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十七章 思いがけない帰宅



 一度は落ちた意識が浮上、瞼を開く。


「え……ここ、何処……?」


 頭上には物語の中でしか見た事の無い、立派な白いレースの天蓋。布団もふんわり沈み込み、直に石床で寝る小晶邸とは全然違う。身動ぎすると、羽毛布団から微かに甘いローズの香りがした。

 首を左に向けると、点滴台の頂に空のパックが見えた。管はベッドの中に続いている。


 キィ。「まーくん……?」


 艶やかな女性の声と共に扉が開かれ、私は身を硬くした。銀に輝くワゴンを押して現れたのは、見間違える筈が無い―――“炎の魔女”、だ。

「っ!!?」

 瞬時に船着場の惨劇を思い出し、上半身を起こして逃げようとした。が、右腕と左脚に今までに無い違和感を覚え、動作が止まる。

「良かった、気が付いたのね。具合はどう?」

 彼女は満面の笑みを浮かべて隣へ来た。ワゴンの上の水差しの中身をコップに注ぎ、私へ差し出す。「二日も意識不明だったのよ。飲める?」

「あなたは一体……何故、私の手当てを?」

「どうしてそんな事訊くの、まーくん?」首を傾げる。「お母さんが息子の看病をするのは当然でしょう?」

 意外な返答に思わず首が傾く。「息子?……私が、あなたの?」

「そうよ。ああ、可哀相に……火事のショックでまだ混乱しているのね」

 長い睫毛を伏せ、“魔女”は心底辛そうな表情を浮かべる。

 水を渇いた口に含む。丁度の温さで甘く口当たりがいい。聖樹の森の小川と似た風味がして飲み易かった。

 彼女は馴れた手付きで輸血パックを交換し、血が落ちるのを確認する。

「ご飯の前に身体を綺麗にしましょうね」

「え、ちょっと……!」

 抵抗する間も無い。羽毛布団を剥がされ、綺麗で高級なクリーム色のネグリジェを脱がされた。裸になり、やっと違和感の正体に気付く。


「うっ………!!」


 右腕と左脚は付け根から先がバッサリ無くなっていた。切断面には何故か包帯はおろかガーゼすら貼られていない。

「ショックよね、ごめんなさい。火傷が酷過ぎて治療のしようが無かったの。でも大丈夫よ。点滴さえしていればすぐ元通りになるわ」

 生えると言う意味だろうか?確かにこの身体ではまともに歩く事さえ出来ない。

 スッ、スッ……母はまるで硝子細工でも扱うように、お湯で濡らしたタオルを使って私の全身を拭き清めた。骨が剥き出しの傷口も丁寧に。

「はい、終わり。寒かったわよね?今新しいネグリジェを着せるから」

 慈愛に満ちた笑顔に、パニックは最高潮に達した。“炎の魔女”は紛れも無く私の母親だ。でも何故?どうして?

「まーくん?」背中のチャックを閉めながら、彼女は首を傾げる。「お腹が空いたの?そうよね、ずっと何も食べていないんですもの……じゃあ食堂へ降りましょう」

「え?わっ!!?」

 私を軽々と両腕で抱え上げた“魔女”は、真っ赤なヒールでドアを蹴り開けて暗い廊下へ出る。幅三メートルはある広々とした深紅の絨毯敷き、なのにそこには埃一つ落ちていなかった。



 危なげ無く精巧な装飾の螺旋階段を降り、シャンデリアと長机の広い部屋へ。二十人は優に座れるテーブル上には、等間隔に火の灯った燭台が置かれていた。ふとずっと奥へ目を向けると、左側に誰かが座っている。

「あら、ワームレイ。晩酌中?」

 “魔女”が親しげに話し掛けると、おや、坊ちゃまに奥様、彼は飲みかけのグラスとワイン瓶を持って立ち上がり、片腕で器用にこちらへ移動してきた。やけに身長が短いと思ったら、彼には両脚が無い。それでも私と違い、困っている様子は微塵も感じられなかった。

「御苦労様。今からまーくんの食事を用意するわ。あなたもおつまみにどう?」

「宜しいのですか?」

「勿論よ」

 私を手前、長方形の短い一辺の一席に下ろし、彼女は奥の部屋へ消えた。多分あちらがキッチンなのだろう。

「オドオドしていらっしゃいますね。まるで初めて来た人間のようだ」

「え、ええ……あの、あなたは“魔女”の御家族、なんですか?」

 質問に、彼はのっぺりした顔を向ける。どうやら表情に余り出ない人のようだ。

「いえ、恐れ多い。私はただの建築士です。奥様には既に坊ちゃまがいらっしゃいますから」

「建築士?」

「一体どうなさったのですか坊ちゃま?ワームレイですよ?覚えていらっしゃらないのですか?」

「え、ええ……済みません。その、記憶喪失で全く……」

「私如きに敬語など止めて下さい。あ、奥様」

 ワゴンを押してきた女主人は、次々料理の皿を私の前に並べ始める。―――え?

