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予期せぬ足止め

「帰ったぜ」

 慣れない左手でノブを回し、扉を押し開ける。途端に鼻をつくかびのにおいと、古くさいながらもどこかおもむきのある光景が私を出迎えた。実に一夜ぶりの香霖堂だ。けれど何より嬉しかったのは、

「暖かい……」

 店の中が、まるで春を吹き込んだように暖かいことだった。思えばこの暖かさも一夜ぶりで、油断していると涙腺が緩んでしまいそうになる。これからもミニ八卦炉を大切にしようと思った瞬間だった。

「おかえり。待ちわびたよ」

 読んでいた本から顔を上げ、私にねぎらいの言葉をかける霖之助。向けられた淡い微笑みは相変わらずの人畜無害さで、北風に冷えた私の心へとみ渡るようだ。一晩も待たせてしまったというのに、それに対する不満をちっとも顔に出さないのだからかえってこっちがすまない気持ちになってしまう。

 そうした霖之助の優しさに安堵を覚える一方で、私は別方向からえぐるような視線を感じ取っていた。わかっていながらあえて無視していたそれに、観念した私は向き直る。

「!」

 瞬間、魂まで貫くかのような眼光の刺突に私は意識を失いかけ、危うく持ち直すも再び見返すだけの戦意は粉々に打ち砕かれていた——。

 なんて大げさな説明をしてみたが、そこにいたのは悪鬼羅刹の類でも何でもなく、博麗霊夢だった。

 ただやはりその視線は凶悪で、私を射殺さんばかりに血走った瞳はさながら獲物を狙う狩人だった。

「れ、霊夢……?」

 心なしか呼吸も荒いように感じる。心配させてしまったのはわかるが、そのあまり殺されてしまうようないわれはない。

「…………」

 私を強く睨みつけたまま、霊夢が一歩を踏み出す。どうして床が抜けないのか、私は不思議でならなかった。

「魔、理沙……」

 そのまま二歩三歩と、霊夢は確実に私との距離を縮めていく。逃げ出そうにも目を逸らそうにも、あの紅い眼光に捉われては私の行動力なんて蛇に睨まれた蛙同然だった。

「ひっ……」

 悲鳴じみた声が喉に張りつき、うまく呼吸ができない。このままではいけない。頭は必死で危険を訴えるのに、肝心の体が時を止めてしまっていた。

 霊夢の両腕が私の首に回される。数秒を待たないうちに、私の喉は引き裂かれてしまうだろう。

 ——召される。

 思わず目をつぶったが、しかし私の予想に反して刑はいつまで経っても執行されなかった。その上、気がつけば私は霊夢に強く抱きしめられていた。あまりといえばあまりな展開に、私の思考は機能不全を起こしてしまう。

「……おい、霊夢?」

「もう、散々人を心配させて……遅すぎるのよ」

「…………」

 何となくだが、霊夢の目が血走っている理由がわかった気がした。

「霊夢。お前、寝てないだろ」

「当たり前でしょ。いくら待ってもあんたが帰ってこないのに、自分だけ寝ていられるわけないじゃない……ばか」

「……ごめんな。心配かけちゃったみたいで」

 そう言うと、霊夢はあっさり私から離れた。いい加減柄にもないことをしている自分に気がついて恥ずかしくなったのだろう。当然だ。あんなの、される私だって相当に恥ずかしい。

