机上の灯火
それは私が香霖堂に来てから二日目の夜のことだった。布団で横になっていると、霖之助の声が私を呼んだ。
「魔理沙。起きているかい」
私が寝ていたとすれば到底目を覚ますことはないような、小さい声だった。返事をするのも億劫だったので、私はそれを無視した。どうせ流れ星が綺麗だとか、そんな話だろうと思ったのだ。
「魔理沙。お客さんだよ」
しばらくすると、二度目の声が飛んできた。
「お客さん……?」
こんな夜中に客とは珍しい。ここが香霖堂であることも含めればなおさらだ。さすがに今度は無視できず、私は休眠状態に入っていた体を無理に動かし、布団から這い出た。寝ぼけていたせいで右手をいつもどおりに使ってしまい、しばらくその場でもだえ苦しむハメとなった。
「いてて……こんな時間に一体誰だ、香霖」
「やっと出てきたか。お客さんを待たせたらいけないよ」
「商売人みたいなことを言うんだな」
「僕は商売人だよ。おそらく」
霖之助と話すうちに頭がはっきりしてきた。
店を照らす灯りはわずかにランプ一つのみで、ガラスに包まれた炎が揺れるたびに連動して室内の影も動く。物置から出してきたストーブは今夜も大活躍で、一切の寒さを感じない。暗い夜を映す窓にはいくつもの水滴がはりついていた。
「で、誰が客だって?」
霖之助が私を起こしたということは、つまり客の目的が私にあるということだ。店の入り口に目をやると、ランプの炎を避けるような暗闇の中に、人影を二つ確認できた。
一人はすらりと背が高く、もう一人はそれと対をなすように小柄だ。揺れる光の先が時折フリル地のスカートを捉える。やがて二人は歩み寄って来た。暗い洞窟から姿を現すように、その正体があらわになる。
「夜分遅くにお邪魔いたしますわ、香霖堂さん。それに魔理沙」
「寒い中をわざわざ来てあげたんだから、感謝しなさい」
「何だ、メイドか。それに、えーと」
「レミリアよ。何で忘れているのよ」
「あ、そうだ。すまんすまん、寝ぼけてたもんでな」
「それが真実であることを願うわ」
真夜中の珍客は、紅魔館の仲よし主従だった。常識を大きく逸脱した訪問時間だが、それも仕方ないだろう。咲夜一人ならともかく、このわがままお嬢が来るというのは、つまりそれだけの覚悟を織り込んでおけということだ。
「で、今日は何をしに来たんだ二人とも。服のお披露目か?」
「咲夜、お茶」
「かしこまりました」
私の問いを完璧に無視して、レミリアはメイドに命令を下した。即座に答えた咲夜はどこに隠し持っていたのかティーセット一式を取り出して広げ始める。ものの数秒で準備は整い、あれよあれよという間に華麗なティータイムが始まってしまった。
「おいおいおい」
咲夜のあまりな手際のよさに思わず見蕩れてしまったが、この流れは明らかに異常だった。そういうことは自分の屋敷でやればいいものを、この二人はこんなところまで来て一体何がしたいのだろう。
「ああ、やっぱり落ち着くわ。紅茶は神が生み出した奇跡の結晶ね」
「お嬢様のおっしゃるとおりでございますわ」
ついには紅茶の素晴らしさを延々と語りだす始末だ。
「…………」
これには私も呆れてしまって言葉がない。それでもこの体たらくを傍観しているだけでは何の解決にもならないので、気乗りはしないが、私は再度二人に尋ねた。
「私に用があるんだろ。何をのんきに茶なんか飲んでるんだ」
「ん……? ああ、そうだったわね。すっかり忘れていたわ。咲夜、片づけてちょうだい」
「かしこまりました」
命に従い、咲夜がティーセットを片づけ始める。用意する手際もさることながら、後処理の早さも圧倒的だった。感心しながら眺めていると、咲夜が私に流し目を送ってきた。それは一瞬のできごとだったが、彼女の表情からは謝罪の意がありありと伝わってきた。「ごめんなさいね」と、あまつさえそんな声が聞こえてくるようだった。メイドも大変な仕事なのだ。それが一つの屋敷を切り盛りするメイド長ともなれば、日々の心労は絶えないだろう。私には到底真似できない。
