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アリシアと伯爵の愛とその終焉

作者: 尾田里佳子

「灰かぶり、おまえが幸せになれると思うな」

 妻が病に伏せり、長きにわたる闘病生活が終わったときに伯爵は言った。最愛の妻がこの先、一度も幸福を味わうことができない世界に旅立ったということは、娘や自分を含めた彼女の家族へ幸福が一生降りかかることなど許されないといった歪んだ論理であった。

彼の太陽ともいうべき世界の中心である妻を亡くしたのだ。伯爵と灰かぶりの心は閉ざされていた。寝台に横たわっている身体から伸びる手をいつまでも伯爵は握りしめていた。かつての妻であったそれからは徐々に熱が消え、人ならざるものになっていくのを感じさせまいと、自らの体温を必死にその肉塊へ移そうとする。

「もちろんです。お父様。お母様は一生私達と共にあるのです」

 灰かぶりは狂った父の言葉にうなずいた。そして、彼女自身もその言葉を疑うことはしなかった。異常なまでに母を愛する父にふさわしいのは母だけであった。母はともすれば、娘の存在など忘れ、最低限の貴族としての職務のみを行い、妻だけを愛し、妻のことだけを見ることしかない夫に娘を気付かせ、彼女を愛するとともに娘を愛させ、歪ではあるが家族という形を作ってこれたのは、今は亡き彼女のおかげであった。

「なぜお父様はお母様と逝かなかったのですか」

灰かぶりは表情を失い妻の亡骸だけを一心に見つめる父に尋ねた。

「彼女の最後の願いだからだ…。最後までお前のことを気にかけていた。お前を一人にするな、と。お前を幸せにするために、彼女の後を追ってはいけないということを約束した。私がそんなことできないことは百も承知であるだろうに最後まで愚かなアリシア」

 始めは灰かぶりへかける言葉であったが、亡くなったアリシアへ一方的に通じるわけもないのに語りかける異様な伯爵の姿がそこにはあるだけだった。

「アリシア。お前が望むならば私の命が尽きる最後まで、生きながらえよう。だが、死ぬ間際に考えていたことが私のことではないという事実は一生私の心に傷を残すであろう。他者を愛せず、娘のことを少しも愛せずに、アリシア、君だけを愛していたのだから。そのたった一人の愛する人を失った私には娘の幸せを考えることなどできない。そして、私のことだけを考えてくれなかったアリシア。なぜ共に逝くことを許してくれなかった。アリシア」

 伯爵はいつまでも狂ったようにかつてのアリシアだったものに話し続けた。灰かぶりは父に言葉が届かないことを察し、静かに扉を開け部屋から出て行った。

「お父様はもう駄目ね。きっと何もしないし、できないわ。お母様がいたから、私たちはこの暮らしを守れたのだから。おばあ様にお願いをしなければいけないな」

 彼らの世界を壊さないように、ドアノブを最後までゆっくりと回し、扉を背にして小さく息をついた。

灰かぶりは母が亡くなったのに何の感慨も沸いていなかった。いつも優しく父の腕の中で微笑む彼女のことを母とは知らなった時間のほうが灰かぶりには多い。もちろん、伯爵のことを父と感じたことなど皆無である。いつだって二人だけの世界を母でもなく、父でもない伯爵とアリシアの二人が構築していた。両親に子どもならば与えられる親からの愛情をもらうという当たり前のことを灰かぶりはとうの昔に期待しなくなった。物心つく前に、両親のことは一幅の絵画のように浮世だった存在として灰かぶりは、認識していた。

灰かぶりは彼女に与えられている北の間へ急ぎ足で行った。礼儀作法にいつもは煩いエルゼはアリシアが亡くなった知らせを受け、奔走している。灰かぶりを注意する使用人は誰もいないことを知っているから、灰かぶりは廊下を走った。部屋に着くと灰かぶりは、まず使い慣れた羊皮紙とペンを机の上に用意した。それから、彼女の体に合っていない大きな椅子に腰を下ろした。

「何と書こうかしら」

机の上に両肘を置いて顎に手を添えた、

「書き出しはこうかしら。親愛なるおばあ様。ついにお母様は遠い世界の住人となってしまいました。お父様はお母様と一緒に逝けなかった恨みを私にお持ちのようです。きっとこれからもお父様の心に住み続けるのはお母様だけなのでしょう」

 すらすらと羊皮紙に口に出す端から書き加えていった。

「おばあ様、私はこれからのことが心配です。お父様は今もお母様から離れようとしません。どうかおばあ様、伯爵邸へお戻りください。おばあ様がいなければこの家は滅びへ向かうばかりでしょう。愛をこめて、灰かぶり」

 灰かぶりの目から一粒の涙が紙に落ちて広がった。


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