「ふん、まあいいわ。ちゃんと帰ってきたんだし、今回は特別許したげる」

「霊夢は一晩中君のことを心配していたんだよ。何度も君を探しに行くっていうものだから、その度になだめるのが大変だった」

「ちょっと、霖之助さん! それは言わない約束だって……」

「ああ、そうだったかい? ごめんごめん、忘れてたよ」

 確信犯の笑みを浮かべる霖之助に霊夢は恨みがましい視線を送っていたが、どうだろう。満更彼女も悪くなさそうな表情を浮かべているように見える。

「ははは……まあともかく。お帰り、魔理沙」

「……お帰りなさい」

「ああ。ただいま」

 少し照れくさかったが、私は心からその台詞を口にした。



「それでは君の決断を聞こうか、魔理沙」

 眠気が限界に達していた霊夢を布団につかせ、浮ついていた空気が多少落ち着いてくると、霖之助はいよいよ話の本題に入った。

 私と霖之助は、現在香霖堂にある奥の間で向かい合わせに座っている。

「…………」

 痛いほど真っ直ぐな彼の視線が私のそれと交わる。昨日までの私は、この瞳に応えられるだけの意志を持ち合わせていなかった。けれどいまは違う。いまの私なら、霖之助のどんな問いにも真実の私で向き合うことができる。

「親父と真正面から向き合う。それが私の出した答えだ」

 自分の決意を口にするのにてらった言葉や過度な装飾は必要ない。ただ率直であれば、真っ直ぐであれば、それは何より本物だ。

「うん。いい目だ」

 私の言葉を聞いた霖之助は、やがてゆっくりと頷くと、ちゃぶ台に手をついて立ち上がった。

「強い意志を秘めた君の瞳、親父さんのそれにそっくりだ。やっぱり血は争えないんだね。——嘘偽りない君の決断、確かに聞き届けたよ」

 私と親父が似ている。いままで霖之助から幾度となく聞かされたその言葉は、いまにしてようやく褒め言葉へと昇華した。

「格好つけんなよ、香霖」

 それでもやはり気恥ずかしくなって、私は霖之助に野暮なつっこみを入れてしまう。

 一度立ち上がった霖之助は、私の言葉を受けると気勢を削がれたようにまた座り込んでしまった。

「あはは、駄目だねやっぱり。僕はこういうことを言うのに向かないな」

「誰にでも適した役回りっていうのはあるんだと思うぜ。無理してその役を外れようとするより、自然体でいた方がずっといい」

「そうかもしれないね。けど、だとすれば僕に適した役回りは何だろう」

「差し詰め、商売下手で物好きな道具屋ってところじゃないか?」

「それは笑えないよ、魔理沙。言い返せない分余計にね」

 束の間の安息。それはほどなくして親父との直接対決にすげ替えられてしまうものだ。けれど、だからこそ私はこの一瞬を楽しみたかった。

「…………」

 談笑の後で、少しばかりの沈黙が生まれる。

「親父さんの見舞いには、いつ行くんだい?」

 柔和な笑みを消した表情で、霖之助が尋ねてくる。

「そんなの、今日に決まってる」

 その問いに即答を返して、私は立ち上がる。

「親父が床に伏せってるなら、すぐにでも行ってやらないと——」

「待つんだ、魔理沙」

 唐突に、霖之助が横槍を入れてきた。

「? 何だ、香霖」

「その怪我、一体どこで」

「!」

 慌てて右手を後ろに隠すが、見られてしまったものをいまさらどうしようもなかった。

「……何でもない。ちょっと擦りむいただけだ」

「見せるんだ、魔理沙」

 霖之助が身を乗り出してくる。本気で心配しているのだろう、眉を下げたその表情に私の心は少なからず痛んだが、それでもそんな心持ちとは裏腹に私は半歩退いていた。

「大丈夫だ。このくらい放っといたって」

「魔理沙」

 ——勝てなかった。

 霖之助の追及に負け、私は右手を差し出す。

「! ひどい怪我じゃないか。血も出ているし、爪まで剥がれてる。何でもっと早く言わなかったんだ」

「それは……」

 私は口ごもってしまう。

 この怪我を隠す理由は、とても霖之助に言えるものではなかったから。

「いま救急箱を持ってくるから。いいかい、また怪我をしたら、今度はちゃんと僕に言うんだよ」

 よっぽど何かを言い返したい気分だったが、言葉は声にならないまま腹の底へと落ちていった。

 幸か不幸か霖之助の治療は迅速で、あっというまに私の右手はぐるぐる巻きの包帯玉みたいになってしまった。これでは満足に物も掴めない。けれど抗議をしようにも、まったくの善意から生まれた結果を否定できるほど私は腐っちゃいないので、結局はこの状態に甘んじることとなった。