「咲夜から聞いたわよ。お父上が倒れたんですって?」
「……ああ」
レミリアが話を切り出すまでの間に、咲夜はすっかり仕事を終わらせていた。先ほど私に見せた表情とはうって変わったすまし顔で主の傍らに控えている。不平不満はおくびにも出さず、私が見ても眉一つ動かさない。自分のなすべきことを知っている目だった。
一瞬、そんな咲夜の姿に親父の影が重なる。ほんの瞬き程度の錯覚ではあったが、ポラロイド写真のように目に焼きつく光景だった。
「容態はどうなのかしら?」
「いまのところは安定しているそうだ。永琳も看てくれてるし、このまま順調にいけば回復するだろう」
「そう。ならいいのだけど……」
レミリアの表情は、何かを懸念するように曇っていた。彼女がここに来た目的はおそらくそれに関係しているのだろうと、私は推測する。
「何かあったのか?」
単刀直入に私は尋ねる。
「お嬢様が見た夢についての話よ」
私の質問に答えたのは、レミリアでなく咲夜だった。
「いやに鮮明な夢でね。いまでもはっきり思い出せるわ」
咲夜の言葉を継いで、レミリアは自分が見た夢の内容を歯切れ悪く語り始めた。
レミリアがその夢を見たのは昨日の午後——香霖堂から帰って来た咲夜に親父の話を聞いた直後だったという。
「咲夜からその話を聞いていなければ私も無視していたのだけれど、その夢があまりにも聞いた話にリンクしていたものだから、これは何かあると思ったのよ」
気がつくと、レミリアは見知らぬ土地に立っていた。しかし辺りを見回すうちに、ここが幻想郷の人里なのだと理解した。実際に下りたことはなかったが、立ち並ぶ民家を遠目に見たことがあり、その時の記憶が残っていたのだ。
まぶしい光を感じ、レミリアは空を見上げた。雲はなく、視界は一面の青に満たされていた。白く輝く冬の太陽が彼女を照らしたが、一向に体が蒸発する気配はなかった。そのことに関して不思議に思うことはなかったそうだ。まあ、夢とは往々にしてそういうものだろう。
「そのときだったわ」
急な胸騒ぎを感じ、レミリアは何かに吸い寄せられるように振り返った。視線の先にあったのは人里のなかでも一際大きな建物で、雑多な商品が店先に並ぶ道具屋だった。掲げられた木の看板には「霧雨店」と記されていた。つまるところ、私の実家だ。
「なぜだかわからないけれど、私はそこに入りたくなった。いえ、入らなければいけない気がした、と言った方が正確かしらね。ともかく、私はその道具屋さんに上がりこんだの」
無断で上がりこんだことはここでお詫びしておくわ、とレミリア。そんなことを言われても、私は反応に困るばかりだった。
靴を脱ぐこともせず、レミリアはずかずかと店の奥に入っていく。初めて訪れたはずのその場所は、しかし不思議な懐かしさを彼女に感じさせた。部屋の数やそのつくりがまるで自分の家のようにわかる。外から帰ってきた当たり前の子どものように、居間の引き戸を開ける。
そこには誰もいなかった。小さなちゃぶ台には灰皿が置かれていたが、それは一度も灰皿としての用を果たしたことがないような光沢を保っていた。その他、茶箪笥などの家具はあるものの人のいた気配は残されておらず、滞った冷たい空気がその部屋を支配していた。
「ここに行けば必ず誰かがいると思ったの。根拠なんてないわ。ただそう感じただけ。魔理沙は家を出て久しいと聞くけど、その前までは居間が家族にとっての団欒の場だったんじゃない?」
「……ああ。置いてある家具もそれであってる」
私は内心で驚いていた。レミリアの言うことには一切の間違いがない。彼女が夢で訪れたという私の実家は、いままでの話を聞く限りすべてが正しかった。これはどういうことなのだろう。
「お前の能力ってことでいいのか、それは」
