“黒の燐光”を狙っていた可能性が高い。つまり二人とは敵同士だった。そんな相手を捕まえてどうする?」
「なっ……本当か!?」
「エル達はそう仮説を立てていたぞ―――少なくともあの火事の前まではな」
俺は不自由な右手を振った。
「帰れ。今日は疲れた」
「―――母が小晶を待っているのだ」
そう呟き、拳をキツく握り締める。
パタパタッ……。
「ウィルベルク、何故惚れた貴様が一番に信じてやらん?きっと今、あいつは餓鬼を守りながら一人で戦っているぞ……」
涙声の奴は何の前触れも無く、突然俺の前髪を掴んで力任せに振り始めた。
「奴を見捨てるな!最後まで足掻け!そのままミイラになってくたばるぐらいなら、せめて“魔女”と刺し違える気概を見せろ!!」
「そんな事して何になる?二人は死んだんだ!いい加減現実を見やがれ、この給金泥棒!!」
大音量に負けないよう、唾を飛ばして叫び返した。
「奴等の死体は未だ発見されていない!生存の可能性は充分ある!」
「専門家のくせに何にも知らねえんだな手前は!不死族には核って明確な弱点があるんだよ!そこに傷が付けば自我を失い、最後には」共同墓地での光景が脳裏を蘇る。「―――ただの黒い灰だ。それこそ骨も残らずに、な」
「っ……!?」
手をどうにか外し、顔を拭きもしない奴から視線を逸らす。
「だから諦めて帰ってくれ。頼む」
希望が僅かでも見えるだけで辛かった。不自由な手で両耳を塞ぎ、目を瞑る。
「―――ああ。どうやら、貴様なんぞを頼った私が馬鹿だったようだ」
「お互い様だろ?」
バンバンッ!!「お止め下さい!!」
胸板を思い切り拳で殴られ、流石に一瞬呼吸が出来なくなった。
「くそっ!放せジジイ!!」
薄目を開けると、暴れる対策委員を腕力で劣る爺が羽交い絞めにしていた。
「いけませんフィクス様!御主人様は酷く傷付いているのです!どうかそっとしておいて下さいませ!」
「五月蝿い!おいウィルベルク!既に腐りかけた貴様と私が同類であってたまるか!!撤回しろ!!」
解放されている両腕をブンブン振られ、老執事の眉が焦りに歪む。
「乱暴はいけません!」
「この裏切り者め!!」
精霊は罵る奴をどうにか引き摺りながら部屋から出し、ドアを閉めた。まだ廊下でがなり声は響いているが、耳元でやられるよりはマシだ。
「爺……悪い」
ほうっ。肺に溜まった、僅かに死の臭いが混じり始めた空気を吐き出す。―――船着場で吸い込んだ彼等の遺灰は、まだ肺胞の奥で引っ掛かっているのだろうか?だとしたら少しだけ嬉しい。
(寝てばかりも飽きたな……外で酒でも飲んでくるか)
遂に兄弟が出来なかった事を思い浮かべ、また虚が胸に広がるのを感じた。