「なまじお人好しだから困るんだよな……」

「ん? 何か言ったかい?」

「何でもない何でもない」

 救急箱をしまう背中にそう返して、私は真っ白な自分の右手を見つめる。

 さすがに包帯玉は言いすぎだったかもしれない。一応手としての輪郭は残しているし、まるっきり手指が動かないというわけでもない。しかしまだ痛みは残っているので、やはり物を掴むのは難しそうだった。

「いやはや、救急箱を使うのは久しぶりだったから少し心配したけど、上手くいってよかったよ」

 押入れのふすまを閉めた霖之助が、私に向き直る。壁の掛け時計が八時を告げた。

「厚く巻きすぎな気もするけどな、包帯。やっぱり永琳にやってもらった方がよかったかな」

「本職の先生と比べられても困るよ。厚いとはいえきちんと巻けているんだから、そこは上首尾にいったと思ってもらわないと」

「そう思っておくよ。それに、永琳は親父にかかりっきりだもんな」

「……そうだね」

 わずかに声を落として、霖之助が頷く。

「霊夢はいつ目を覚ますかな」

 奥の寝室で規則正しく胸を上下させる霊夢に、私は目をやる。

「お昼までには目を覚ますだろう。——けれど一つ言っておくよ魔理沙。親父さんの看病に行ってはいけない」

「なっ……どうして!」

 勢い込んで立ち上がる私を、霖之助が片手で押しとどめる。

「当たり前だろう。そんな状態で歩き回っては危ないし、第一病人を見舞う側が怪我をしていてどうするんだ」

「そんな、私は平気だ! そりゃあ怪我はしているけど、他の部分はピンピンしてる! 親父の見舞いに行くくらいなら……」

「お見舞いに行くのがいけないんだよ、魔理沙。それ以外の用事ならまだしも、怪我をした状態で親父さんの前に立ったら心配をかけてしまう。不要な心配事はない方がいい。本当に親父さんのことを考えるのなら、なおさらだ」

「…………」

 腑に落ちた正論に、あえて太刀打ちしようとは思わなかった。

「わかったよ」

 けれど、それも仕方ないとも思った。

 この傷は、あの親鹿を埋める過程で作った、私の決断の証なのだから。



 三日。

 その間、霖之助は私に香霖堂への居候を命じた。もともとそんな気はないのに、彼はよほど私が霧雨家に帰ってしまうことを危惧しているらしい。単に忠告をするだけでは飽き足らず、私は霖之助の監視下に置かれてしまったのだった。よく言えば規則正しい生活、悪く言えば軟禁状態である。ちなみに私のイメージとしては後者のほうがより状況に即していると言える。

 と言っても気楽なもので、三日間ここを出られないことを除いては、特に何が課されるというわけでもない。店番をやらされることもない(仮にやらされたとしても客は来ない)し、掃除をさせられるなんてことももちろんない。この怪我が親父に心配をかけるくらいなら、ということでその件に関しても折り合いはつけているので、私がここにいなければならない理由は実質存在しないのだった。

 そうなると、急速に鎌首をもたげてくるのが暇という問題だ。外に出ることができない状態で暇を潰す方法といえば必然的に室内での娯楽になるのだが、悲しいかな香霖堂このみせにはそういった要素が皆無だった。霊夢は目を覚ますなり親父の店に行ってしまったし、こうなると気ばかりが急いてどうにも落ち着かない。