「あ、あの」何と呼び掛けていいか分からず、私は声を上げた。「三人分……なんですよね、この料理?」

「え?」真っ赤なルージュの唇から頓狂な声を出した後、破顔一笑。「何言ってるのまーくん?全部あなたのための食事よ。まぁ口に合わないなら私達も食べるけれど」

 今度はこちらが驚く番だ。

「で、でも十五品もあります。とても少食の私一人では」

「好きな物に口を付けていいのよ?まずは何が食べたい?」

 椅子の隣に立ち、端から順番に指差して尋ねる。

「大丈夫です、自分で」

「そうだ、冷めない内にスープをどうぞ」

 有無を言わさず深皿を手前に置き、銀のスプーンで掬って口元へ。今まで食べた事が無い程舌触りが滑らかで甘いコーンスープだ。「美味しい……」素直に賞賛の言葉が零れ出た。

「ふふ、ありがとう。もっとどうぞ」

 液体とあってするする咽喉を通り、あっと言う間に皿が空になる。

「今度は何が欲しい?」

「えっと、ではそのお肉のサラダ巻きをお願いします」

「これね。ちょっと待ってて。食べやすいよう一口大にするから」

 ナイフで半分に切り、フォークに突き刺して口元へ運ぶ。表面を軽くローストされただけの生肉からは赤い血が滲んでいた。牛や豚、鶏の物とは違うようだ。何の肉だろう?

 ぱく、もぐもぐ………「うっ!」覚えのある血の味に、思わず目の前の皿へ吐き出した。嫌悪感に生理的な涙が滲む。これ、まさか……。

「人肉食ったぐらいで驚くなよ」幻の燐さんが耳元で囁く。

「まーくん!?」背中を擦る。「急にどうしたの?口に合わなかった?」

「いえ……済みません。水を下さい」

「はい」

 一気に半分飲み干し、鉄錆の味を洗い流す。オロオロする母に、もう大丈夫です、動揺を押し殺しながら告げた。

「お肉が古かったのかしら?下げておくわね。口直しに甘い物でも如何?」手前にティラミスの皿が置かれた。

「あ、あの、えっと」

「何?」

「あなたの事は何と呼べばいいのでしょうか?その、済みません。私、記憶を無くしてしまっていて……」

 次の瞬間抱きすくめられて吃驚した。ドレスの胸元からの香水の匂いが鼻腔を刺激する。

「あぁ、可哀相なまーくん。道理でこの家も、私やワームレイの事も覚えていないのね。いいのよ、すぐに思い出せるわ。そうね……お母さんの事はかあさまと呼んで?前もずっとそう言っていたのよ?それも忘れてしまったの?」

「分かりました……かあさま、スプーンを貸して下さい。これぐらいなら一人で食べられます」

「そう?じゃあ私は横でワインを飲んでいるわね。ワームレイ」

「はい、奥様」

 何時の間に用意したのか、建築士は新しいワインボトルのコルクを抜いた。


 シュポン!トクトクトク……。


「やっぱり飲むならロゼね。美容にも良いし」

 グラスを回してテイスティングの後、徐に唇を付ける。「美味しい。でもまだ少し熟成が足りなかったかしら?」

「そうですね、少し酸味が」

 私も慣れない左手でクリーム状のムースを掬う。これも凄く美味しかった。ウィルやオリオール、聖樹さんにも食べさせてあげたい。そう言えば、

「あの、かあさま。オリオールは何処にいるんですか?私と一緒に」


「知らないわ」


 笑顔が消え、火事の中と同じ冷たい表情で“魔女”は言った。

「え?でも」気絶するまで必死に抱えていた。失った右腕の感触と共に、まだはっきり覚えている。

「私が助けたのはまーくんだけよ―――お母さんが嘘を吐いているとでも?」

「い、いいえ……ごめんなさい、かあさま。私の気のせいだったみたいです」

「あら、謝る程の事じゃないわ」口元を綻ばせる。「怖がらなくてもいいのに」

 どうにかティラミスを食べ終えたが、その頃には様々な感情が渦巻いて胸が一杯になってしまっていた。

「ごめんなさい、かあさま。もう食べられません」

「だから私相手に謝らないで。ならお部屋へ帰りましょう」

「はい」

 椅子が後ろに引かれ、再び抱き上げられた。女の人なのに凄い力だ。

「ゆっくりお休み下さい、坊ちゃま」

「ええ、お休みなさい」

 ワームレイさんに手を振って見送られながら、私達は食堂を後にした。




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