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後悔に先立つもの(後)

「鹿……?」

 ここからではよく見えない。私は藪に踏み込んで、倒れた鹿の様子を確かめる。

「……!」

 枝葉に隠れていたその姿があらわになった瞬間、私は息を呑んだ。

「……おい」

 思わず、そう声をかける。

 鹿は答えない。湿った土の上に横たわり、浅く息をしている。成長した牝鹿めじかだった。悪戯好きの妖怪にやられたのか、腹部がざっくりと切り裂かれており、傷口から赤い血が絶え間なく溢れ出していた。生きているのが不思議なくらいだ。この分だともう助からないだろう。

 植物から妖怪まで多種多様な生き物が住み着くこの森において、動物の死などそう珍しくはない。無論、この森に限らず生命が息づく場所では殺し殺されることなど当たり前だ。鹿の死骸なんてそれこそ腐るほど見たし、きっと私の知らないところではもっとたくさんの死が繰り返されているのだろう。

 けれど。

 どれだけの死を目の当たりにしても、命が失われていく瞬間に慣れることだけはできない。

 それまで確かに息をしていたものが、ただの肉塊に成り下がる瞬間。その時、私の胸は痛いほどに締め付けられて、喪失感に押し潰されそうになる。単純な悲しみとも哀れみとも違う。自分では如何いかんともしがたい生命の理に直面する時、私はそこにどうしようもない無力感を覚えるのだ。

 それまで目を伏せていた鹿が、不意に薄く瞼を開いた。光を失った瞳で、力なく私を見上げている。

 助けて。そう訴えているように私には思えた。

「……すまない。私にはどうにもできないんだ」

 こんなにも生きたいと欲する鹿に、私は何もしてやることができない。

 ほんの少しでもいい。私に医療の覚えがあったなら、この鹿を救うことができたかもしれない。でもそれはもしもの話で、考えれば考えるほどに虚しさはかさを増していく。

 きっと、痛いのだろう。私なんかの貧困な想像力では追いつかないほどに、この鹿は痛んでいるのだろう。

 ああ、こんなことでは私がここにいてもいなくても同じだ。少し前まで私が考えていたことはすべて吹き飛んで、いまはこの鹿にだけ意識が向かっていた。

 私はその場に屈みこみ、鹿の顔に手をやる。

「……」

 かける言葉は見つからなくて、それでも私はこいつを安心させられるだろうか。ただ寄り添うだけの不甲斐ない私は、鹿に何かを与えられるだろうか。

 そんな私の耳に、小さな足音が響いた。

 振り返ると、

「あっ……」

 そこにいたのは、ついさっき、私の前を通り過ぎていった小鹿だった。

 小鹿は私になんて目もくれず、一目散に大きな鹿へと駆け寄ると、私の手をどけてその顔を舐め始めた。

 ……なるほど。この二匹は親子だったのだ。

 親鹿は我が子の顔を愛おしそうに眺めると、安心した様子でそのままゆっくりと目を閉じた。

 それきり、ぴくりとも動かない。どうやら死んでしまったようだった。

 しかし、それでも子鹿は息絶えた母親の顔を舐め続けている。

 まるで、そうすれば生き返ると信じているかのように。

「……だめだ」

 そんなことをしたって、もう遅いんだ——。そう言おうとして、言葉が詰まった。

 子鹿は、動かなくなった母親の体に自分の体をこすりつけている。それはまるでじゃれつくような、甘えるような無邪気さだった。

 この子鹿は、自分の親が死んだことにまだ気づいていないのだ。自分を可愛がってくれない母に不審を感じながら、それでも精一杯に甘えて、愛情を欲している。

「だめだ。お母さんはもう死んでるんだよ」

 寒さのせいか、私の声は小刻みに震えていた。

 そんなことを言ったって、伝わるはずがない。わかっていても、口にせずにはいられなかった。

 子鹿の純真さが、これ以上なく私の胸に突き刺さる。

 もし私がこの子鹿だったなら、一体どんなことを思うだろう。目の前で親の死に目に立ち会ったとしたら、その時の私は何を考え、何を感じ——

「!」

 不意に、親父の顔が思い浮かんだ。

 何年会わなくても、あの頑固親父の顔が記憶から消えることはない。楽しさよりなお苦みの勝る思い出の数々が、私の脳裏を走馬灯のように駆け抜ける。

 そうだ。私にとって目の前で起きていたことはけして他人事じゃない。病床の親父はいまも苦しんでいて、考えたくはないが、もしかすると死んでしまうかもしれないのだ。たとえいま死ぬことはなかったとしても、いつか必ず別れの時はやってくる。