「道具屋のくせに何もないよな、ここって」

 奥の間の畳に寝転がりながら、私はぼやく。

「失礼な。香霖堂にだって娯楽の一つや二つはあるさ」

「将棋ってのはナシだぜ。いい加減やりすぎて飽きたからな」

「君がそう言うだろうと思って、僕も新しいものを用意しておいたよ」

 ほら、と言って霖之助が店先から放ってきたのは、ずらずらと文字が書きたてられた紙束だった。

「なんだこれ。新聞じゃないか」

「今日の朝刊だよ。君も読んでみるといい。少し脚色がオーバーな部分もあるけど、読み物として見ればなかなか楽しめるから。二月ふたつき前までならバックナンバーも残してあるし、暇つぶしにはなるだろう」

「ふーん」

 霖之助の饒舌な語りを話半分に聞きながら、私は受け取った新聞をちゃぶ台に置き、広げる。空いた左手で読むには、こうするほかなかった。

 軽く目を通してみると、これがまた随分と記者の独断によった記事だった。

 どうどうと銘打たれた『文々。新聞』の題字タイトルに、紙面を所狭しと彩る写真や活字。そのすべてが射命丸文という天狗の性格を如実に物語っており、嬉々として記事を作る彼女の姿が目に見えるようだった。反面、新聞としての出来はお世辞にも良いとは言えず、まず第一に事実を伝えるべきの紙上が、まるっきり彼女の独壇場と化していた。記者の目を通して捻じ曲げられた事実は記事としての価値を損なってしまうということに、彼女は早く気づくべきだろう。

「なるほど、読み物としては楽しめる、ね……」

 霖之助はこの新聞の特徴を正しく言い当てていると思う。確かに新聞としては三流だが、かといって読む手が止まるというわけではない。むしろ逆で、読むほどにその文章は私を引き込んでいく。

 なるほど、あの記者には事実を伝えるセンスこそないが、なかなかどうしてその才能は作家にこそ向いているのかもしれない。

「なかなか面白いだろう?」

 霖之助の問いに肯定を返して、私は読み終えた新聞を畳んだ。

「よかったぜ、香霖。まさかこんなに楽しめるとは思わなかった」

「楽しみ方としてはいささかアウトローだとも思うけどね。読み終わったなら、そこの棚にしまっておいてくれ」

 霖之助が指差した戸棚を開けると、そこには新聞のバックナンバーが丁寧に積まれていた。数えてみるときっちり二ヵ月分ある。

「一番下のやつを抜いておいてくれるかい、魔理沙」

 言われた通りに新聞を抜いて、それを霖之助に渡す。どうやら捨ててしまうらしい。なるほど、だからきっちり二ヵ月分か。

「あまり集めると収拾がつかなくなってしまうからね。捨てるのは惜しいけれど、こうするしかないんだ」

「いいんじゃないか? だいたい新聞なんて基本的に読み捨てられるものだろうし、それだけ大切にしていれば書いた本人もきっと嬉しいだろうさ」

「うん……そうだね。そう思うと少し気が楽になるよ。ありがとう、魔理沙」

「いや、私は別にそんな……」

 照れくさくなって、私は思わず霖之助から目をそらしてしまう。後頭部をかく仕草はさすがに大時代的だろうか。

 と、そらした視線の先に私は異物を発見した。

 部屋の片隅、薄暗い店の中でも特に濃い影を落としている場所に、それは鎮座していた。

「あ……」

 わすれていたその存在を思い出すにつれ、体中から冷や汗が吹き出してくる。

 何を隠そう、私が壊してしまったあのストーブである。

 霖之助はそれに気づいていないのか、あるいは気づいた上で言ってこないのか、いまのところ私を追及する素振りを見せない。いや、確実に気づいているだろう。キラリと光るあの眼鏡を前に己の存在を隠しおおせる違和感があるのなら、ぜひとも会ってみたい。やはりここは謝るべきだろう。早いに越したことはない。