「おそらくはね。私が見たのは未来の霧雨家、言い換えるなら今後訪れる運命が可視化したものだと思うわ。目にしたものは鮮明でいまでも覚えているけれど、不思議と夢の中の私には現実感がなかったの。まるで幽霊みたいに、どこかふわふわと浮いているような」
半ば飛んでいるように、地に足つかない感覚だったそうだ。レミリアの意識だけが私の運命を見たとするのなら、その感覚にも何となく合点がいく。
彼女の話には、まだ続きがあった。
しんとした居間に一人で立ち尽くしていると、どこからか人の声が聞こえてきた。居間の突き当たりには奥の部屋へ行くための襖があり、声はどうもその向こうから聞こえてくるようだった。レミリアはちゃぶ台を避けるようにして居間を抜け、襖に手をかけるとためらいなく開けた。
そこに、初めての人影を発見した。生活感の抜き取られた居間とは違い、畳敷きのその部屋は人の息遣いで溢れかえっていた。中に何人か、見知った顔もあった。
部屋の中央には布団が敷かれ、三十代そこそこと思しき男性が横たわり、目を閉じている。辺りを囲む人々はみな悲しげに眉を顰め、それぞれに何かを口走っていた。
レミリアが淡々と語る中で、私は神妙な面持ちを崩さないように心がけていた。取り乱しそうになる心を必死に抑え、努めて冷静に振る舞う。それが、いまの私にできるちっぽけな努力だった。
「悲しそうにしていた……か」
「ええ。この辺りの記憶はぼんやりとしていてよく思い出せないのだけど、けして楽しそうではなかったわね」
「そうか」
もちろん、病人が寝込んでいる部屋に和気藹々とした空気が流れるのは不自然だ。たとえ経過が良好だとしても、そこにはやはり多少の緊張感が伴う。ピリピリと張り詰めた、常に予断を許さないような独特の空気だ。だから、私の心配も行きすぎた杞憂なのかもしれない。レミリアの見た夢が正夢だという確証だってどこにもないのだから。
「私が見た夢はここまでよ。そのあと急に意識が遠くなって、目が覚めたの」
「……親父の周りには、誰がいた?」
「霊夢と店主さんと、永遠亭の人もいたわね。あの、髪の長い」
髪の長い永遠亭の人とはつまり、永琳のことだろう。
「それに魔理沙、あなたもいたわ」
「…………」
深夜の香霖堂を支配するのは、押し殺した重い沈黙だった。人のすることにまるで無関心な時計の音さえ、どこか遠くへ失われてしまったかのように聞こえない。
この先、そう遠くない未来の私は、親父の枕元にいたのだという。そのとき私が何を思ったのか、何を経験したのか。それは私がこれから一つずつ体感していくものであり、いまの私に知りえることは何もなかった。
「魔理沙……私は」
「わかってる。覚悟は、できてる」
心配げなレミリアに、頷きを返す。彼女がもたらしてくれた情報は私にとっての朗報ではなかったが、しかしわかったことが一つある。
私は、親父から逃げ出さなかったのだ。
いまの私を裏切るようなことを、未来の私はしていなかった。それがわかっただけでも、得られたものは大きい。
「ありがとうな、レミリア。こんな夜遅くに」
私が礼を言うと、レミリアは安心したように微笑んだ。
「別にいいわよ。それに、夜は吸血鬼の時間だもの」
レミリアと咲夜は帰っていった。道中人を襲わないように釘を刺すと、レミリアは心外だと言わんばかりに笑みを引きつらせていた。素直に怒らないのが怖い。
窓の外を覗くと、そこには依然として黒い夜が広がっていた。吸い込まれそうな底なしの闇は、今夜が月のない夜であることを示していた。
夜明けまでまだ時間はあるが、寝なおそうにも目が冴えてしまっていけなかった。ほつれがちな髪をガシガシと掻いて、手持ち無沙汰に辺りを見る。
「何か作って食べるか……」
料理は苦手だが、簡単なものなら作れるだろう。私は普段あまり使わない台所へと向かう。そのときだった。
「いいのかい? 魔理沙」
二人を見送るまでついぞ口を挟まなかった霖之助が、天井を見ながら呟いた。