 その時、私はこの子鹿のように親の死を看取ることはできるのだろうか。

 息絶える寸前、親鹿は子の顔を見て心底安心したようだった。もし子鹿が来なかったのなら、親鹿は強い未練を残したまま死んでいただろう。もちろん、子に会えたからといってまったく未練を残さずに死んだとは言わない。けれど最期に一目、子の姿を確かめるという今際いまわきわの望みが叶った親鹿は、それでも幸せだったのじゃあるまいか。そして、もしあの時子鹿が来なかったのなら——。

 親父の死に際に、私が立ち会わなかったのなら。

 きっと私は後悔するだろう。何で仲直りをしなかったのだろうと、自分を責め続けるだろう。それはけしてもしもの話でなく、十分にあり得る未来だ。

 都合のいい解釈かもしれないが、親父だって寂しいはずだ。

 そんなことがあってはならない。後悔してからでは遅いのだ。

 目前に起きた死は、それを私に教えてくれた。

 そうだ。私は何を迷っていたんだろう。つまらない過去に縛られて、危うく私は道を踏み外すところだった。けれどまだ間に合う。この決断はけして遅いものではない。

 いまなら素直に、この台詞が口にできる。

「……家に帰ろう」

 それは久方ぶりに口にした、私の本心からの台詞。

 霖之助に私の出した答えを伝え、胸を張って霧雨家に帰るのだ。

 私は立ち上がる。

 けれどその前に、やることが一つ。

 私は辺りを見回し、手ごろな石を掴んで穴を掘り始めた。

 私に大切なことを教えてくれた親鹿の亡骸なきがらを、このまま野ざらしにしておくわけにはいかない。こんな石ころではいつまでかかるかわからないが、それでも掘り続けていればいつかは大きな穴が出来上がるはずだ。私は無心に石を振るい、土を削り続けた。

 冬場の森は、土さえもが凍えそうに冷たい。石を地面に突き立てるたび、私の右手が悲鳴を上げる。いつしか指先からは血がにじみ、爪の何枚かは剥がれかけていた。

 それでも放り出すわけにはいかない。いくらか掘り進めるたびに顔を出す木の根を避けながら、一心に石を打ちつける。邪魔な帽子はとうに脱ぎ捨て、時間の概念は消え去っていた。

 そうして、ようやくそれらしい穴ができあがる頃には、夜が白々と明け始めていた。

「……ふう」

 軽く息をつき、亡骸を振り返る。子鹿はまだそこにいて、私の仕事をじっと見つめていた。

 私は穴から這い出し、その頭にぽん、と手を置く。もちろん、左手で。

「強く生きろよ」

 なんてわかった風なことを言うと、子鹿はかすかに頷いた……ように見えた。偶然だろう、きっと。

 親鹿の体を抱き上げ、穴に横たえる。子鹿の抵抗があるかと思ったのだが意外にもそんなことはなく、彼(?)は終始神妙な面持ちで私のする様を観察していた。

 亡骸に優しく土をかけてやり、今度こそ私はその場を後にする。

「ねえ」

 そこで、私の背中に少年のような声がかかった。驚いて振り返ると、子鹿が真っ直ぐに私を見ている。

「どうしてお母さんを埋めちゃったの」

 それは頭の中に直接響いてくるようで、事実子鹿の口は動いていなかった。

「お母さん、死んじゃったの」

「ああ」

 涙混じりの声に、私は短く答える。

「お前の母さんは、もう帰ってこない。どれだけつらくても、これからは一人で生きていかなくちゃならないんだ」

「そんな……いやだよ。もうお母さんと会えないなんて……いやだよ」

 子鹿の大きな瞳からは、涙が溢れていた。どうやらこの声は、私の幻聴ではないらしかった。

「大丈夫だ。お母さんは、まだ完全には死んでない」

「……どういうこと?」

「お母さんを思い浮かべて、目を閉じるんだ」

 言うと、子鹿は素直に従った。

「そこにいるお母さんは、笑っているか」

「……うん。僕を見て笑ってるよ」

 その言葉を聞いて、私は微笑みを浮かべる。

「ほら、生きてるだろ」

「あ——」

 子鹿は驚きに目を見開き、次いでぽかんと口を開けてみせた。

「じゃあな。私は忙しいから、これっきりだ」

 子鹿に背を向け、傷だらけの右手をあげて——私は精一杯の格好をつける。

「待って。お姉さんの名前は?」

「霧雨魔理沙。普通の魔法使い兼、霧雨道具店の一人娘だ」

 いささか霖之助を待たせすぎてしまった。急がなければ。

 朝日の差し込む森を、私は店に向かって走り出した。

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