 そうだ、そうしよう。この決意が揺らがないうちに、謝罪をすませてしまおう。

 ——けれど、やはり怖いものは怖い。

 普段から怒ってばかりいる人間よりもニコニコしている人間の方が怒らせると怖いというのは有名な話で、それはもちろん霖之助にだって言えることだ。だから私はどうあってもあの慈悲の極点に立っているような男を怒らせたくはなかった。そんな未来、想像するだに怖ろしい。

 ぶれた視界に違和感を覚えて足元を見ると、あろうことか膝が笑っていた。背中を伝う冷や汗はさながら滝のようで、心臓は霖之助に届かんばかりの大音量で拍動している。

「こ、香霖。あの、言っておかなきゃならないことがあるんだけど、さ」

 それでも私は、自分の中に存在するすべての勇気を限界まで振り絞って、霖之助に言葉をかけた。弱々しく発した声は緊張に震え、カチカチと歯の根が合わない。そのだらしない姿こそ、霧雨魔理沙一世一代の命運を懸けた乾坤一擲けんこんいってきの勇姿だった。

 霖之助が私に振り向く。眼鏡は窓から差し込んだ光を照り返して、奥の瞳を窺わせない。その光景に思わず息を呑みつつ、私は彼の言葉を待つ。

 しかしながら彼の口から発せられた台詞は、私の想像だにしないものだった。

「ああ、ストーブのことだろう? それなら構わないよ。ちょうど処分しようと思っていたところだったし、奥にもう一台あるから」

 奥にもう一台あるから。

 もう一台あるから。

 あるから。

 あるか

 うお————————————————い!

「何だよそれ! 散々人を恐怖させておいて、それじゃあ詐欺じゃないか!」

「? 何を言っているんだ、魔理沙」

 霖之助は私の言い分が飲み込めない様子で首を傾げている。しかし、よく考えてみればその反応こそがこの場における正常の証であり、異分子は他ならぬこの私なのだった。

「ああ、いや……何でもない」

 それにこの展開はチャンスだ。このまま何事もなかったかのようにストーブの件を流してしまえば我が身は安泰、私にとって得にこそなれ損になるようなことはない。

「でも、やっぱりお咎めなしというわけにはいかないか」

「ん?」

 思考に集中していた私は、ぼそりと呟いた霖之助の言葉を聞き取ることができなかった。

 彼が私に歩み寄ってくる。

「な、何だよ」

 細いその腕が大きく振り上げられた。

「ひっ」

 思わず目をつぶり、身を縮こまらせる私。——何だよ何だよ、てっきり水に流せるとばかり思っていたのに、そこまで上手くはいかないのか——?

「こら」

 ぽかり。

 そんな、可愛らしい擬音が似合うお仕置き。てっきり手心を知らない全力の殴打がくるとばかり思っていた私は、そのあまりのあっけなさに呆然としてしまう。

「え……香霖?」

「別に怒っているわけではなくてね。一応、形だけのお仕置きだよ」

 そう言ってにこりと笑う霖之助。まったく、とことん私を子ども扱いしている。もう自分の行動は自分で決められる歳だっていうのに。

「子ども扱いするな」

 非難混じりにぼやく。

「そういうところが子どもなんだよ、魔理沙」

「……。ごめんなさい。ストーブ壊しちゃって」

「いいんだよ。僕は機械を相手にしているわけじゃないんだ。失敗してこその人なんだから、そのくらいのことには目をつぶるさ」

「……このお人好し」

「ははは。褒め言葉と受け取っておくよ」

 けれどもまあ、率直な感想としては安心したというのが大きい。霖之助を言い負かすことは何年経ってもできなさそうだったが。

 私は奥の間に戻ると、畳の上にごろりと寝転んだ。どうにも形容しがたい心情をどうにか整理するためにそうしていると、ドアベルが来客を告げた。

「霊夢か?」

 むくりと起き上がって店の入り口に目を向ける。しかしながら予想は外れて、そこにいたのはおよそ珍客と呼ぶに相応しい人物だった。

「おや、珍しいね。今日は何かを買いに?」

「仮にもお客である人間にそんな言い方はないんじゃなくて? お店の品位が下がりますわよ、香霖堂さん」

 かっちりと着こなした青地のエプロンドレスに、両肩から下がる銀の三つ編み。ピンと伸びた背すじはしなやかな植物の茎を思わせ、実際の身長よりもずっと高い印象を私に与えてくる。