「ああは言って見せたけど、君も内心、穏やかじゃないだろう」
「……まあな」
レミリアの話には曖昧な部分が多く、親父の側に私がいたことと、皆が悲しげにしていたということしかわからなかった。極端な話、親父が生きているかどうかさえはっきりしないのだ。
「でも、焦ったって仕方ないだろ。私にできることなんてほとんどないんだ」
「そうだね、確かに君にできることはない」
霖之助の口ぶりはまるで独り言を呟くようだった。私のいるところから見えるのは彼の横顔だけで、表情を窺い知ることもできない。
「でも、だからこそ割り切ってしまうのはいけないと僕は思う」
霖之助は言う。
「これはこうなんだからとドライに割り切ることができるのは、精一杯の手を尽くした者だけだ。行動を起こす前から見切りをつけてしまうのはむしろ悪癖だよ。だから、いまは落ち着いてなくてもいいんだ」
「……でも、そんな」
彼の意図するところが、私にはわからなかった。努めて落ち着くよりも焦っていたほうがいいというのだろうか。
「少し違うな。自分に素直でいるべきだと言っているんだよ、僕は」
こちらを見もしないくせに、霖之助は見透かしたようなことを言うのだった。
「無理をする必要はないよ。大丈夫、僕にできることだってないんだ。それでも親父さんの側にいることはできる。だから魔理沙。君はその怪我がよくなったら、治った右手で親父さんの手を握ってやればいいんだ」
「…………そう、だな」
いつもどおりの偉そうな霖之助に、私は少し救われた気分になった。言い方はひねくれているが、彼は彼なりに私を心配してくれているのだ。
「ありがとな、香霖」
「さてね。僕の勝手な理屈だよ。それより魔理沙。時間を持て余しているのなら、君に見せたいものがある」
「見せたいもの?」
霖之助はおもむろに立ち上がると、台所に立つ私の脇を抜けて奥へと消えていった。しばらく待っていると、埃をかぶった彼が紙の箱を抱えて戻ってきた。
「何だ、それ」
「ちょっとした思い出の品さ。いま、開けるから」
奥の間から店先へと場所を移し、ランプの明かりの下で箱を開ける。中から出てきたのは高級感漂う数冊の本だった。
「本?」
論より証拠という風に、霖之助がそのうちの一冊を開く。何かを剥がすような音とともに、くすんだ色のページが姿を現した。
正確にはそれは本ではなかった。活字の代わりに敷き詰められていたのは幾枚もの写真で、そこには私のよく知る人物が写っていた。
「親父と、母さんか……?」
霖之助が満足げに頷く。
「へえ……こんな写真があったのか」
驚きだった。
撮られた場所はまちまちだったが、どの写真にも必ずと言っていいほど親父と母の姿があった。店先で撮られた写真もあれば、私が知らないところの写真もある。堅苦しい親父の仏頂面と、母の笑顔が印象的だった。
「いつか見せようと思っていたんだけどね」
「それがよりによっていまか」
「ははは……まあいいだろう」
機会を失ってしまいそうだから——と霖之助は付け加えた。
「二人とも若いな」
「それはそうさ。まだ君が生まれる前の写真だからね」
「撮ったのは?」
「僕だよ」
私が生まれる前の両親の写真。本当なら見ることのできない過去の光景が、こうして残されている。私は複雑な気持ちになった。
写真の中に写る両親は、表情に差こそあれ、どれも幸せそうな顔をしていた。
もしかすると、もしかするとだ。
「私は、生まれても……」
「何か言ったかい、魔理沙」
「……いや、何でもない」
心に湧いた疑念を、すぐさま振り払った。それだけは考えてはいけないことのような気がした。しかし、考えないようにするほどその闇は私の内側に浸透してくる。何か他のことを考えなければ、とても打ち消せない。
アルバムの一ページに視線を落とす。懐かしい我が家の光景が、そこにある。もうほとんど忘れてしまいそうな過去に、私は思いを馳せた。
次回は魔理沙の過去話となります。