 珍客も珍客、紅魔館のメイド長、十六夜咲夜が訪ねてきたのだった。

「そうか、じゃあ君はお客さんなんだね」

「その確認に必要性を感じないのですが……まあ構いませんわ。今日はレミリアお嬢様の服を買いに来たんです」

 霖之助と咲夜の会話が始まってしまったため、どうにも出て行きにくくなってしまった。どうしよう。

「服?」

 霖之助の声が続く。そのイントネーションからして、おそらく彼は目を丸くしていることだろう。

「どうしてまた、服なんかを買いに? 君ならそのくらい自分で作れるんじゃないのかい?」

 霖之助の疑問ももっともだ。咲夜は炊事洗濯掃除、何でも万能にこなすメイドだと聞いている。服を作るくらいならば片手間でできそうなものだが……。

「それが……お嬢様は私の作った服では駄目だとおっしゃるんです。何でも、デザインが気に入らないとのことで」

 しゅん、と肩を落とす咲夜。霖之助の困った顔が目に見えるようだった。

 しかしデザインときたか。あのわがままお嬢様の言いそうなことだ。まったく、仕える側の人間は大変なものである。

「デザインって……一体どんな?」

「私は絶対の自信を持っておすすめしたのですが……お嬢様は受け入れて下さいませんでした。……やはり孔雀柄がいけないのでしょうか」

「それだよ、咲夜」

 うん、私もそう思う。

 そりゃあお前、私だって孔雀柄の服なんか着たくない。頼まれたってお断りだ。たとえレミリア以外の奴であっても大抵は嫌がるだろう。

「やはりそうでしたか。私も万人受けする柄だとは思っていませんでしたが、これでやっと溜飲りゅういんが下がりましたわ。ありがとうございます」

 ぺこり、と礼儀正しく頭を下げる咲夜。どうやら彼女はここに服を買いに来たのではなく、ただ単に自分のセンスへの指摘をもらいに来ただけらしい。

「それは別に構わないけれど……え? 君は服を買いに来たんじゃないのかい? まあ子ども服なんて置いてないんだけど」

「はい。それだけわかれば後は自分でできますので、ご心配なく」

「いや、心配とかじゃなくてね……」

 ならここに来る必要はなかったんじゃないかという言葉を、彼はきっと口にできないだろう。お人好しだから。

「それでは、一刻も早くお嬢様の服に取り掛からなければいけませんので、私はこれで失礼致します」

 何と、早くも咲夜は帰ってしまうと言う。エキセントリックな客もいたものである。

「待てよ、咲夜」

 奥の間から顔を出す私。はい、ここでようやく私登場。

「外は寒いだろ? もう少しゆっくりしていけよ。お茶ぐらい出すからさ」

 一見して咲夜を気遣っているかのような台詞だが、それはまったくの建前である。本当は話し相手が欲しかっただけで、これは私が私を楽しませるための誘いなのだ。まったく、つくづく自分は悪だなと実感する。

「あら、魔理沙じゃない。いつからそこに?」

 スイッチを切り替えるように咲夜の口調が変わる。目上の相手とそうでない相手への言葉遣い。この辺りはさすが紅魔館のメイド長だけあって徹底している。

「今朝からずっとここにいるぜ。出て行きづらかったから黙ってたけどな」

「今朝からって……まさかあなた、通い妻の類なの?」

「「違う!」」

 霖之助と声を合わせて否定する。二人揃っての大喝に並々ならぬ真実味を感じ取ったらしい咲夜は、

「そ、そうなの……わかったわ」

 私たちの剣幕に怯えながらも頷いたのだった。



「へえ……お父様が寝込んでいらっしゃるの。それは大変ね」

「そうなんだよ。でも右手がこんなんだからさ。見舞いに行こうにも心配かけちゃうだろって、霖之助に止められてるんだ」

「それでここにいたのね」

「軽い軟禁状態だな。これじゃあ座敷牢だぜ」

「人聞きの悪いことを言わないでくれよ、魔理沙」

 奥の間に、ちゃぶ台を囲んで三人。私たちは緑茶をすすりながら話し込んでいた。

「私としては早く親父の見舞いに行きたいんだけどな。香霖の言うことももっともだからさ。三日間、ちゃんとじっとしてるよ」

「そうね。私もそれがいいと思うわ」

「でもまあ、大丈夫だろうとは思うんだ。何せ永琳がついてくれてるって言うんだからさ」

 永遠亭が誇る名医の腕にかかれば、死に体の病人だって完治させてしまうのだろうから、万に一つも問題はないはずだが、それでも心配が消えるわけではない。だから、さっきの私の台詞は自分自身を安心させるためのものに他ならなかった。

「永琳先生、ね。確かにそれなら安心できるでしょうけれど……そうね。魔理沙には教えておくわ」

「?」

 湯呑みに映る自分の顔を眺めながら、咲夜は呟く。実は茶柱が立っていたりするのだが、彼女はそれに気づいているのだろうか。

「妖怪の山のふもとに、ほこらがあるのは知っているかしら?」

「いや、知らないな」

 初耳だ。

「そこに、どんな病気でも治すという言い伝えの薬草が生えていてね。百年に一度、一週間だけ花を咲かせるんだけど、いまがちょうどその時期なのよ」

「……ほう」

 知的好奇心の旺盛な霖之助が興味ありげに相槌を打つ。

「その花をすりつぶして作った薬は文字通りの万能薬になるらしいのだけれど、肝心の花は周囲を強力な結界に守られていて、容易には摘み取ることができないらしいわ」

 万能薬。

 その単語に、私は多少の引っかかりを覚えた。

 万能薬とはつまり、どんな病気であれ治すことのできる薬ということだ。これは私の勝手な考えだが、薬というのはたくさんある病気のひとつひとつに対応する鍵のようなものだと思っている。ある病気に対してこの薬は効くが別の薬だとさっぱり効き目がないということが起こるのは、鍵と鍵穴の関係によく似ていると思うのだ。その鍵穴にピタリとはまる鍵でなければ、錠を開けることはかなわず無情に弾かれてしまう。薬にも同じことが言えるのではないだろうか。

 ならば万能薬というのは、言い換えればどんな錠にでも合致する鍵だ。そんなものが本当にありえるのだろうか。穴の形状に合わせて鍵が絶えず形を変えるというのか。それはあまりにも都合が良すぎるというものだ。

「つまり、それを摘み取ることができれば親父の病気も治すことができるってことだよな」

 ただ、そんな論をここで展開したところで何が変わるわけでもない。咲夜への相槌は無難なものにとどめておいた。

「そういうことよ。永琳の腕を信用していないわけではないけれど、万一ということもありえるから、これだけは魔理沙の耳に入れておくわね」

「ああ。……けど、本当にそんなものがあるのか? 万能薬なんて、それこそおとぎ話の世界だろう」

「わからないわね。ただそういう花があるとされているだけで、誰かが摘み取って服用したという話も残っていないし、それを拠りどころに考えるのは危険かもしれないわ。けれどね、魔理沙」

 一瞬の間をおいて、咲夜は私を見る。青く落ち着いたその瞳が、一瞬だけ紅く染まったように見えた。

「何があって何がないかなんてことは、一個人がそう簡単に決められたものじゃないわ。私たちはそういうところに住んでいるのよ」

 何と返すべきか、私は言葉を選びあぐねた。

 香霖堂に束の間の沈黙が訪れる。その間にも、掛け時計は静かに幻想郷の時を数えていく。

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